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お内裏様が右にお座りですな。今年は拙宅にもお客様がおみえになられ、甘酒なしの甘い物づくしとなりました。
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嵐電・四条大宮から嵐山までは乗車24分、220円。1929年製造のモボ101形(106)が向かいます。もっとも、小生、黄砂警報に怯え渡月橋には、出掛けられない状況です。トホホ。
名古屋市美術館 2021.3.20
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黒川紀章設計の名古屋市美は1988年4月開館。故郷に出来た新しい美術館なので当初から期待を持って活動を見守ってきた。竹葉丈さんの「名古屋のフォト・アヴァンギャルド」から始まり満州に迫った一連の展示、山田諭さんの「日本のシュルレアリスム」「戦後日本のリアリズム」「画家たちと戦争」といった三部作など、単館企画で重要な問題提起を投げかける展示を幾つも催されてきた。帰省の度に拝見し、企画の意図をお聞きし、勉強をさせていただいた。そして、今回の「『写真の都』物語」展である。これは、高校時代に写真に興味を持ち、写真による表現、自己認識に開眼した半生を振り返えさせていただいた貴重な体験となった。提供した作品・資料の返送をもって一段落するが、さらに、写真史のなかで、中部学生写真連盟の活動が評価され、あらたな、展覧会へとつながる予感と期待に包まれている。
一方、同館では1991年と1996年の二回、マン・レイの展覧会を開催しており、わたしも協力させていただいている。特に後者は、「我が愛しのマン・レイ」と題してわたしのコレクションを紹介した展覧会で、カタログも制作させていただいた。美術館の図書室には、整理番号S12747として、このカタログが蔵書されている他、わたしが1999年に自作したマン・レイ油彩のカタログ・レゾネ『MAN RAY EQUATIONS(マン・レイ方程式)』(限定50部)も収められている。ティモシー・バウムとアンドリュー・ストラウスが準備を進める油彩レゾネは現時点では刊行されていないので、世界で最初の(それゆえに未熟な)レゾネが、名古屋市美にあることを、恥ずかしながら報告しておきたい(整理番号S14863)。
「『写真の都』物語」展会場 2021.2.6→3.28
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『我が愛しのマン・レイ』1996年
『MAN RAY EQUATIONS』1999年
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京都 1975年頃
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杉山さんはI先輩と二人で四日市から鈴鹿を越えて桂のアパートまで来てくれた。深夜まで話をした時、Iさんから「言葉を曖昧に使っちゃいけない」と指摘されたのを思い出す。杉山さんの写真集『SUD』のタイトル・ページには「ある出会い そして SUDを指向する」とある。この写真集がわたしの原点、青春の「良い出会い」だった。それが、今回の名古屋市美「写真の都」まで続いてきた訳。2015年に形見分けとして預かったとき、美術館で展示したいと思った。おおくの人の助けをかりて実現することができ感無量である、心から御礼申し上げたい。
『SUD』シリーズのパネル。
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杉山さんは沢山の写真集を架蔵し、勉強されていた。振り返ってそのように思う。何もないところからは、何も生まれない。「東松照明」を知らない人たちから、何が生まれるのだろう。今の若い人たちにとっての「東松照明」が誰れなのか、教えてくれたら嬉しい。
外出自粛が解除されたので、テレビ塔の近くで会食をした。
すると、どうでしょう名古屋テレビが寄贈した大噴水からの北側が、お洒落なショッピングモールに変身していて、驚いてしまった。中川理氏(建築史)の論評によると、都市公園法改正による規制軽減で実施可能となった久屋大通公園の大規模改修事業だそうで、「名古屋は地下街の町とも言われるが、人びとが地上に戻ってきた。ただし、店舗の並べ方や通路の作り方などは、明らかにショッピングモールのそれである」氏は「囲われた内部空間を前提としたものであり。そのために、ここでの賑わいは周囲の街への接続が絶たれている」と指摘されている。パチリ、パチリと数カット、先輩諸兄に遅れないよう足早に横切った。
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さて、展覧会の反省会、いやいや、よもやま話です。悍右さんとも交流のあった先輩は「最近、愛知大学写真部の展覧会を拝見したけど、東松照明を知らないと聞いて、ひっくり返ったよ」とビールをグビリ。
オイルサーデンの缶焼
牡蠣フライ
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『ダイアローグ(対話)』こそが、写真なんで、「黙食」を求められても困るよな。悍右さんも、東松さんも、杉山さんも、マスク越しでは意志が伝わらない。京都に戻る新幹線も空席が目立っていた。
2月6日から始まった名古屋市美術館での「『写真の都』物語 ─ 名古屋写真運動史:1911-1972」展も、あっという間に最終日となった。コロナ禍の感染症対策で開催が延期されながらも、無事に拝見させていただくとができ、有り難く嬉しいことだった。この後は、それぞれの都市・地方で写真の歴史を俯瞰する展覧会が開かれるだろうと期待する。東京の1970年、大阪の1970年、広島の1970年、どんな切り口となるのだろうか?
広小路通り桑名町
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写真機械と材料の店・山本五郎商店(広小路通り栄町一丁目)のあった戦前の様子を知らないが、1969年の国際反戦デーでは、写真の奥から手前へと、隊列に沿って写真を撮っていたのです。街路樹ってあったけ、伏見通り手前のカメラ店・ヒダカヤのおばちゃんには、写真部でS君ともどもお世話になった。あれから52年---
科学博物館に展示される名古屋市電1400型半銅製ボギー車(1936年)。1401「今池行き」
アレクサンダー・カルダー モビール『ファブニール・ドラゴン』(1969)
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美術館のブログによると、竹葉丈氏が語った解説会の参加者数は2/20「芸術写真を越えて」52名、 3/6「前衛写真から主観主義写真へ」50名、 3/20「東松照明と<中部学生写真連盟>」86名だった。展覧会評がこれから、いろいろと現れるだろうと楽しみ。当事者としては500点あまりの出品目録が紀要に掲載されるのを期待したい。
有難うございました。
名古屋市美術館2階会場 2021.3.28(日)迄
「写真を楽しむということは、写真を作ることだと言いました」(山本悍右)
左から、杉山茂太『SUD』シリーズ、展示壁を越えて、石原輝雄「高校生写真」
左から、髙橋章『断層』、名古屋女子大『郡上』、展示壁にSugiura Yoji「刈谷・依佐美基地撤去デモ1969.9.21」「広小路通り、名古屋駅前1969.10.21」、石原輝雄『名古屋10.21』、手前ケースに写真絵本『三里塚1』『三里塚2』
追加展示 石原輝雄「広小路通り 名古屋1969.10.21」「栄 名古屋1969.11.13」
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中部学生写真連盟高校の部・機関誌『フォト・オピニオン』No.1〜No.3 表紙撮影 杉山茂太
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悍右さんは「『ぼくたちが生きていく情熱と、ものを作るということは積極的に繋がっています』って書いてたね、あれから50年、みんなどうしているのだろう。『美味しいものを食べて、楽しくやらなくちゃ! 』(とS君)、やっぱり味噌カツ定食ですか、『あんたが、FBに連盟バッチって書くから、今日は付けてきたよ(ハハ)』」。と、とりとめのない会話。
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写真への立ち位置は人それぞれ、「私写真」に対する批判的意見もあると承知する。しかし、サークルを運営する「組織論」とはいかなるものだろう、集団の力と集団における「個」とは…… 『山本悍右とフォト・オピニオン』については、芸術批評誌『リア』14号(2006号)に寄稿した。手にとっていただけると嬉しい。
中部学生写真連盟・会員バッチ φ1.5cm ピンどめ 金文堂徽章製
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洒落たバッチはY氏所蔵の連盟機関誌に載った座談会記事によると、早稲田大学の雨宮俊一氏の発案で、美校の生徒が描いたものを富士フイルムの増田という方が手直しされたとか。「真中にレンズの目を入れてね。後にそれを右へ寄せた」。女子学生にも人気で、アクセサリーにするから譲って欲しいとの声もかけられたと云う。杉山さんがネクタイピンにも流用していた(フォトオピニオン2号表紙参照)のに刺激されて、わたしたちも作りました。学生服の詰襟用にネジをハンダ付けしたりもしたのですが、熱を加えすぎて壊してしまったのを思いだす。---技術がありませんな。
全日本学生写真連盟・中部学生写真連盟 会員証 5.5×9cm
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最終解説会では、わたしとSugiuraの他、髙橋章さんが付けて参加した。下の写真は彼のもので、こちらは「全日本学生写真連盟」と記名、杉山さんが持っていたのもこれだと思う。こちらはネジ式。ヤフオクに出品されたのを見た時に買っておけばよかったかしら(笑)。
懐かしく誇らしげに、このバッチを付けられるのは、素直な高校生の特権なんだろうな「写真」を考えることに、人生の希望が直結していた時代だった(感謝)。
名古屋市美術館2階 出口から俯瞰、右: 石原輝雄、Sigiura Yoji「名古屋10.21」他、正面:名古屋女子大学「郡上」、右:全日「この地上にわれわれの国はない」
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今展では、会期中にも調査が進み新たに展示されたものも多かった。1970年前後の学生写真運動のセクションでは、高齢になったとはいえ、その時代の青春に今もって忠実な写真青年も多く、「こんなのもありますよ、これは展示して欲しい」などと、さまざまな要望、昔話が寄せられたと聞いた。開催時には散漫な印象を与えた最終コーナーも、強化(特に展示ケース)され、当事者として嬉しい気持ちとなった。
高校生だった筆者には、集団撮影行動に際して準備されたパンフや詳細な地図、資料などの存在が新鮮だった。当時、マイネ・クライネで手にしたかもしれないが、記憶がはっきりしない。『大須』撮影の時に作れば良かったかもしれないが、「目撃者としての視点」がある方向へと変形される危惧を、やはり、感じるのだった。
ケースに入った「通信広島491 第1号」など関連資料を読んだ。「8.3集会: 8.6をどうするか」当時の熱気といえば、その通りなのだが、日程表にある「各自資料を読み広島へ向かう視点を形成」から始まって写真集作成へとまとめ上げようとする方向が、「なんだろう」と思う。違うとする意見もあるが「個人でやるのではなく、上級生がシナリオを書いて、みんなで撮る」世に出た写真集『ヒロシマ 広島 hirou-sime』(eが逆)にいだいた、よそよそしい距離感がぬぐいされないままなのである。
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最終解説会では「部外者が同窓会に紛れ込んだようですが」と広島大学OBのHさんも穏やかに発言された。氏の大学でも写真集発行が計画され下版まで準備が進んでいたという。その氏が現在、「もう一つの写真記録」という活動をされている。東写美で催された『日本写真の1968』展(2013)が契機となって、「その存在を知られず、埋もれている写真群」(全国の大学写真部の学生、OB・OGが生み出した)を「保存して未来に残すアーカイヴス」だという。↓
Hさんたちが記録した写真群は上記サイト内の「広大8.17-18」に表示された画像をクリックすると頁を捲ることができます(3/29にホームページ・リニュアールに気付きました)。↓
また、「もう一つの写真記録」によると、1994年に実践女子大写真部の集団撮影行動『足尾』(1969-71撮影・発行部数200)と、2018年に立教大写真部<いわき>集団撮影参加者による写真集『いわき1974-76』(発行部数150)が刊行されている。2016年の『郡上』も含めこの動きは大きなうねりとなって、全国に広がるのではないだろうか。
会場出口脇の一室で写真集の頁がテレビモニター上で開かれていく。ショーケースには「状況1965」「状況1966」「10.21とはなにか」「'69 11/13-17 佐ト訪米阻止斗争」「この地上にわれわれの国はない」などの、491が発行した写真集が並べられている。いずれもが、異常に高騰した古書価格、今の時代に新たな問題提起をしているのか、単なる投機目的なのか、判らない。
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印画紙に焼き付けたプリントで鑑賞する「写真」というのは、当時の感覚とはズレていたように思う。印画紙はセレクトやイメージの確認に用いるもので、表現は、網目印刷の写真集。絹目の印画紙などは営業写真館の範疇で、ひどく時代遅れで、捨て去るべき対象だった。本(雑誌も含めて)の形式は写真というメディアに直結した時代の気分だったのだろう、友人のS氏が東京で『足ぶみ飛行機』と出会い、名古屋にもどってテキスト部分をガリ版刷りで再現した。サークル活動に熱中していたわたしたちには、必要なアイテムだった。
写真集『足ぶみ飛行機』17×17.8cm 明治大学カメラクラブ 1966年7月発行 筆者所蔵品はカバー欠。
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最終解説会で明治大学カメラクラブのAさんは、「軽井沢合宿で900点ぐらい、夢に出るくらい写真を沢山見た」「だれが撮った写真なのかすぐに判る」と具体例を示しつつ「北海道101」もふまえて「一人でやるには手に負えなくて、100人単位でやらなければ」と集団撮影行動の体験、「自己認識の方法」と「現実認識の方法」について語られた。そして、写真集の最終頁から「心で見なくては物事はよく見えないってことさ、かんじんな事は目に見えないんだよ」というサン・テクジュペリの言葉を引用された。
竹葉丈氏の解説では、「写真サークルの形骸化した共同制作から脱却し、活性化させるための集団撮影行動を模索する過程で作られた写真集、伝説の写真集だが、多くのひとがサークル運営のテキストだと理解していた」との事だった。
テキスト『足ぶみ飛行機』19.5×13.7cm pp.56 刊記なし 1969年頃
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会場の最終コーナーに全日会報や「われわれの写真 '77〜'78」などが展示されている。
内海大新旅館での全日合宿、1970.4.1-2
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集団撮影行動を岐阜の郡上で行った名古屋女子大学のHさんは、内海の合宿で「写真」に目覚めたと語っておられた。この合宿には小生も杉浦やYとともに参加したが、徹夜で語る「読む」写真というのは、何をもたらしたのだろうか---人生を変えてしまうのですな。竹葉丈氏の解説では「民衆の歴史を写真で辿るその試みは、写真部員34名により、3年にわたり撮影された74点の写真によって構成された」。当時、写真集の出版が予定され、チラシには「かって農民のなかに燃えた血は、いま人々のなかにどのようにあるのか……そしてサークルとは……集団撮影行動とは……'68 '69 '70と、中京の一小サークルが、敢然とたちむかったそれらの問題のすべてをはらんで、この写真集『郡上』はある」と記されたが「写真部OGによって発行されたのは、撮影から48年後の2016年のことであった」。
彼女たちの写真営為(青春とすべきか)が48年経って写真集として結実する時、写真史家の金子隆一氏は、案内文で「失われた何かを回復するのではない。それは写真の始まりから2016年までの間に撮影された写真の総量と対峙する意志である」と語り写真史とは何なのか?の問を投げかけている。
わたしはあとがきにある「それぞれの役目が終わろうとしている年齢になり」と云う記述に、目頭を押さえる。人生を変えるような「良い出会い」---「写真」のみでなく--- が、今を生きる子や孫たちのそれぞれの青春にあることを願う。
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『郡上』のコーナーの先には、髙橋章の『断層』
資料展示: 撮影行程・合宿日程・地図など
Hさんから、「300部制作したが、『郡上』はもうほとんど残っていない」と聞いた。 尚、昨日報告した 『断層』と同じように名古屋市美術館のミュージアム・ショップで「お一人様一冊に限って」プレミアム価格(税込 5,000円)で販売されている。興味のある方には手にとってもらいたい(品切の場合はお許しください)。
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話題は戻るが、徹夜明けの大新旅館ロビーのテレビで「よど号ハイジャックの中継画像」を観たのを覚えている。わたしとしては「写真による世界認識に力があるなんて、思えなくなっていた」。「自己を変える」アプローチは、写真を使うにしても、「集団撮影」とは別ではないのか、きっと、「そのように感じていた」と50年を経過して思う。
昨日のブログで紹介したように、全日合宿の夜を撮影していた髙橋さん。その人から当時の様子、「写真」についての問、「カメラと視線が一致する写真」そして、「断層」と云うタイトルに込めた思いなどをうかがった。彼は対峙する眼を持ち真剣に「写真」ってなんだろうと問いかけ名古屋まで来たという。前日まで、わたしは「撮り鉄」に熱中しておりました。
さて、「写真をとおしての人生」あるいは「人生をとおしての写真」を自問していた全日(中部も含め)の関係者(人生を社会と読み替えてもよいけど)のなかで最終解説会の会場でパチリ、パチリをやっていたのは、彼とわたしぐらいじゃなかったか。パチリをしておくこと、やがてアートになります(ハハ)---と、発言すると、「マン・レイに叱られる」
髙橋章 『断層』から
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写真集の最初の見開きに上掲した写真、下に手書き文字で「私は見た! 私は見た、小さな人間のいることを 私は見た、彼らの見知らぬ断面を 私は見た、教育の贋造物を 私は見た、自由を望む小さな命のあることを」とある。
髙橋章 胸には連盟バッチ。
21×15.2cm pp.32 当時のチラシによると、定価480円、送料80円、発行日1974年1月10日 取扱い株式会社491
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生写真を貼付けた自作写真集を制作していた髙橋のところに、卒業して数年後「合宿の時に見せてくれた写真どうしました、写真集を出したいのだけど」と491の人から連絡が入ったと云う。自作本よりもサイズは小さくなったが、こうして世に出た写真集。旅館の畳の上に並べられていた写真が本の形になった、手にした時、多大な影響を受けた。挿入された叫びのような自戒のような言葉がまた良くて‥‥ わたしも「写真」や人生、社会を真剣に考えていた一人だったと思う。青春の日を思い出しつつ、髙橋さんの自書にサインをしていただいた(感謝)。
名古屋市美術館のミュージアム・ショップでは、入手困難な希少本となっている『断層』をプレミアム価格(税込 7,800円)とはなるが「お一人様一冊に限って」販売されている。興味のある方には手にとってもらいたい(品切の場合はお許しください)。
名古屋市美術館「『写真の都』物語」展の最終解説会が本日20日(土・祝)午後2時から美術館2階講堂で催されます。講師は担当学芸員の竹葉丈氏でテーマは「東松照明と<中部学生写真連盟>」。東松については、すでに美術館で大規模な個展を開催しているので、今回は概略にとどめ、「学生写真連盟」について濃く語る予定との事、全国から当時の写真学生(?)が駆けつけ、熱く青春を語り合うのではないかと、期待しております。先輩諸氏、お手柔らかに---
先生の目を盗んで(知っていたでしょうね)文化祭の招待状折を内職しておりました。他校の写真部の人も沢山来てくれました。折りたたむアイデアは茂太さんからの借用です。
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展示会場では、一部展示替えが行われ、写真セレクトに用いた『大須』のキャビネ写真(ビンテージと言ってみたい、ハハ) が沢山展示されております。臨場感をお楽しみ下さい。↓
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東松照明デビュー『やきものの町 ─ 瀬戸 ─』岩波写真文庫 165 18.3×12.7cm pp.62 1955年10月25日発行
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中日新聞 1967.6.9 山本悍右、後藤敬一郎対談「写真の美」(部分)
--- (以下・引用)
「中央に出ると毒される」
山本 私は学生写真連盟の人たちを買っている。作品としてはまだまだだが、自分たちの置かれた位置を写真に結びつけようとしている。
後藤 私も二、三の大学の写真部の仕事を見ているが、考え方は進んでいても写真作品になっていない。もっと学生らしく自分を大切にして写真に向かうべきだ。
山本 たしかに表現法を知らないが、私はあえて技術的な指導はしない。それにカメラ雑誌も見るなといっている。それよりも自分の位置のみつめ方が大切だといっている。いまは過渡期だが、こういう連中の中からいいものが出てくると思っている。若い人では馬場敬介、髙橋明旺君らが個展を開いているが、こういう人たちは親切に育てていきたい。
後藤 地方にいることが大切だ。中央に出ると毒されてしまう──。
山本 後藤君だって、たまたま住まいが名古屋ということだろう(笑い)。名古屋にいると問題にされないから東京へ出たがるのだろうが、親切にたたいてやらなければ名古屋から写真家は育たない。名古屋出身といえば東松照明君ぐらいだな。
後藤 東松君は中央に毒されず自分を守りつづけている。「長崎」などもいい仕事だった。この地方からこの人につづく写真家がどしどし出てきてほしいと思う。
『東松照明の世界・展』カタログ 18.2×25.7cm pp.194 カタログ制作: 株式会社491+白岩登三靖 巻頭挨拶文: 福島辰夫。
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名古屋市美術館2階 企画展示室
全日本学生写真連盟会報
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会報の創刊年は不明だが1965年4月の53号までが確認されている。連盟事務所には会報やタブロイドの包が沢山あり、これを椅子代わりに打ち合わせをしておりました。OBになって3年程後に富士写真フィルムの名古屋出張所から大須のワキタ商会へ事務所が移転した折に処分れたと聞く。今では貴重な一次資料だけど、わたしも世帯を持った時にほとんど処分したから、しかたありませんな。
中部学生写真連盟高校の部 機関誌『フォト・オピニオン』no.1〜3、キャンペーン写真集『10.21とはなにか』『この地上にわれわれの国はない』など。
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東京の古書店目録を見ておりましたら、キャンペーン写真集二冊セット(『10.21とはなにか』『'69 11/13-17佐ト訪米阻止斗争』)が状態悪そうなのに128,000円の古書価で掲載されていました。怖ろしいですな---
全日会報 Young Eyes
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全日本学生写真連盟会報 がタブロイド形式となった。1966年4月11日から1971年10月15日が確認されている。独特の言葉使いと写真、広告などが懐かしい。展覧会には展示されていないが、個人的にはゴヤ、アンソール、関根正二などで飾られた「週刊491」が好きです。