南仏紀行-29 ラ・シャンブル・クレール書店

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地図では、サン・シュルピス通りが細くなった先にラ・シャンブル・クレールと云う写真集専門の古書店がある。この店で一九九〇年代前半にギャラリー・オクタンの『マン・レイ 裸体』やギャラリー・アラン・パヴォーの『マン・レイ 街の正面から裏側まで』等を購入した。それはインターネットが普及する前の時代で、在庫目録の依頼と注文で手紙のやり取りを随分と行った。当時は注文から現物の到着までに一ヶ月は必要だった。(140頁)

 

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東隣りも古書店で、こらの方はオフホワイトで塗られている。中央のガラス扉を挟んで左右のウインドウにディスプレイされた書物。店名の下に「高価買入鑑定」と金文字で書いてある。大きなテーブルに中年の女性が一人、アーチ型の木製梁が中央を走り、ちょっとしたサロンの雰囲気。念のためにと店内に入りマン・レイの在庫を尋ねる。若い男性が現れ対応してくれた。ベルフォンドの『大人のアルファベット』を示されたが、既に持っていると伝える。これならどうだと、店の奥から出してきたのは『ファシール』、これは一九六〇年代にメルシェールが装幀した美本で、舞い上がる軽やかなヌーシュの裸体を捉えたソラリゼのオリジナル写真が本に綴じ込まれている。これにはマン・レイのサインが入っているのだが、つい「これはヴィンテージでは無い」と口走ってしまった。それで持っていた名古屋市美術館での『我が愛しのマン・レイ』展のカタログをとりだし、コレクションしているわたしの写真との違いを説明する。買わない者が稀覯本を手にするのは申し訳ないが、無理にお願いして限定番号を確認すると、H・C版だった。(142頁)

南仏紀行-28 フェルー街

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わたし達はサン・シュルピス教会のある界隈へ到着した。マン・レイが一九五一年にカリフォルニアから戻り、亡くなる迄の二四年間を過ごした最後のアトリエは、教会を越したフェルー 街にある。(137頁)

 

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 マン・レイの未亡人ジュリエットが健在だった一九八二年六月、彼女に誘われアトリエを訪問した。(138頁)

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今、目の前にあるアトリエの扉は黒く塗られ、真鍮の真新しいドアノブが取り付けられている。右の壁には暗唱番号を打ち込むキーがあって、カバーには「ROSWITHA」と黒い文字。右の壁には青ベタ白ヌキで「2bis」の表示。その色は攻撃的でわたしが旅行中に求め始めた深みとは異質のものである。(139頁)

 

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ガレージの扉越しに見上げるアトリエの窓、隣家との境界部分にも手入れがしてある。アトリエの前に立ち、幾枚もの記念写真を撮る。(139頁)

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ジュリエットが一九九一年に亡くなるとアトリエにあったマン・レイの品々は競売に掛けられ世界中の様々な場所へ散らばってしまった。(138頁)

 

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この場所を描いたマン・レイの有名な油彩の構図で写真を撮りたいと思ったが我慢する。謎を載せた荷車を引っぱりアトリエに戻ってくる人物が必要だからな。扉の右側には単車が停められているが、前回には駐車する車が通りをふさいでいて、油彩とは隔たった光景だった、あの時にあったのはヤーンの単車だった。(140頁) 

南仏紀行-27 ノートルダム大聖堂

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正面の浮き彫りを確認する間もなく、人混みに連れられ聖女アンナの門から内部へ。近年の清掃工事で長年の汚れが落ち、見違えるように白くなった外見と内陣の暗闇、その中でゆれるロウソクの炎が心にしみる。(136頁)

 

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南側廊を進んで西の薔薇窓を振り返る、南の薔薇窓も同様に奇麗だ。フラッシュ撮影の光が幾つも飛んでいるので、翼廊のところで焚いてしまった。キリスト教世界を視覚で物語るステンドグラス、直進してくる光は神の声に等しい。(136頁)

 

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緊急事態宣言延長(6月20日まで)

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5月11日 Y新聞 全面広告 宝島社

人流規制──外出制限って、各美術館の対応が気にかかる。→ 閉館している京都文化博物館京都市京セラ美術館は6月1日より再開館だそうです(5月28日)。

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Y新聞には「奔流デジタル」と題する特集記事が載るけど、ネット空間でのコロナやワクチンに関する情報流布に懐疑的な「フェークニュース」指摘、購読者としては正確で使える情報開示をしてもらえれば良いのだけど、期待してはいけないのかしら。

 

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5月16日 15:57

『父の道具』展示即売 at 古書ヘリング

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14.8 × 10 cm 案内状

父の道具 農具・工具・民具その他[展示即売]
林哲夫作品展 installation, collages
2021年6月5日(土)〜13日(日) 11:00-19:00会期中無休

at BOOKS HERRING 古書ヘリング 二階

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父の遺した道具が「作品」になると感じたのは、まだ父が元気だったころである。元気といっても、八十近い年齢になり、---(略)--- あるとき、それらのなかに、ため息がでるくらい味のいい色、素朴な形をした鉄や木の道具が混じっていることに気が付いた。ようやくそんな年齢に自分も達したということだろう。 (『父の仕事場』2019)

 

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2020.9.20 BOOKS HERRING 

 

林画伯のブログ"daily-sumus2"には、「まだ先行きがはっきりしませんが、緊急事態は延長されるようですが、古書ヘリングの二階にて「父の道具」展は変更なく開催する予定です。ご無理のないようでおいでください。」との案内がありました(5月27日)。展覧会、楽しみですね。

南仏紀行-26 ポンピドゥー・センター

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それから急いでポンピドゥー・センターへ。左手の建物は移設されたアトリエで、ブランクーシの彫刻がちらりと見える。開くのが二時からなので今は諦めねばならない。(131頁)

 

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チューブ状のエスカレーターに乗って最上階へ登る。風は遮断され雨がやんで雲の流れが心地よく、青空がところどころでのぞいている。眼下、右手後方にエッフェル塔、右手上部にサクレ・クール寺院の卵型のドーム、素晴らしい眺めだ。(131頁)

 

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南仏紀行-25 20世紀とその資料書店

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センターに続く手前のミシュレ広場に面して古書店がある。きっとリブレリ・アルカードの吉永昭夫がお薦めと言っていた店だ。洒落た作りの白い外装で、ディスプレーされた書籍の写真を撮る。これは期待が持てそうだ。(129頁)

 

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主人は再び書庫に降り、さらに貴重な一冊をひろげる。一九七二年にパリの市立美術館で開催されたマン・レイ回顧展のカタログ、まっさらの極上品。わたしの手許で保管するのは神戸のトアロード画廊で『ダダ・メイド』と云うオリジナル作品を買った時に、おまけで貰ったヨレヨレの一冊。パリで状態の良い物との出会いがあれば購入したいと思っていたのだ、主人がタイトル頁を拡げると中央にマン・レイ自身による献辞が青い文字で書かれているではないか、これは非売品だろうな、欲しいけど売ってくれるのかと上手く英語で伝えられない。(130頁)

 

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それで、記念にと、サインの入ったページを拡げている主人の写真を撮らせてもらう。資生堂でのリーフレットをプレゼントし名刺交換。ゆっくりと書棚に食らいつき、あれこれと手に取ればシュルレアリスムに関する珍品が見つかるだろうと思うのだが、時間が許さない。 (131頁)

南仏紀行-24 カンパーニュ・プリミエール通り

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三月初旬の寒い朝。モンパルナス墓地を出て、エドガーキネ大通りをメトロのラスパイユ側に向かう。マン・レイのアトリエがあったカンパーニュ・プリミエール通りが直ぐに始まっているはずだ。ギマールによるアールデコ様式の地下鉄入口から交差点の反対側を見ると、一段高いアールデコ装飾のアトリエ風の建物に気付いた。(126頁)

 

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パリのこのアトリエで仕事をしていた頃のマン・レイは、キキ・ド・モンパルナスと一緒だったのよね。マン・レイはニューヨークの両親にあてた絵葉書に「ここに住みます。部屋代は月二五ドル--すてきなところです!」と書いている。昨年の暮れ、写真評論家の平木収から「石原さんイストラル・ホテルに泊まったことあるの」と尋ねられた。ホテルはアトリエの北隣り。二九番地だが二人はここに部屋をとっていた。デュシャンも利用したし、後半にはリー・ミラーも泊まった。バスローヴを羽織ったマン・レイの背後にリー・ミラーの裸体写真がピンナップされている写真もあったなと想像は膨らむ。次回、パリへ来る時には泊まってみたい。(126頁)

 

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今も使われていると思われる建物の内部を覗くと、二層式で画家のアトリエ向きだろうと想像できる。(126頁)

 

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カンパーニュ・プルミエール通りは三〇〇メートルほど、先に進めばリュクサンブール公園に続く。ゴダールの映画『勝手にしやがれ』のラストシーンで、ベルモンドが撃たれたシーンもこの通り。 (128頁)

南仏紀行-23 モンパルナス墓地

2006年3月10日(金)

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世界中からやってくるマン・レイのファンがお墓に手を合わせる時、ジュリエットが一緒に現れる。彼女の筆記体で『平面卵』の表面に刻まれたマン・レイの墓碑銘は「呑気にしているけれど、無関心ではいられない」、名前と生没年表記の下には「ラブ・ジュリエット」とある。一体化したジュリエットの墓石には二人が並んで撮った平凡な写真。「この次も二人で」と書いてあるのが黒い文字なので目立つ。年齢差は二一年、気むずかしい中年男と若い素直な娘が 写っている。くるくると回って立っていた円盤が回転を終えた時、彼女が支えたのだろうか、夫の死後、十五年にわたって夫の芸術的名声を支えた。評伝によれば「墓石を建てる事はマン・レイの意志に反するのでは」と悩んだジュリエット。偉ぶらずあっけらかんとした様子のマン・レイに似合うとジュリエットは思ったのかもしれない。二人の写真は誰が撮ったのか、二人が出会ったカリフォルニア時代、娘のようなジュリエットとお父さんのカップル。写真の二人が示しているのは、マン・レイの黒子に徹していたジュリエットが最後には前に出た事。そして、二〇〇六年の今朝。(123頁)

 

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暗い空から幾筋もの雨。ゆっくりと感傷に浸る訳にもいかないが、持参した拙箸『マン・レイになってしまった人』(限定番号十八番)を供え合掌する。(124頁)

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 昔、ツァイト・フォト・サロンの石原悦郎が「門番が観光客が持ち込むカメラを没収するから、判らないようにすり抜けて行くんだ」と言っていたのを思い出して、呼び止められないよう、左側の建物には視線を向けないようにして、さっと通り抜ける。(122頁)

『マイネクライネ』京都支店 開店のお知らせ

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5月20日(土・友引)  開店 お待ちしております。

 

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純喫茶・マイネクライネ 名古屋本店 (中区栄三丁目) 
ハーフティンバー風看板建築 風見鶏付き

 

 土曜日の午後になると、中部学生写真連盟の事務所から三蔵通りを西に歩いてすぐ、今のプリンセス大通りと交わる処にあった喫茶店・マイネクライネで他校の写真部員と話す事も多くなり、女子校の部員も加わって連盟活動の活性化についての相談を繰り返した。

 『状況1965』『状況1966』の二冊や、東松照明の写真集『日本』を手にとったのは目を開かせる良い経験となった。窓側の席で頁を捲り、映像を全身で咀嚼する。

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縮尺1/100

マイネクライネへ一緒に通ったS君が造ったペーパークラフトの図面を送ってもらって、3号店を開店させました。

 

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良い時代でしたな。

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1972年頃の本店・店頭、写真集コレクターと中部学生写真連盟の仲間。

木村伊兵衛の本

以前付き合いのあった写真集コレクターは、『JAPANESE SCHOOL LIFE THROUGH THE CAMERA』(1937年)、『小型カメラの写し方・使ひ方』(1937年)、『王道楽土』(1943年)などの木村伊兵衛の戦前書籍を架蔵しているが、一番珍しいのは『小型カメラ写真術』(1936年)だと言っていた。氏は第一回木村伊兵衛賞を受賞した北井一夫主宰の「のら社」刊『パリ』を六冊も書棚に並べる人なので、そのままにお聞きした。
 わたしの手許にあるのは、以下の四冊+雑誌一にすぎない。いまさら集めるのもいかがなものと思うから、図書館などで拝見しよう。

 

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『小型カメラの写し方・使ひ方』(1937年、玄光社)

 

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木村伊兵衛傑作写真集』(1954年、朝日新聞社)

 

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木村伊兵衛外遊写真集』(1955年、朝日新聞社)

 

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木村伊兵衛写真集 パリ』(1974年、のら社)

 

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『アサヒカメラ 増刊号』(1979年12月、朝日新聞社)

木村伊兵衛の先斗町

木村伊兵衛の写真からf:id:manrayist:20210429204244j:plain

(左)大阪・道修町の旦那:1957年 (右)先斗町:1955年 

 

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雨の先斗町、後方に東華菜館のシルエット

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マン・レイ・イストの先斗町(2014年3月)

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 「ときの忘れもの」のブログにコメントを寄せられたMさんの指摘(18日13:23)「このポスターは近所の釜造りの美術館に貼られていて親しみ深く日本の美人を眺めてました!」とは下記写真のものかと思います。f:id:manrayist:20210519090255j:plain

大西清右衛門美術館(2021年5月14日)

ママとボトル

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展覧会は23日(日)迄 何必館玄関 高峰秀子(左)、秋田おばこ(右)

 

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四条通大和大路西入ル 南座、東華菜館 撮影: 2013.3.9

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八坂の塔

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先斗町

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 会員制で営業されたママのバーも、しだいに雰囲気が変わった。おでん屋さんの時代を懐かしみ、あの手料理を味わいたいと思いつつ、下手なカラオケをひとさまに聴かせるわけにもいかず、自然に足が遠のいた。

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  杉下右京が通う小料理店「花の里」、つづいての家庭料理「こてまり」、こんなお店が見つからないかと、探索をしておりますが、コロナ禍もあって難しい。口にピッタリ、財布にやさしい、そして和装の美人、そんなお店はないでしょうかね。