2004.2.1-2.29 マン・レイになってしまった人

February 29 2004

今朝の新日曜美術館横浜市美術館の倉石信乃氏をゲストに向かえて『新たなるまなざし 写真家・中平卓馬の世界』 番組中でライバルであり親友でもある森山大道氏が時代状況について「フライパンの中で豆が熱くなるような」と表現。中平氏は同じものを沢山撮った写真から一点選んだ時、聞き手の「どこが違うのですか」と云う問いに「はっきりしているから」と答えている。氏の各時代の写真に対していろいろな言葉を使って語ることも可能だろうが、現れつつある「植物図鑑」の前で意味があるのだろうか、やはり、立ち止まる。時代の突端にいる写真家。「いい顔してるな」

 午後、ギャラリー16で佐藤仁美さんの「記憶をもつ空間」を観る。そして画廊主の井上道子さんと世間話。先日来の悩みがずいぶん軽くなった。氏のアドバイスは進む道を的確に見せてくれる。その後、京都市美術館での「二条城障壁画のすべて」展の会場へ、白書院の水墨画「西湖図」で眼をとめた。

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山崎書店前で記念写真におさまる「スムース友の会」出席の各氏。
   
   
   
  

 

 当然だけど、『日録』には書き手の人柄がにじみ出る。わたしが毎日訪問したくなるすがすがしさの筆頭は林哲夫氏の「デイリー・スムース」で、古書店シールの渋さにも唸るが、綴られていく出来事が気持ち良い。氏が山崎書店二階の京都パラダイスで開催している『sumusパラダイス展』をやっと覗いた。最終日となった本日は午後3時からスムース友の会の側面もあるので、紙面での顔見知りの登場を期待したわけである。展示の経緯、状況については氏の日録で推測していたが、さすがに画家、上手い。氏のブックデザインが 三次元として再現されている。本の世界がページを読み進む間に開かれ、閉じた世界と指先から拡がる時間や人の手触りへと深化する感覚を受け取った。展示品の中にわたしが氏に送った葉書や、インタヴューを受けた時(2号)の写真などが加わっていたので恐縮してしまった。
 山崎氏が丹精をこめて作った『京都パラダイス』の旗のもと、来場された山本善行氏と岡崎武志氏との即席サイン会も開かれたので、新刊『関西赤貧古本道』(新潮新書2004年2月刊)を買い求めた。腰巻きには「自慢じゃないが、金はない。しかし、365日古書店通い。ねらうは安い、面白い、珍しい。これぞ関西流儀の超絶技巧!」とコピーがある。同病の仲間として興味深い一冊である。  
  
『sumus』2号の紹介では、わたしの資料もあって---
      
このテラスでビールを一杯できたら最高。だけど古書には水分厳禁だからな---  
    
二人の著名な著者は、同級生だったと聞いた。
左; 山本善行氏。
右; 岡崎武志氏。
     
    
     
     
    
     
     
     
     
    


February 28 2004

昨夜は一人寝の夜具でこんな一節「部屋のなかの極光、なるほどこれは一歩前進だが、これがすべてではない。愛があるだろう。私たちは芸術を、そのもっとも単純な表現、つまり愛に限定しよう。」(110頁) ブルトンに惹かれるのは何故だろう、マン・レイがこの手から滑り落ちている。午前中マリーノ氏への返信文を考え「今は展覧会のカタログやポスター等を熱心に集めています、いずれ、お会いしましょう」としか書けなかった。本当はフィレンツェへ行きますとか、譲ってとか、書きたいのだけど、つらい状況が生活を覆っている。

 午後、近くに開店する大型ショッピングセンターへ行きかけたら、西大路高辻角にあるアートフォーラムJARFOの張り紙に気が付いた。「本日、PM4:10~ ギャラリートーク 井田照一 & 太田垣實」それで8階に上がるとパート1の今貂子+倚羅座による暗黒舞踏パフォーマンスが始まっていた。写真を何枚か撮る。会場で三島喜美代氏とも遇った。その後に太田垣氏が進行役となったザックバランな対談。50名程の人々を前にして。京都で生まれ育ち絵を始めたころの話題から伺う。病気をされた事も話されたが、「予期せぬ人との出会い」と云ったのがキーワード。最も影響を受けた3人として、氏はダライ・ラマジョン・ケージを挙げたが、後の一人は教えてくれなかった。気ままで、シャイな作家の肉声といったところか-----

アートフォーラムJARFO
京都市右京区西院平町5 JO-INビル8F

今貂子のダンスバフォーマンス。

対談する太田垣實氏(左)と井田照一氏(右)。   
   
   

   

   

   

   

   

   

   


February 27 2004

2月最終日。売上、利益共に目標値をクリアしたので、気持ちよく帰宅。「街灯はその夜、郵便局へゆっくりと近づいていきながら、一瞬ごとに立ちどまって耳をすますのだった。こわかった、ということだろうか?」(139頁)などという引用も、一方ではあるのだが、「私はその手を手にとった。唇までもちあげると、その手は透明であり。それをすかして見えるのは、辛酸をなめた神々しい女たちがくらしにゆく大きな庭園であることに気がついた。」(163頁)とさらに続けて、ビールを飲んでいる夜の頭には、刺激がぬるい。シドニーからのマン・レイ展カタログが未着のままで、気になっている。


February 26 2004

帰宅時に同僚と二年前の話題をいろいろ、もしも、というのは禁句だけど、順調であったならコレクションも充実できたのにと悔やまれる。しかし、最悪もあった訳で、諦めるしかないか--- そして、車中でこんなフレーズを「学校のチョークのなかには一台のミシンがある。小さな子どもたちは銀紙の捲毛をゆすっている。空は風によって刻々とぶきみにけされてゆく黒板だ。」(132頁) 車両は地下にもぐって走る。桂時代、わたしは自室に「雨鳥」と書いたサインを写真と共に掛けていた。それはブルトンのこんな言葉に誘発された結果。「私がなによりもまずとらえたいのはいちめんの雨の不可思議な楽園。琴鳥とおなじくそこにいる雨鳥である。」(136頁) 巌谷國士氏は「「雨鳥」は架空の存在である」と訳注で記している。

 食卓にかますごが上った。二杯酢でビールを一杯。春である。そして、スウェーデンの消印で、メイヤー画廊から素晴らしい『マン・レイ: 想像人/航海人』と題したフェアーでの出店ブース案内が届いている。油彩が3点とオブジェが4点掲載されている。近年、オークションで見掛けた油彩がそこにある。コレクターではなくて画商がマン・レイを買う。熱狂的なファンはまだ現れないのかと眺めている。ここにいるのに。


February 25 2004

アンドレ・ブルトンに惹かれて、わたしは青春を過ごした。もちろん、フランス語を理解出来ないので、巌谷國士氏の日本語によるブルトンの思想、詩の言葉である。続けて以下の引用を「シュルレアリスムにのめりこむ精神は、自分の幼年時代の最良の部分を、昂揚とともにふたたび生きる。それはなにか精神にとって、いましも溺死しようとしているときに、自分の生涯のとらえがたい部分のすべてを、またたくまに思いおこしてしまう人の確信のようなものである。」(71頁) 収入が激減し瀕死のコレクターであるわたしは、マリーノ氏のメールに動揺する。ひさしぶりにブルトンの『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巌谷國士訳、岩波書店 1992年刊)を手にし、ふっとその世界に入ってしまった。ここにはわたしの青春がある。「大地は私の足の下にくりひろげられる新聞にすぎない。ときたま写真が目にはいり、それはいくらか興味あるものだし、花々はそろってその匂いを、印刷インキのいい匂いを立ちのぼらせている。」(104頁)などと。 当時では気付かなかった現実が、重く低くたれ込めている。そして、鉄道少年として列車の灯りが田畑を通り過ぎる幾夜もの道行きを車内で経験した身には、具体的なイメージとしてこびりつくブルトンの小さな緑の文字。
 
 「午前5時の逃走のおりには、青白い光が、特急列車の羊歯のベットでやすむ美しい女乗客たちをおそい、午後1時の逃走のおりには、人殺しのオリーヴを通りぬけてゆく。」(88頁)

 羊歯のベットで海老のようにうずくまり、C57のドラフトに運ばれた夜の少年は、30年経った今も、美しい女乗客たちを夢見ている。なんと悲しく、夢見ているだけなのだ----  

 写真家の今井一文氏から先日の写真撮影上手く仕上がったとメールが入った。感謝。 展覧会に向かって新しいレールを敷設する工夫のように、コツコツと道を延ばしていこう。


February 24 2004

引用を、と思いながら先に進んでしまっているので、気持ちが上手く伝わるか心配なのだが、例えば「そして、私自身にきいてみたまえ、この序文の、くねくねと蛇行する、頭がへんになりそうな文章を書いてこざるをえなかった本人に。」(52頁) 今日は「生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。」(84頁)など。賢明な『日録』の読者諸兄には、誰のどの本かお解りだろう---、決定的なのはこの部分「イメージの価値は、得られた閃光の美しさにかかっており、したがって、二つの伝導体間の電位差の関数なのである。」そして以下のように、これがふくらむ

 
「自分を陶然とさせ、自分の指先の炎を吹き消すいとまさえほとんどあたえないような、それらのイメージにはこばれて、精神は先へすすんでゆく。これこそは夜のなかでもいちばん美しい夜、稲妻たちの夜であり、これにくらべれば昼のほうが闇夜である。」(67-68頁)。

 つらい通勤の行き帰りに、著者から力を与えられる。コレクターを押しやるような新たな廣野がわたしに必要なのだ。お供の題名は明日お伝えしよう。


February 23 2004

マリーノ氏から詳細にわたるメール。楽しく、興味深く、泣きながら読む。夢ではなくて、現実がネットつながりでフィレンツェまで。わたしにはかなわない夢だけど、氏のようにマン・レイに囲まれて生きたいな。氏は書肆目録でわたしの「1948年のドアノッカー」を紹介してくれている。感謝。
 

February 22 2004

昨日の作品整理やら写真の取り込みなどをしていたら、遅くなってしまい、さらに雨も降り出して外出を断念。それで、ホームページにリンクのコーナーを追加する。「マン・レイつながり」お気に入りから飛ばすより、この方がラクチン。毎日、訪問するサイトが、今後どう変化するかご期待下さい。結局、展覧会のコーナーを削除する。展覧会の紹介は同時進行のホットな感じが「売り」だと思うので、これは、最初のページやら『日録』やらで、フォローする予定。


February 21 2004

写真家今井一文氏が光扱い人になって、
トップライトを受けるマン・レイのオブジェ。

作品の魅力を再現する為には、
作者をどこまで理解するか、
作者が写真家である場合には、
緊張関係が倍増される。

   
  
   
   
    
    
   
 
   
   

アンドレ・ブルトンは「魔法のランタンの頭を持つ男」とマン・レイを呼んだが、今井一文氏の撮影作業を拝見しながら、写真家と云うのは「光人」だと思った。ライトを巧みに操りながら意図する質感と影をネガに写し込む。魔法のように『ダダメイド』のレザーの影が立体で現れる。『ピンナップ』の安全ピンが起立する。アイロンの鉄の重量感やメトロノームのクリップ、漆塗りの黒が光を当てられ、別の黒に変化する。そうした事が氏の手にしたライトから生まれるのだから、スゴイ。右から左へ光の帯がスタジオを横切る。「魔法のランタン」はストロボー・メーターの積算によって頭の中で作られていく。『マン・レイ』展の作品撮影に立ち会いながら、光扱い人の頭脳を思った。マン・レイが見たのと同じ物を、わたし達も見ているのである。


February 20 2004

フィレンツェ在のマン・レイ狂いからメールが入った。マリーノ氏は、『モダニズムへの変革; マン・レイ』展のカタログを見てわたしに連絡しようと思ったらしい。メールに書かれたコレクションの内容に涎をたらし、茫然自失で確認をした。重要な油彩やデッサンやオブジェや写真をコレクションに加えている。その素晴らしさにわたしは泣いている。チェスセットだって各年代の木製やアルミ製で5種類そろえている。圧巻のエピソードはローマにあった現代美術の画廊がクローズした時に纏めてマルチプル作品を手に入れたと云う話。日本ではどうにもならないし、遭遇してもわたしの資金力では、ゴメンなさいの世界。数年、良いマン・レイ作品を入手出来ていないので心が荒れる。でも、生活の実用の側の要請が、続くだろう。細々と資料を求めながら、オタク的な世界にはまらず、客観的なコレクターであり続けることは、可能なのだろうか。リタイアしたコレクターも耳栓があれば救われるのだが。


February 19 2004

昨夜のしゃべりすぎで声がおかしい。夜、写真家の今井一文氏が『マン・レイ展』の作品写真打ち合わせで来宅。


February 18 2004

会場で一番好きな位置だと
辻倉多恵子さんがポーズをとってくれた。

   
   
   
6時半に高島屋前で待ち合わせなのだが、その前にギャラリーマロニエに寄って辻倉多恵子さんの「ハハコ+ラブ*レター」展を覗いた。彼女の案内状を偶然頂いた時に親子関係のベタベタした展覧会かとも思ったが、何故か気になったのである。会場は母親を撮った写真と母親への葉書。娘を撮った写真と娘への葉書が、対面するように構成され、観る者はメッセージをはさんで行ったり来たり、拡大された葉書の文面を読んだり、写真を見たりと、JR北陸線に乗車しているような充実した距離感を会場で体験する。富山出身の作者は、成安造形大学に進学し親元を離れてから、けんかばかりしていた母親に対する気持ちが変わったと云う。この事はだれもが通過する一般的感情だが、それを作品化することはすごい。解りやすくて気持ちが真直ぐに伝わる展覧会である。写真と言葉の共作。決定的瞬間の裏返しに個人的時間が拡がる。冷蔵庫の中身を何気なく見るカメラの視線は、日々の生活を定着する。この感じがわたしの求める写真であり、わたしが好きな写真生活。自己癒着せず客観的であって、なおかつ熱い。「私の母親はどうしようもない程の心配性で、まるで母親がそこにいるかのように手紙が私の元へやってくる」「母を取り巻く日常風景、それは私自身にとっての心象風景」と作者は語る。良い親子関係があるからこそ発表できるような幸せ。わたしの娘にも勧めたい展覧会である。



辻倉多恵子 写真展 「ハハコ+ラブ*レター」展

2004年2月17日(火)~22日(日)
12:00~20:00 最~18:00
ギャラリーマロニエ 3F 京都市中京区河原町四条上ル塩屋町 電話; 075-221-0117

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 今宵は写真評論家の飯沢耕太郎氏をゲストに迎えて、京都写真クラブの鍋を囲む会である。参加者は15人、幹事はもちろん森岡パパ。先日呑んだ黄桜酒場たつみの隣、二階に上がった百練でワイワイ。豚しゃぶが煮立つ前からステーキや焼き鳥をあてにグビグビ。生湯葉、京本豆腐、白菜が美味い。参加者がそれぞれ自己紹介。発足した京都学生写真連盟への署名を、実行委員の小池貴之氏から求められ、一同、熱く応える。わたしは肩書きに「元中部学生写真連盟高校の部」と書いた。若い人の情熱が嬉しい。作品ファイルを持参する人もいて、華やかな情報交換。しかし、今宵はワールドカップ一次予選初戦の特別な日。店にテレビがあったので、後半30分頃からワイワイ、イライラ。ロスタイムに久保竜彦が決めたので、いっきにテンションがあがった。それで、二次会は八文字屋。久し振りに萩原健次郎氏と話す。氏も京都写真クラブの一員だが、ライカ使いとなっている。ジャズCDの事などを聞きながらいいちこを一杯、二杯とあおる。飯沢さんが現代詩手帖の常連投稿者であったと云う話も聞いた。そして、三次会はATHA。今度は赤ワインをゴクン。カメラの電池が消耗してしまい撮影はおあずけ。終電で帰った。 

  
ロスタイム、
久保が見事なゴールを決め、大喜び。
   
   
   
   
   



     
 

階段を降り、店の前で
京都写真クラブ恒例の記念写真。
中央に飯沢耕太郎
今回はわたしも列に加わった。
   
      
     
     
     
     
     
     
     
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八文字屋での詩人萩原健次郎   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
  

February 17 2004

暗号化を厳しくかけている為だろうが、あまりに反応が遅く、ネットショツピングが1時間たっても終了しない。あげくにセキュリティー警告が出るしまつ。夜も1時を過ぎてしまったので断念。


February 16 2004

コレクターの笹木繁男氏の事が気になっている。ホームページ情報によると氏の展覧会が3月5日~28日の会期で福井県立美術館へ巡回されると云う。『あるサラリーマン・コレクションの軌跡 ~戦後日本美術の場所~』 情報によると展示作品に「コレクター本人のユニークな解説」が付くと云う。掲載されている3点の場合も興味深い。さらに、会期中の3月20日(土)に「コレクターと語る会」が予定され、氏がコレクションの秘密を語ってくれるとの事。これは是非とも聴講したいとスケジュールの調整を考えた。そして、福井県立美術館の姿勢も好感が持てる印象なので、ぜひとも福井まで行き、氏のお話しをしっかり伺いたい。各駅停車で3時間程の道程も小旅行のようで楽しいかな。
 氏の納得させられるメツセージがホームページに紹介されているので転記する。

 巷の著名作家の大作中心の王道コレクションに対するならば、一サラリーマンであった私のコレクションはさしずめローカルな小品コレクションともいえる。私の家族が、これらのコレクションを指して“ガラクタコレクション”というのに、どこかで私自身納得しているのも以上の理由による。勿論このガラクタとは、家族の心情的なもので、作家や、作品を指していっているのではないことはいうまでもない。

 どんな人なのだろうと、益々気になる。


February 15 2004

名古屋へ出掛けて重く辛い話題。9時頃戻って地下鉄四条駅を上がったら、出掛けに見ていた白木蓮が大きく咲いていた。何時も眼を楽しませてくれる池坊文化学院のショーケース。研究コース龍見香子さんの生け花。お花には見られる向きと角度がある、人生もそうした事だろうか。風が冷たい。


February 14 2004

河野医院で一本入れてもらった。ヤバイ薬ではなくて花粉症の杉エキスの事。1990年に発症した時、鼻からスーと水一筋に悩まされたが、四条東洞院上ルの耳鼻咽喉科河野医院を紹介されてから救われた。抗体検査の結果では、ハウスダストに反応しているらしい。その為、杉も桧も草花も、もちろん、古書市の均一台に近寄った時も含め、年中症状が出る。土曜日あたりからムズムズしていたが、今日のように春一番が吹き荒れた日は最悪である。お仲間も多く一時間待ちだったが、これは早い方。シーズン最盛期には3時間なんてこともよくあった。早めに予防し、それぞれのエキスを打っておけばなんとかなるだろう。

 夜半頃、『マン・レイ展』出品作品一次案を纏め投函。強い風が横殴りで、ポストまでの数メートルも寒い。


February 13 2004

読売新聞でこんなコラムを読んだ。「箸には口を通じて、使用者の人格が投影されている。他の人の箸が触れた食べ物を口にしたら、神道でいう「けがれ」が伝染する可能性がある。そんな深層心理が箸づかいの作法に潜んでいる。鍋物には箸を通じて、囲む人びとの人格が混交している。それは無礼講の料理である。セックスでいえば乱交パーティーにあたる食べ方の料理だ。」(読売新聞13日夕刊14面) 筆者は国立民族学博物館名誉教授の石毛直道氏。『乱交の料理』と題したこのコラム、我が家の鍋奉行の振るまい、知らない間に宿ってしまった「おなじ鍋をつつきあうこと」への違和感、連帯感の欠如へつながる心理の説明かと読んだ。我が家では家族であっても、鍋に直箸は禁止(親父の箸だけかもしれないけど)されている。衛生上の問題意識だろうけど、漬け物の鉢の取りまわしも、当然「取り箸という中立の箸を」使う。筆者は「直箸のタブーをあえてやぶり、おなじ鍋をつつきあうことによる連帯感が生じる。そこで、鍋物はコンパにつきものの料理として普及する経路をたどった。」と結んでいる。名古屋人としては、くんずほぐれず、入り乱れての箸バトルに違和感の無い時代を長く過ごしたので、宴会でのモード切替も容易であるが、京都人として育ってしまった娘達の今後が心配である。やはり「けがれ」は口から忍び寄る。ここでは言葉で----



February 12 2004

今夏に開催される『マン・レイ展』の準備で、電話やらメールやら。

 オーストラリアで最初の大規模な『マン・レイ展』が開催されている。2月6日から4月8日までシドニーニューサウスウェールズ美術館。その後、ブリスベーンメルボルンと巡回する。トリヤー氏のコレクションから200点程が出品されているらしいが、どんな雰囲気なんだろう。カタログを手に入れなければ。そんなメールも入れた。


February 11 2004

昨夜に続いて本棚の整理をしながら、展覧会への貸し出し品を検討する。午後、山崎書店二階にオープンした「京都パラダイス展覧会」初日とギャラリー16のひろいのぶこ個展を拝見する。紡ぎ人ひろいさんの今回の仕事は「手フェチ」の身には刺激的。エッジのしっかりした織物・オブジェをあまり知らない。案内状に使われている「Downwards」の不思議な指先に立ち止まった。彼女の言葉がステキだ「手は観る。眼は撫でる。指先は透ける皮膚を突き抜けてあなたの林床へするすると届く。ごらん、燐光する造胞体を。」


February 10 2004

航空便を開ける前に
記念にパチリ。
それにしても、
散らかったままの机上。
   
    
    
    
「今日こそは届いているように」と気合いを入れて帰宅。この思いが伝わり机上に待ちかねた郵便物が置かれていた。持ち上げると重い、量ってみると350gある航空便(料金43.40ドル)。消印を見るとニューヨークを4日に出ているので、これだと普通の所用日数だ。1日には手配してくれているだろうと勝手に思っていたので、とても心配していた。内容はオークションで落札したハーパース・バザー誌5冊(1935年3月、1936年6、7、9月、1937年9月15日) さっそく硫酸紙のカバーを掛け対面する。しかし、残念なことに欠損ページがあって状態が悪い。もっとも、わたしに必要なマン・レイ頁は切り取られていないようなので、ひと安心。同誌のマン・レイ作品が掲載されている頁のコピーを持っているので、確認出来る訳だが、切り取られたページが気に掛かる。
 カードへの書き込みと、書棚にスペースを作るのに手間がかかってしまった。コレクターの心理は複雑だ。荷物が届くまでの、じらされる感じが、悪女に騙される子羊の心境で、楽しく怖い。自虐的であるのかな。後日、書棚から取り出し、マン・レイのファツション写真について考える場面を想像する。70年近い古い雑誌に、いましばらくの時間が必要だ。わたしの時間を---


February 9 2004

ニューヨークからの荷物がまだ届かない。


February 8 2004

午前中に雛飾りを出し掛け軸を『柳桃』に替えて春の準備。昼食後、自室でコートにマフラーと云うなさけない格好をしている。その為、外出が億劫になって、頼まれ事やらネットサーフィやらで夕方になった。でも気分転換に近くの古書店と新刊書店に行く。陽はさしているのだが、自転車の身には風が冷たい。スタジオヴォイスの3月号「雑誌文化伝説'70-'85」を手に取ったら飯沢耕太郎氏による石原悦郎氏へのインタヴュー記事「BAD INTERVIEW」が掲載されていた。つくば写真美術館'85の失敗で抱えた負債額が1億8千万円だった事、35,000冊刷ったカタログは断裁30,000冊となってしまった事。編集委員6名(伊藤俊治、横江文憲、平木収、金子隆一飯沢耕太郎、谷口雅)の選択基準が「脳細胞の大丈夫な人たち」だった事。そしてV字回復の後、最近は上海を舞台に活躍しているとの話。悦郎氏との出会いから今日に至る時間の経緯と照らし合わせ、夢中で立ち読みしてしまった。サービスと判っていても氏の話は「あいまいバー」のジャンルが面白い。


February 7 2004

昨夜は、西澤豊氏に御礼のメールを入れ、リーフレットを横に置いて岩波書店刊の『リー・ミラー写真集 いのちのポートレイト』を取り出し、遅い時間まで楽しんだ。今朝はその余韻に包まれての目覚め。

 終日、寒さに怖じ気づいて出掛けられず、必要な手紙を幾つか書く。夕食は久し振りにすき焼き。家族がそろった冬の夜は暖かくて楽しい。ゆっくりケルト神話の壮大なファンタジーロード・オブ・ザ・リング」(関西テレビで8:03-11:39放映)を見る。北欧の妖精物語でもあるようだが、撮影地のニュージーランドフィンランドは、どれだけ離れているのだろう。バソコンの前で凍えながら、「マン・レイへの冒険の旅」に出たいと夢はふくらむ。
 就寝前、西澤氏から以下の返信メールが入っていた。

 ヘルシンキのギャラリー、えらくたいそうな名前ですが実態とずいぶん違いますね。1Fがゲームセンターとショッピングセンター、2Fが美術館で入ってすぐがリー・ミラー、メゾネットのように入ってから上がる3Fがルイーズ・ブルジョワでした。シールは入り口で太目のとても感じのいい女性スタッフが左肩に貼ってくれたものをリーフレットに貼り変えたものです。観客はかなり多く、ベビーカー持ち込み可なので乳児を連れた若いカップルなど肩肘張らない雰囲気でそれでいて集中して見られる空間でした。

 会場の様子が氏の言葉で、スナップ写真のように再現されている。シールを貼ったスタッフの指先が、リーフレットに残っていたんだね、だから、昨夜、不思議な感じがしたのかな、「それでいて集中して見られる空間」 羨ましいが致し方ない。


February 6 2004

Exhibition of LEE MILLER
in 26.2.-21.4.2002
at Taidemuseo Tennispalatsi 
21 x 10 cm.
    
     
     
     
     
     
     
     
     
     
    
     
    
     

京都写真クラブの西澤豊氏がわざわざ『リー・ミラー展』のリーフレットを弊宅へ届けて下さった。感謝。使われているソラリゼされたリー・ミラーの横顔にチケット・シールが貼られた臨場感溢れる一品。淡いプルーの色彩と写真のバランスがなんとも雰囲気良く、遠い異国の寒さを想像させる。氏はショッピング・センターのような場所だったと、先日、説明してくれたが、カタログを手にして確かめると、ヘルシンキ美術館のテニス宮殿ギャラリーとある。会期は2002年2月26日--4月21日。「20世紀の最も賞賛される優れた女性写真家」として紹介されるリー・ミラーは「マン・レイと一緒にソラリゼーションの技法を発見」し「第二次世界大戦時の米軍従軍写真家」としても活躍。晩年は料理に熱中したが、1977年に膵臓癌で死去。この展覧会はリー・ミラー財団が協力し、彼女の映像200点と個人的な品物、文書資料で構成されたと云う。

 イングランドのファリー・ファームから、フィンランドヘルシンキまで運ばれたリー・ミラーの品々。すり切れた軍服を眼にした西澤豊。それを裏付けるリーフレット。わたしも見たかったけど、こればかりはしかたがない。西澤氏が現地で体験したオーロラはどんな光の帯だったのだろう。手許に運ばれた氷の精のようなシールを爪の先で愉しみながら、リー・ミラーはマン・レイの最高のミューズだったけど、それ故、いつまでも掌に留まる事なく、フッと溶けた自由な妖精だったと思った。 


February 5 2004

実はロンドンでのオークションは翌日(3日)サザビーズの方でも開催された。こちらの方も「シュルレアリスム芸術」を掲げ、総額は8億円。最高値は1929年のピカソ油彩で1億7千万円。マン・レイは油彩『午後の怒れる人たち(Lot.78)』が掛けられ、予想価格2倍以上の9千万円で落札された。この作品も昔、東京で見ているのだけど、わたしにとって悲しさの点では今一つ。このオークションで注目していたのは、最初のイメージに近いメトロノームの『破壊すべきオブシェ(Lot.64)』で、予想価格の4倍近い1,400万円まで競られた。何に惹かれるのか、誰が落札するのか。同日、クリステイーズの方にもマン・レイ油彩が出品されていて、イタリアのマルコニー旧蔵品が落札価格370万円。手の届かない現実の前で、わたしは引退したコレクター。傍観者であろうとするのだけど、同時期に重なると興奮する。


February 4 2004

一昨日のセールは日本円で総額18億円だった。落札価格や不落札品のチェックをすると、コレクター達の心理が良くわかる。ロット中最高価格だった二点は1億9千万円のマックス・エルンスト『逃亡(Lot.58)』とルネ・マグリット『帰着(Lot.69)』だった。わたしの気になるマン・レイは、期待された『レダと白鳥』が不落札で終わり。エステメート3,200-4,800万円で登場した『壁(Lot.85B)』も4,200万円まででストップとなった。彼の油彩の胸を締め付けられるような悲しみを理解出来るのはわたしだけだと、今日も感じた。一桁も二桁も先の世界だけど、何時か「この手にかき抱く」キャンバスを夢見る。


February 3 2004

落札結果はまだアップされていないが、クリステイーズ・ジャパンのNさんがカタログを送ってくれた。テキストがしっかり収録され、オークション・カタログというより画集のおもむき。帰宅が遅かったので、パラパラとみながら『壁』って魅力的だなと、1998年に東京で出会った日の事を思い出している。


February 2 2004

土曜日にナウマンさんからマン・レイのオークションに関するメールが入っていたのを知った。それによれば、ロンドンのクリステイーズで今頃開催されている「シュルレアリスム」セールに『壁』と『レダと白鳥』という二点の重要な油彩が出品されていると云う。ナウマンさんはオークション・カタログの該当作品解説を執筆されていて、文献目録にシュワルツ氏やフォレスタ氏の著作と共に、わたしが刊行した『マン・レイ方程式』(銀紙書房 1999年)をカタログ・レゾネとして記載された。私家版が公式に認められた訳で、編者としては嬉しい。


February 1 2004

読売新聞の朝刊「本よみうり堂」中の正高信男氏「評判記」での冒頭に「人間、五十の坂にさしかかるとやたら若い時分をふりかえりたくなるのが今の日本人、とくに男にとっては過去の学生を中心とした政治運動にまつわる思い出が、強く残っているらしい」(2月1日 9面)とあった。銀紙書房の最新刊『指先の写真集』もこうした流れの一冊なのだろうか。次回作もこの傾向だが、その次の企画は脱皮しているなと、ストーブの前で暖まりながら思った。

 日曜日である。昨日、購入した展覧会カタログをパラパラと眺めている。収録図版は47点。メモを取らなかったけど、あまりに日本的であったのか掲載されなかった2点の物語、主催者側の会話が気にかかる。ともあれ眼の記憶が薄くならない前に、対話をするのは重要である。「バルトがしばしば公式のレターヘド---高等研究院またはコレージュ・ド・フランス---つきの紙に描いたという事実によって、それはバルト自身の(制度的)権威を掘りくずす戯れとしてみなされることができる。つまり、その紙は偶然にも手元にあったものであり、それゆえ「いたずら書き」もしくは「殴り書き」、書状、文学記号学講座の教授が愛人にあてた恋文なのである!」(ディーバック・アナント 65頁)、どこか熱のあるエッセイ、音楽と色彩が与える至福。バルトのデッサンの前で、観る者は「恋文」を受け取った当人の気持ちになり幸福になるらしい。そんなたたずまいが、紙面の余白にと、昨日の会場を思い出している。

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 京都写真クラブの拡大理事会が河原町のギャラリー・マロニエで開催されるので夕方から出掛ける。中心の話題はクラブ公式の機関誌を発行すること。顔見せの自己満足ではと躊躇する部分もあるが、このクラブの良さである自由な雰囲気が紙面に現されれば成功かと、議論が進む過程で段々考えが変化した。回覧されたダミ-がそこそこの出来なので不安が解消された。どんな参加の仕方がわたしとして可能なのか、楽しみの部分が膨らむ企画である。この朝、若い作家の仕事を観る為に京都へいらっしゃった写真家の細江英公氏が、会場にも顔を出されたので、写真についての大先達の魅力的な話題で一同おおいにもりあがった。「写真の人だけではなくて、いろんな人が参加している、こんな雰囲気の会は他には無い。デモクラートの頃を思い出すよ」との喜ばれようで、その場で京都写真クラブへの顧問要請を快諾いただいた。感謝。
  
  その後、裏寺の黄桜酒場たつみで新年会。細江氏の隣の席だったので、ヴンテージ・プリントの問題やマン・レイの事等をお聞きする「昔、ツァイト・フォトサロンでマン・レイ展があった時、<ビーズの涙>が欲しかったんだけど、直前に売れてしまっていて、その買った人が高校生だったと聞いて驚いた」事等。「マン・レイの写真は70年代、2,000-3,000ドルでまだ安かった」と説明すると、ご自身のプリントは当時235ドルだったと教えて下さった。又、わたしの左隣に座られた西澤豊氏はオーロラを見に行ったフィンランドでリー・ミラーの展覧会が開催されていたとの話し。彼女の部屋が再現されていて、軍服やらカメラ等も展示されていたという。京都写真クラブーのメンバーはそれぞれ一家をなしていて、話題も豊富で深い。前田好雄さんは祇園祭りのお稚児さんの白いお化粧が、変化を現さない印しで神になる事の現れだと力説。細江英公氏の『鎌鼬』や川田喜久治氏の『地図』が再版されると云う話題も聞き、大衆的な酒場でリーズナブルなてっちり鍋をつつきながら麒麟ラガーをガンガン呑んで良い気持ちになった。

黄桜酒場たつみで
恒例記念写真におさまる
京都写真クラブのメンバー。
上段中央に細江英公氏。
撮影者ではなくて、
写される人になっておけばよかったと、
みんなの写真を見ながら思った。