充分に納得がゆく。」(「トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者」192-193頁)
October 27, 2004
寒くなって街には「雪やコンコン」(灯油販売車)が登場。帰宅の阪急電車で地上に上がる時、目の高さにデュシャンの幾つもの「泉」、展覧会がもう始まるんだね。告知の大判ポスターが貼ってある場所が女子トイレの横なので、デュシャンも苦笑いだなと、横目で通りすぎた。
さて、今日で埼玉県立近代美術館での「マン・レイ展」も終了。次は山梨県立美術館で11月3日からのスタートである。そろそろ、担当者と調整をしなくては。行ったことのない街なので、夢が膨らむ----
October 26, 2004
バタバタとしながらの毎日。通勤のお供は「トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者」(大平具彦箸 現代企画社1999年刊)。まだまだ読み進めているところ。「トリスタン・ツァラ」がルーマニア語読みで「故国にあって悲しき」の意である事をこの本で知った。著者が鋭く指摘するフランス的知性が取り込もうとしたダダである「平行線の衝突」の時代状況が、本書の中でどのように展開して行くのか、楽しみである。例えば「髭の生えた心臓の夕べ」に関連した記述では、「ブルトンらのグループが---リヒターやマン・レイの映画であれ、関心を抱いた跡は全くない」(146頁)とあって、興味はつきない。
森岡和世さんからギャラリー・マロニエ(四条河原町上ル、電話075-221-0117)で開催されるエッチング展の案内が届く。「初めての銅販画、幼心を楽しみました」とあって、早く観たいなと葉書をピンナップする。展覧会は11月2日から7日までで、金島ゑ子、逸見亜古、吉田佐知子との四人展。
October 25, 2004
中日完敗、あまりの不甲斐なさに、ふてくされてビール。
October 24, 2004
冬に備えた家の用事がたまっていて、やっとあじろを絨毯にチェンジ。床の間飾りも梅山の山水画「寒渓午暖」に入れ替える。晩秋向きの画もあるのだが、冬が進んだこの絵、冷気に凛とした気分が今に一致する。そして、新潟県中越地震のニュースを聞いたり観たりしながら外出せず、一日を過ごした。
October 23, 2004
『Play Time展』
上段二枚は南会場
下段は北会場、
スクリーンに観客が、突然現れる。
京都芸術センターで二人の若い作家、共に1980年生まれの尾崎祐介、見増勇介の両氏と出会った。センター中庭のテニスコート脇ベンチで話をしていた二人がアーテイストの雰囲気で、会釈が展示作家のスタンスだったので、声を掛けてしまったのだ。二つの会場を見終わった後で、京都新聞(16日朝刊)に書かれた太田垣實氏による「ギャラリー」欄が気になっていた。ビデオカメラ内蔵のおもちゃの電車が走っている芸術作品のタイムラグ。氏は記事で「瞬時に送られて来る映像を数分のタイムラグで送り、鑑賞者が南から北へ移動したころに映写される工夫があれば、自分自身の映像が映る驚きも加わって、…………」(注1)と書いているが、わたしの記憶では、タイムラグが記者の提案ではなく、作品の動きだったので、「あれ」と思った訳である。
『日録』の読者に、尾崎、見増両氏に伺った事も含め説明すると、この『Play Time展』(10月31日迄開催)は、「「スケールと視線」をテーマに2つの展示空間を使ったマルチメディア・インスタレーション」で、題名はジャック・タチの映画からとられている。作品に仕組まれている「表--裏、遠--近、広--狭、軽--重、最大--最小、拡大--縮小」といった二重性の中に観客は行き来する事になるとされる。京都芸術センターは中庭を挟んで南と北に会場が別れている。本作品は南会場奥の円いテーブルの上に、ガラスで区切られた小さな部屋(北会場の10分の1)が置かれ、中にリートフェルトがデザインしたイス(これも10分の1)等があり、そのガラス箱を巡った楕円軌道の上をヨーロッパ風の市街電車がゆっくりと走っている(一周45秒程)、黄色い車両と赤いカーペットが演出する洒落たレイアウト。このリリパットの世界に向かって「あなたの回りをちょっと見渡してみてください。きっと愉しいことが起こっているはずです。Play Timeはスクリーンに映すためではなく、見ることを楽しんでもらうために作ったものなのです。」と云うジャック・タチのメッセージが床面(もちろん、床にあるのはフランス語)に映し出されている。
北会場に回ると、「イスや家具の実物がしつらえられ、壁面には南ギャラリーの透明箱中のミニチュア家具の映像や、箱を外から見ている人の映像が映る」(京都新聞)、勧められるままリートフェルトの椅子に腰掛け、快いジャズのビートにつられて気持ちよく南会場の様子を眺めた。どうやらカメラは模型車両の窓に内側へ向かって仕込まれているようで、見ていると自分がリリパットの住人になっているような錯覚を持った。これが、実に心地よいのだ。鉄道ファンであったわたしは、もちろん鉄道模型も好きで、よく走行状態を覗いたし、車両に仕込んだカメラは運転手の眼としてとらえたものだが、ここでは乗客の、窓を向いて靴を脱いだ子供の視点が使われている。しかし、箱の四隅を回る時、視界が柱状に遮られガラスを通したものなんだと現実に戻される。このズレによって、このインスタレーションは、おもちゃである事に戸惑い、アートになった。
尾崎、見増両氏は既製品を会場に持込み、手の痕跡を意図的に排除した。南会場の床壁面に置かれた模型も藤本由起夫氏から借りたと云う。参加した作家は個性を消した。岡崎理奈、泊博雅、softpad、竹内博、intextの5ユニットによる共同作業(注2)に「見ることを楽しんだ」のだが、京都芸術センターのコートでテニスをしていた地区住民(実は知人のM氏達)の楽しみと比べた時、知的な眼の楽しみ、心地良い耳の楽しみ、いわば癒しの芸術であるようなものは、日常の楽しみ、身体を動かし汗をかく充実感に対しては分の悪い戦いになるだろうと思われた。もっとも、無理にそうする必要もないのだが。
INTEXTの二人。
カメラを向けると気さくに微笑んで下さった。
尾崎祐介氏はプログラマー、見増勇介氏はアーティスト。二人会わせて「intext」と名乗っている。二人に展覧会の意図等をお聞きし、南会場とのシンクロを教えられた。それで、再度、映像を見たのだが観客を見付けるのは難しい。違っているのだろうかと、さらに、しばらく見ていたら、突然、女性の顔、市街電車に近づいたんだね。彼女はわたしが別室で覗いていた事に後で気が付くだろうか、丁度、靴を脱いで座席にあがった子供の視線がここにある事を。次ぎは交代すれば良いか、M氏ともね。
注1) センターの事務所によって京都新聞の記事コピーを頂いた。改めて読み返すと太田垣氏の意図を理解したのだが、読解力のなさから作品に対して先入観を持ってしまっていた、反省、展評は難しい。わたしの『日録』も、あらぬ先入観、わたしの過剰な反応を読者に強要しているのではと気になった。
注2) 「京都クリエイターズミーティング」と題した小冊子で同展の中心的役割をはたした竹内創氏が牧口千夏氏のインタビューに応えている。「はじめに会場内に電車を走らせて、というアイデアを言い出したのが僕で。」(4頁)との事。デュシャンが好きだと云う竹内氏とも会ってみたいものだ。
October 22, 2004
午後から法人税の研修に出席した。広いホールは劇用照明で、眼が眩しく話を聞くには不向きである。それで、瞼を閉じると演壇の講師が陰画状態の残像として残る。シルエットがはっきり確認でき、ネクタイも認められる。講師の顔を詳しく見かけると、おぼろに消えていった。脳の何番地辺りに格納される刺激なのだろう。網膜を通して記憶される電位のようなもの。人間の生理もデジタルで処理されている。そんな感じで、直近の映像でないものも、取り出せる構造となっているのだろう。暗闇から浮かび上がる像、陰画は、眼にしていた現実の凹状態。溝にインクを流し込んでいく。音楽でもこうした残響が脳に作用してい(わたしに、この能力は欠如している)るはずだ。
October 21, 2004
台風の目と思われる写真
和歌山県田辺市の田辺海保庁舎から撮影された、
田辺湾上を通過する台風23号の目と思われる写真
(20日午後5時15分ごろ)(田辺海保提供)(時事通信社)09時12分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041021-02111686-jijp-soci.view-001
昨日の被害状況がわかってきた。鴨川の増水、近畿では由良川の孤立した観光バス、会社でも冠水した営業車が発生したりした。これは新聞によると過去10年間で最悪の人的被害と云う。そして、ヤフーのニュースを観ていたら「台風の目と思われる写真」を見付け驚いた。それで、前のマーゴンに襲われた時、横浜のT氏が台風の目が青かったと発言していたのを思いだした。不謹慎だけど美しい。わたしは体験していないけど、写真を紹介したくなった。
通勤のお供で「トリスタン・ツァラ 言葉の四次元への越境者」(大平具彦箸 現代企画社1999年刊)を読み始めた。まだ95頁。「光が手袋をはめる」すごいイメージだ。ツァラのこと、ダダは高校時代の友人K氏と結びつく。
October 20, 2004
各地で猛威をふるう「トカゲ」、今年10個めの上陸と云う。会社は午後2時半に「仕事の段取りがついた者から帰宅するように」と指示が出た。駅までの道は同僚の車に乗せてもらい無事移動。駅から自宅もなんとか対応し帰宅。テレビ・ニュースでは鴨川の増水もすごそうだが、各地の状況に比べると京都は静かな様子。それでも深夜、強い風に家が揺れた。
October 19, 2004
今度はトカゲ(台風23号)、昼間に出掛ける用事があったのだが、ビショ濡れになってしまった。明日はどうなるのだろう。サラリーマンに気象警報は関係ないので、着るものに困る。車の無い生活だから駅からの20分、いやはや。中日が負けてしまった。
October 18, 2004
月曜日には会社で休みの間の新聞を読むのだが、京都新聞の15日(金)夕刊「みそ知るの旅-4」を読んで驚いた。出だしが「名古屋は、荒川修作さんら多くの優れた前衛美術家を排出した街だ。現代美術を愛好する市民も多い」だからね。「みそかつ」「みそ煮込みうどん」「土手鍋」の紹介にどう関係するのか、興味ある書きぶりでしょ(どなたが書いたのかな)。この記事、名古屋市美術館の深谷さんに取材をされている。詳しい内容については新聞をとなるんだけど、しめは「周囲に妥協して個性を薄めない。一見わがままなほど個性を濃厚にしていく、それが名古屋流か。そうしてコクの出た個性はさらに、どうやら頭でなく胃袋の中で、たくましい前衛精神へと鍛えられる。」となっている。今度、美術館に行って深谷さんにお会いしたら取材の様子をお聞きしよう、いや「みそかつ」の美味しい店の名前だね。しばらく食べていないからね。
October 17, 2004
NHK日曜美術館のアートシーンのコーナーで埼玉県立近代美術館で開催中(10月27日迄)の「マン・レイ展、私は謎だ。」が、画家として出発したマン・レイとして取り上げられた。映し出された作品は「インディアン・タピストリー」(油彩 1914年)「アングルのヴァイオリン」(写真 1924年)「パレッターブル」(オブジェ 1940/1971年)。会場の様子も入って、まずまずの扱いだった。それから、家人達と近くの改装した家電店へ出掛け、いろいろ物色。長女はIMACを買うつもりのようだ。わたしは銀紙書房新刊用にインクカートリッジを購入。ポイントが10%付くとはいえ、インクの高額な事にはまいってしまう。昼食後、やっと扇風機を片付ける。
京都国立近代美術館での八木一夫展告知
さて、秋晴れの三日目。急いでいつもの道を京都国立近代美術館まで出掛ける。「没後25年、現代陶芸の異才「八木一夫展」」(10月31日迄) 氏の作品をいろいろ観てきたし、お人柄に接する機会も幾度かあったので期待した展覧会であったのだが、どうもいけない、八木さんの反逆精神が片意地を張った主張としてオブジェの表面を被っているのだ。氏の作品をこんな風に感じた事はなかったので、何故だろうと自問した。ガラスケースに斜めに置かれた「ザムザ氏の散歩」にしても、これが最適の角度かと疑問に思った。背後に並ぶ、別のケース、様々な高さに置かれた焼き物達が作る背景に、カフカの不安感が消されているのだ。会場を一巡すると、照明が眼にうるさいのが原因かと思った。影は消されているが、めりはりが無く、黒陶の肌と白い壁面のバランスが強すぎて目が疲れてしまうのだ。本のシリーズや手のシリーズなどはわたしの好きなモチーフだが、それぞれ点数が多く、平面的な並べ方が作品相互に影響しあって、良い部分を消している印象を持った。「距離」にしたって、この置き方ではもったいないよなと。
展示状況の愚痴を述べてもしかたがない。八木さんの焼き物の初期のものが置かれた最初のケースを観た時は、会場の様子に影響されていなかったので、面白いと感じた。「熊」(1935)「野兎の陶彫」(1939)「鳥」(1938)等、生き物のお尻の辺り、尻尾が主張して、この存在感が以降の仕事の強い核かと思った。「二口壺」のミロ的な感じや、エルンスト的な立像など、日を改めて拝見すれば、会場の雰囲気を忘れ、きちんと作品と対面することが出来るのではと、判断を持ち越す事とした。それにしても「佛足」、つま先にある卵状の物はなんだろう。黒い肌を輝かせ人間の肌にする光は、美術館のだれの手に託されているのだろうか----
府立図書館に本を返却してから、ギャラリー16に寄り、坂上しのぶさんと「イン・ベッド」展の話をいろいろと伺う。映像を担当された内の一人である彼女の思い、展覧会の構成についての、現場の声は鑑賞者の眼を鍛えてくれる。感謝。
October 16, 2004
友人のマンションがテレビに映った。家人達が「おしゃれ」と騒ぐ、今宵始まった番組での登場。かって、庭にオリーブの樹がある家で生まれた物達が、いくつかの変遷を経て、今では、高台の見晴らしが良いマンションで、愛されて落ち着いている様子を、テレビを観ながら想像するのは、楽しい。
「わたしは思う。真に陶を知り、真に陶にとけこみ、真に陶を楽しむためには、ただそれだけをしていなければならない。つまり、ほかにする仕事があってはならない、無為でなければならないのだと。」(238頁)と云うのも「骨董のある風景」の一節。
October 15, 2004
伏見のパルスプラザ5階会議室の窓から眺めると、京都盆地を囲む山々がくっきりと見え、雲は一つも無い、終日この状態が続く最高の秋晴れ。こんな日は会議じゃなくて、北山の辺りをブラブラ歩きたいね。
さて、あまり報告しなくなった通勤のお供だが、青柳瑞穂氏の「骨董のある風景」(青柳いずみこ編、みすず書房、2004年刊)にはまいった。今日読んでいた箇所では「いや、じっさい学問とか、研究とかいうのは、目を迷わせ、目を濁らせこそすれ、物の美しさを感ずるにはさまたげになることばかりである。」(212頁)など。筆者が「マルドロールの歌」の訳者であるから、気になっていた本なのだが、装幀やタイトルがパットしなくて、手を出していなかった。しかし、読んでみるとすこぶる面白い。コレクター心理がよく分かり、随所にわたしの気分が語られている気がするのである。ハットして怖い指摘の例では8-9頁にかけての「飲む、打つ、買う、というのは、---」で始まる部分であり、「狂的な美術愛好家には、○○が多いのではあるまいか。」などと云う指摘は「なにかしら、空おそろしい気もする」わたし場合は、まだ遠い異国のものを集めるだけの段階、古い物まで辿り着くのだろうか。青柳氏のような心境でコレクターのもろもろを吐露できるのは、いつのことだろう。本を読みながら先人の世界を追体験しよう。名古屋の実家にある壺の正体が知りたくなった。
October 14, 2004
しばらく前に友人から、堀江敏幸氏が新刊「一階でも二階でもない夜 回送電車 2」(中央公論新社 2004年6月刊)において、昨春のブルトン・オークションに言及していると聞いた。しかし、二三尋ねた書店には無く、どんな内容だろうかと気になっていたが、やっと見付けて確認。それは、芸術新潮2003年7月号(83-87頁)に掲載された「ブルトンが、びっくり箱を開けるとき」だった。氏の『五千年後の健康飲料』を「図書」で読んだのは4月22日だったから、直ぐにピンときてもよさそうなものだが、エッセイの出だしが今イチの感じでしっかり読んでいなかったんだ。不覚だった。でも、やはりか、堀江氏の味がある文章とは言い難い。いや、ブルトンに対するわたしの思い込みが色メガネとなってしまったのだ。あの時、オークションの内輪話を探していた。玉砕したわが心が水を欲したのだ。
地下鉄のホームでM嬢と会った。しばらく立ち話。美学専攻で卒論は「岸田劉生」。現在はインに席を置いていて、さらに岸田の研究を続けているとの事。新資料も出てきているらしいから、学問の進歩に貢献できるかもしれないが、岸田は重いよなと思って、そのまま伝えてしまった。
October 13, 2004
晴天は自転車乗りに有り難い。朝一番に京都工場保険会へ出掛け、会社の健康診断を受けた。しかし、日曜日の展覧会がいろんな所にこびりついていて、気持ちが暗い。腹部超音波、胃カメラ、心電図と三種類のベッドに横たわる、いやな感じだ。もっとも、検査の為にビールを一週間(日曜日にくるってしまったが)休み、昨年成功したピロリ菌除菌の継続を画策。同僚のI氏からは「せこいネ」と批判される。でも、F先生の「綺麗に治っています」と云う診察で安堵。50を過ぎれば身体のあちこちが悲鳴をあげる、だましだましの付き合いだね。
国立国際美術館の開館記念展「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展の「開会式・内覧会・レセプションのご案内」が到着。出欠の葉書は22日までに返信しなくてはいけないのだが、葉書も重要なコレクション・アイテムなので、コピーしてから封書で送ろうと準備する。
October 12, 2004
「I GOT UP AT 4.55 A.M. 」昨夜は長所とバッティングしてしまったので、今、『日録』を書き込んでいる。出勤前にアップする予定が、昨夜、準備しておいたフォト・エレメントの調子が悪くて写真取り込みを再度しなくてはならなくなり、時間ぎれ。使用過多による容量の断片化、メモリ不足の為だろうか。
帰宅後、日曜日の美術館訪問記を完成させ『日録』にアップする。そして、坂上しのぶさんと青木正弘氏に報告のメール。展覧会アプローチの内訳話などを聞いて、また、考えさせられた。死のイメージに占有されなかった「イン・ベッド展」もありえたとのだと。
October 11, 2004
昨日は母と散歩した。暖かく風もなく写真を撮ったり、町内は戸部神社の秋の祭礼で楽しい。それから兄と旬肴「まどか」で一杯、太刀魚の皮を揚げたのとか、刺身とか。飲んでいたら引っ越しの話題になって、今日の荷物運びの為に名古屋泊まりとなった。眺望の良い9階なので都会の朝陽を見たいなと思い、4時に眼が覚めてしまった。それで、陽が昇るまで『日録』のメモ書きを行う。時間の流れで纏める文章は、ペンが予定以上にスベッテ、本人の意図とは、異なる内容となった(下書きをしている場合は、打鍵時に調整するのです)。どうですか、「イン・ベッド」展報告は、みなさんの感想を聞かせていただけたら嬉しく思います。
早い時間に、兄と二人で荷物を運び、マンションで生活できるように準備する。それから、母の見舞いに行き、散歩。風呂あがりの彼女は、血色も良く、息子二人も気分が良い。仕事のある兄と別れ、地下鉄で名古屋駅へ。昨日乗った鶴舞線を逆方向。座席に座って見上げると、つり革、荷物置きの先に留められた車内広告がロン・ミュエクの「マスクII」、見え方とバランスがなんとも、気分とマッチする。名古屋市交通局3104号車内での一コマである。
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豊田市美術館
豊田市小坂本町8丁目5番地1
TEL 0565-34-6610
イン・ベッド[生命の美術] IN BED Images from a vital Stage 2004年10月5日----12月26日
Daybook by Teruo Ishihara
会場の様子、
右手に「ベッドの老女」、後方に松澤宥「in bed」
October 11-31, 2004
October 10, 2004
名古屋の地下鉄鶴舞線には会社が浅間町、実家が桜山(市立大学病院)にある関係で、御器所まではよく利用する、それより東となると機会がなかったが、今日は初体験である。もっとも地下鉄なのだから駅の様子や乗客観察と云った些細な事柄。そんな訳で新幹線から継続した高橋英夫氏の「京都で、本さがし」(講談社、1999年刊)をパラパラと読んで過ごす。25分程経つと赤池で、ここを出てからは名鉄豊田線に入り地上に上がるので、ちょっと楽しい。池が沢山点在する郊外地の緑、高架橋を赤い電車が軽快に走る。秋晴れを期待させる朝、台風を警戒し一日延ばした甲斐があった。10時26分、豊田市着。初めての街である。
今日は豊田市美術館で開催中の「イン・ベッド[生命の美術]展」を観るための遠出である。この展覧会、知人の坂上しのぶさんがお手伝いをされていて、ギヤラリー16で話をしていた時、「ぜひ、行って」と強く勧められた。行かなければ絶交になるかと思うほどの熱気だった。マン・レイ以外の展覧会へは出掛けるのが少ない無精のわたしも、最近は変化している。チラシを手にした時、何か心に触れるものがあったのかもしれない。地図を頼りに美術館への道。坂上さんが美術館の素晴らしさを語ってくれていたので。期待が高まる。整備された若い街路樹の続く通りを右に折れ、愛知環状鉄道を抜けると、展覧会を告知する看板があり、線路に沿って坂道を登った頂上に美術館はあった。彼女が言う「素敵な坂道」とはこれだろうか、竹藪の雰囲気が良いので、写真をパチリ。環状鉄道の二両編成が追い越し、走り去っていく。期待はさらに高まった。
これは東入口。
企画展示場正面のサイン、ビデオはヨーコ・オノ。
シンプルな文字だけの告知があって、美術館の入口となった。外気を遮断する二重構造で、これは手強いと早くも鑑賞モードに眼のギアをシフトする。会場正面でヨーコ・オノのビデオ「ベッド イン」が流されている。カメラを持たずに会場を一巡。展覧会タイトルからの先入観はエロスの側にあったが、死のイメージが覆い被さり支配された。恐ろしく重い。厳しい問い掛けをしてくる困った展覧会だ。
荒木経惟の新婚旅行「センタメンタルな旅」から始まって陽子夫人の死「冬の旅」で終わる主会場の展示構成は、彼方から現世へ、なんとか観客を戻してくれる、暗黙の仕掛けである。荒木作品に親しんでいるわたしだから、そう感じるのだろうか? そうではない、荒木が代弁しているわたしたち総てのベッドで始まった人生、額装されずにピンで留めただけの写真だから良いのだろう。印画紙のクオリティではなく、映像の語るもの、写っている物自体が語るのだ。石室に思える一枚が中央にあって暗示的である。ナン・ゴールディンのアート的作品(展示方法と云う意味だが)を他方の壁面に示され「苦闘するゴールディン自身の日記」のやるせなさ、「わたしは近づきたくない」と云った感情で表れる、文法の相違を思った。
ベッドを持たない生活者である大多数の日本人は、ベッドにおける死を生活の日々で意識させられることなく過ごさせてもらえる文化に守られている。だからビル・ヴィオラの「心臓の科学」(右の写真参照)は衝撃的である。暗闇に真鍮製のベッドと赤いシーツ、そこに横たわっていたであろう人物の心臓の鼓動。太鼓のリズムと映像のシンクロ。直感的に人間ではなく他の動物のそれに助けを求め、一瞬で外に出た。
会場を何度か巡る間に、入退室を繰り返し、最後にはじっくりと観た。リズムをとったり、イメージの細部、手術用手袋の先を凝視したりして、わたしは何を感じているのだろうと、自己に問う。何処まで続く映像なのかと見続ける。しかし、停止し再び動き始めた心臓のあたりまで付き合うのがやっとだった。わたしの心臓はタフではない。この心臓がヴィオラとシンクロする前に降参したが、仕方のない事。密室の入口には「刺激が強い映像作品です。子ども、高齢者、心臓の弱いお客様はご注意下さい」と書いた小さなプレートが掲げられていた。
そして、残像がある間に、特別の角度でクリスチャン・ボルダンスキーの「ベッド」を見せられるのだから、これはきつい。手術台であり、自分の心臓を取り出されそうな脅威が立ち現れる。でも、続くイヴ・クラインのブルー、倉俣史朗の花柄で視覚は助けられた。ちょっと力をいただいた感覚。それでも、倉俣さんを敬愛されているNさんの事を想い出し、京都国立近代美術館で展示されていた時と今日との変化を知った。デザインとアートの間、表現する事とは----
近づく作品、離れる作品。キャプションを読んだり、パスしたり、生きていた人が死ぬ。それは判る、でも、死んでしまった人を執拗に鞭打つアプローチにはたじろぐ、困ってしまって作品と自己が分離する。だから河原温の「I Got up at ---」のシリーズに救われた。1976年11月30日~12月17日迄の毎日の起床時間が葉書に記されメールアートされている。「10. Oct. 2004 I Goy up at 6:38 A.M. 」これならわたしにも理解出来る。メッージ性があって美しいもの、わたしは芸術作品の中に希望を求めたい。この河原温作品の対壁にパブロ・ピカソの「横たわる女」右手前ケースにブランクーシの小品(注1)、手に取って愛でさせてくれる単純な頭部は、裏面のサインを読ませてわたしを楽しませてくれる。わたしは古いのかな、こうした作品が好きなんだ。
上段; クリスチャン・ボルダンスキー「ベッド」
中段; ロン・ミュエク「マスクII」
下段; イヴ・クライン「モノクロ・ブルー」 壁面に掛けられず、横たわっている。
さて、「イン・ベッド展」の最重要作はロン・ミュエクの「マスクII」である。チラシの中での取り上げられ方から、企画者の意図が理解出来るし、異常な大きさ(H77.0xW118.0xD85.0cm)の記述が期待を高めてくれていた。この作品は主会場のベスト・ポジションに置かれている。これが、ここにある事が必然であるような場所。観客は最初にガラス越しで眠る男の顔だけを目にするが、間にガラスがあるのですぐには近付けない。会場を進み、展覧会の意図を学習した後に、初めて出会うことが許されるのである。わたしは近づき毛穴の一つ一つ、毛根の一本一本を観察する。奇妙で不気味な彫刻(?) わたしの皮膚が物質から出来ているのは知っている、でも、自分で自分の顔を見ることは出来ないのだ。当たり前だけど怖い。
ベッドにまつわる物語はナン・ゴールディン、荒木経惟と再会しひとまず閉じられる事となる。主会場の出口に向かって荒木の「冬の旅」が続く、病を知らされ死に至る陽子夫人との日々を、ドキュメントにも詩にもさせず、客観的な事実とユーモアの言葉で綴った写真。「センチメンタルな旅」と違い、こちらでは写真の一点毎にキャプションが付けられ、視覚の背後に淀んでいるものを知らされる。ピンで留められた写真の日付部分がリアルで心に刺さる。陽子夫人の死に顔の美しさにまいる。花に包まれたベッドは立方体で、暗闇にする釘。悲しい釘を持たされた荒木よ、死に支配された気のめいる展覧会に救いあれ。死者との別れが号泣によって浄化される経験をわたしたちは持っている。会場の最終コーナーに告別を置くことによって、展覧会の物語は、観客を生の側に引き留めてくれた。
ところが、問題はその先にあった。左手の第二展示室へ入るとピエル・パオロ・カルツォラーリのインスタレーションが広い空間に小さく設えてある。あまりに身近で、「終わってはいないよ」と言われた気がした。それで、だんだん混乱し、別室のビデオ作品がウイリアム・ケントリッジの「重大な病気の歴史」なのかシリン・ネシャットの「パルス」なのか判らなくなってしまった。
わたしは荒木を手掛かりにこの展覧会に参加した。わたしの問題が会場でボコボコと落ちる。学芸員の青木正弘氏はカタログ・テキストに「かように皮膚一枚を隔てた自己と他者の距離は絶望的に遠く、時として信じがたいほど近い」(8頁)と書く。セックスの為のベッドを無くしたマン・レイ狂いは、視覚の喜びの際限のなさの方へ進もうとしている。しかし、視覚も視覚だけでは存在しない。先の青木氏が記したエピソード(注2)を頭に入れて会場に戻る時、「イン・ベッド」の投げかける問いは、さらに複雑化し重い。
初めて訪問した美術館の常設展示室を観ながら、心のバランスを回復したいと努めるのだか、幾つもの収集品から死のニオイがただよって閉口させられた。例えばグスタフ・クリムトの「オイゲニア・プリマフェージの肖像」は陽子さんの死化粧だし、アルベルト・ブッリの「赤 プラスチック」はビル・ヴィオラの「心臓の科学」とシンクロする。ウルリヒ・リュックリーム「無題(立方体)」が、荒木経惟の「センチメンタルな旅」にある一枚の現在の姿とダブるのだ。大池の光がテラスに置かれたダニエル・ビュランを回る。屋外展示品の中ではリチャード・セラの「ダブル・コーンズ」が一番良かった。二つの鉄板の間に入ると、わたしの声が共鳴する。「イン・ベッド」の言葉が重く深くこだまする。今日は辛い企画によって美術館と出会った。次回は希望が前面に打ち出された明るい内容の場で訪れたい。作品がまったく別の言葉を発っしてくれると予測できるのだ。
カメラを向けると北山氏が、
場所を選択。
会場に戻ると、北山善夫氏が青木正弘氏と話しをされていたので、ビックリ。名古屋市民ギャラリー矢田での展覧会「人間をつくってください」展への参加を兼ねた一泊二日の行程で、豊田市美術館まで足を伸ばされた様子。それで、同行の人達と一緒に館内のレストラン七州で昼食となった。インスタレーション専攻の女性に「構想を発表するような場所はありますか?」と問い掛けると「学校にはシュミレーション・ルームがあるんです」と答えてくれた。画廊空間風の白壁でライティングのテストも出来るらしい。しかし、この利発な人は物置のような場所を選んで構成したと云う。彫刻専攻だが絵を描いていて、平面的な彫刻(?)を作っている---北山さんの解説だが---と云う男性に「この美術館では、どの彫刻が良かったですか?」と聞くと、「ジャコメッティの正面が好きです」と即答された。若い感性と出会うのは楽しく、嬉しい。ビールを飲みながら世間話をいろいろ。昨年のマン・レイ展を観ていると云う人達も、コレクターと話をした経験は無かったと云うことなので、少しは刺激になっただろうか。お金のないサラリーマン・コレクター。わたしのようなタイプがどんどん現れたら、彼や彼女の為になるのにと思った。北山さん達は小説家、多和田葉子氏の記念講演「枕の中の声---夜の身体と詩を書くことについて---」を聴講する時間となった。わたしの方は名古屋に戻らなければならない。
資金が潤沢にあるだろう素晴らしい美術館。展示室のスタッフも若くて美しい。今日は忙しい青木氏に面倒をかけてしまった。わたしは困ったコレクターなので、さらにカタログへのサインまでお願いする。「2004年10月10日 青木正弘」有り難い。氏の配慮で館内を気ままに見せてもらい、充実した時間を過ごす事が出来た。重いテーマだけど、話はできたように感じた。とりあえず、わたしは生きている。深謝。
次会場は正面のサインを通った側にある、
光の方にカメラを向けると背後には「マスクII」。
注1)展覧会カタログの「出品リスト」にこの作品「眠る幼児」は含まれていない。豊田市美術館コレクションの一点が会場に忍び込んでいるなんて、上手い演出だなと、うなってしまった。
注2)「今回の展覧会では、バイヤースの作品が展示されるわけではない。縁あって出会った最晩年のバイヤース自身と、滞在していたホテルの部屋が、イン・ベッドそのものであったと思い当たり、クーラーと私が撮ったスナップ写真を、皆さんに観て頂きたいと考えて、展示したのである。」(11頁)
October 9, 2004
銀紙書房新刊本のタイトルを決める事が出来ず悶々とする。昼寝とメールの整理を少々。台風関連のニュースを観ながら終日過ごす。
October 8, 2004
今度はマーゴン(第22号)が列島をうかがっている。「東日本に上陸する恐れのある台風としては観測史上最大級の勢力を保っており-----東海や関東では最大瞬間風速が50メートルを超える恐れがあり」とヤフーニュースも警戒を呼びかけている。
わたしは台風情報にいつも注意をはらうが、会社ではあまり話題にのぼらない、京都の人には恐ろしさの実感が無いのだろうね。伊勢湾台風(昭和34年9月26日)に遭った名古屋人としては、気がかりである。実は明日、名古屋行きの予定を立てていたのだが変更することにした。
October 7, 2004
ヤンにローランド・ペンローズからマリオ・アマヤに宛てた手紙コピーを送る。
October 6, 2004
名古屋へ出張した。支店が引っ越してからでは、初めての訪問である。広い通り江川線に面した機能的な新しいビルで安堵。応接室に入ると荒川修作の版画「IS AS IT: BLIND INTENTIONS III」(1982-1983, 44.7x60.2cm etching, aquatint and handcolor on paper, 18/55)が置いてあって嬉しくなった。版面のタイトルやらサインやらをよんでみると、「'82-83 at New Yok City」とある。裏面シールは知人の画商。これも何かの縁だよな、荒川も出身は名古屋だからね。ちょっと良い版画、世界に飛躍した荒川の事を思った。氏の講演を兵庫の近代美術館で聴講したのは随分昔だけど。こんな、版画を掛けている会社って面白いと思いませんか。
昼食は近くの手打ちめん料理処「みのかま」久し振りに味噌煮込みうどんを食す。美味なり。京都出身のK氏は食べられないことはないけど、どうもねと、名古屋味覚には批判的。「鰊ソバが食べたくなりますよ」と云って笑った。故郷の味は身体が喜ぶね。名古屋の画家については、眼が喜ぶのかな、門前の小僧というのだけど-----
円頓寺商店街のアーケードには中日優勝謝恩の看板。先週来てればよかった。
October 5, 2004
7時前の田舎道。季節が変わって暗くなるのが早い。安楽寿院陵の辺りが暗い森となって、どこかドイツ風。高松伸宅の打ちっ放しのコンクリ壁がそんな印象を与えるのだろうか。残っている光で東はつかのまの青空、雲がいくつか浮かぶ。すれちがった若い女性も道から消えて養護老人ホームの角を曲がると、大きな樹が二本。建物の灯りが樹木に映って、マグリットの絵「光の帝国」にそっくりだった。
October 4, 2004
土曜日に埼玉で「マン・レイ展」を観たと東京のM氏からメール。 「 こじんまりとしたなかなかいい美術館ですね。図録を買って、クロノジカルに、ゆっくりと鑑賞していくと、以前より、マン・レイが近い存在なったようです。興味深い展覧会でした。----- 東京は、展覧会花盛りです。 景気がもどってきたのですかねぇ。イチローが新記録を打ち立てた日、すがすがしい秋晴れの一日でした。」こんな私信を朝から受け取るのは嬉しい。
ベルリンのヤンからもストックホルムでのマン・レイ展に関するメール。その中で「京都から遠いし、小さな展覧会だからお誘いはしないけど、マン・レイの展覧会か何かある時に再会したいね。いつか京都を訪問することが出来ると思う、一度、東京に行ったことがあるからね。」とあった。彼に手許で保管しているペンローズからアマヤに宛てた手紙を知らせてあげなくては。
福井県立美術館のT氏が「美術館だより」(第105号)を送って下さった。8頁のリーフレットだが「イベント報告」があって巌谷國士氏の講演会「マン・レイの謎を愉しむ」が紹介されている。そして、なんとその頁にわたしが撮影した会場風景が掲載されている。しかも、(C)と名前付きで。T氏の配慮に感謝、感謝。
October 3, 2004
昨日に続き銀紙書房新刊本作業。そろそろタイトルを決めなくてはと思いつつ、しっくりとしたのがうかばない。もっとも、この本、限定5部非売(今までも非売だけど、今回のは関係者以外には出さないつもり)なので、銀紙書房ファンの方に叱られるかな(ゴメン)、終日、こもってページメーカーの相手、疲れ切っている。無謀な試みなんだろうね----
巌谷國士氏の「地中海の不思議な島」(筑摩書房、2000年刊)を読了。「カメラはなんでも良い」と言っておられる先生のカメラが気に掛かる。リチャード・アベドンが1日脳内出血のために亡くなった。享年81歳。
October 2, 2004
中日優勝の実感がわかない。新聞の見出しでも「広島に敗れ苦い胴上げ---私らしく、いい」となっていて、今一つ。テレビでもあまり取り上げていない様子、経済効果も昨年の阪神優勝に比べて10分の1程度らしい。日本シリーズを頑張ってと思っているいる間に、イチローが追いつき、追い越して米大リーグ、シーズン最多安打記録を259安打とした。このテレビ、ライブに感動。スゴイよなー。
終日、家にこもって銀紙書房新刊の作業を続ける。校正とページメーカーの書式を決めた。テレビでは何度もイチロー。愛工大名電だから複雑な心境---。この話題とは関係ないけどブリキ玩具のコレクターとして著名な北原照久氏が日経の企画広告(2日18面)でこんな事を言っている「従来のいわゆる「コレクター」には、変人・奇人・オタクといった暗いイメージが付きまといがち(笑い)。僕が明るく外向的で「体育会系コレクター」といわれるのは、スポーツを中心に明るいアメリカ文化「アイビー」の影響を強く受けたからだと思います。」「コレクターは情熱的で、ロマンチストで、継続力があって、働き者で、コミュニケーション上手で、行動力がなくちゃ、やっていけません。」紙面の右下にブリキの消防車が載っていて懐かしい。わたしも、かってはブリキ玩具コレクター、特に消防車を集めていたのです。
October 1, 2004
通勤途中の田舎道、前を歩く女性の足元、スカート内側のレースが朝の光で透けて、歩道にエロテックな影を作っている。女性の足首や、まして顔などは見ていなくて、ヒラヒラ、ススと動いて行く影が膝の辺りにまとわりついて、楽しい贈り物を頂いた気分となった。遅刻してはいけないので、彼女を追うのはやめて、自分の田舎道を会社の方へ曲がった。今日は週末である。
ひいきのドラゴンズがリーグ優勝した。テレビ番組でのピピと効果音の入る速報で知った。それで次女と固い握手。優勝は名古屋ドームで広島を叩いて、決めて欲しかったな、たなぼたでは寂しい、それに、京都ではテレビ中継も無くて、なんとも、へんな気分の実感をともなわない優勝である。祝勝会のビール掛けもまだで見ていなくて(0時30分)、いやになってしまう。先程、友人のT氏からお祝いのメールをいただいて、初めて実感する優勝。明日の朝刊をじっくり読もう、コンビニでスポーツ新聞を買わなくては----
*1:October 31, 2004 会場を離れ交差点の方へ向かった時、スムース・メンバーの山本善行氏とばったり。「関西赤貧古本道」の著者に思文閣会館二階での古書セールを教えて頂く。感謝。それで、古門前通りの思文閣本社までスタンプラリーにつられて出掛け、名作に付けられた価格に恐れ入り、ゴメンナサイと店を出た。礼儀正しい社員の方々で、住む世界が違うなと思った。美術館で出会う著名作家の価格ゾーンがわかり、これから、ちょくちょく鑑賞したいなと、寄り道がしたくなった。 注1) ランチタイムは通常11:30と13:30のスタート。 さて。テレビの事。「ローマの休日」のグレゴリー・ペック、謁見の間に響く靴音と表情、最高のラストシーンだね。ウルウルとしながら『日録』に向かっている。何度も観ている映画だけど、何度観てもいいね。月末の輻輳した一日が、この映画で締めくくられるとは、良い余韻。
秋の青空古本まつりが開かれている百万遍知恩寺、
11月3日迄で午前10時から午後5時。
朝、ビストロ・スポンタネを紹介して下さったミカン母こと林夫人からメール「うわっ、大変! 石原さんはグルメなのに」とあって、穴があったら入りたい気分。口が卑しい飲み助すですけど、グルメじゃありませんよ。これからも、美味しいお店を紹介して下さいね。
午後、昨日スポンタネでは写真を撮らなかったので『日録』用の店写真を用意するため川端五条へ出掛ける。覗いてみると今日も沢山の人だ。宮川町側の入口も確認し、こちらから案内したらお洒落だなと思った。宮川町歌舞練場の上手にあった「きくや」と云う店によく行っていたので、この辺りは懐かしい。グルメじゃなくて、30年も前のいろいろな出来事。そして、祇園をぬけ百万遍の古書市へ。いつもは何も買わない人なのだが萩書房で「歴史はなにを教えるか」を求めた。薄汚れた青い表紙の全日本学生写真連盟出版局が出した本。1970年4月の第3版。自宅にあるのだから買う事はないのだが、前所有者の書き込んだアンターラインが気になった。「現実は、いつもその底知れない深みと拡がりで、人間の意識を吸いこみ、とらえどころのないその複雑なしくみのなかで、われわれを鈍らせ、骨抜きにし、とろかしてしまう働きをつづけている。」(5頁)、さらに「事件と思われていない出来事のなかに、実は大きな出来事が起こりつつあることを示すような方法へ」(25頁)とボールペンの印しは続き、名取洋之助が東松の報道写真的な仕事に言及した「特定の事実尊重を捨てた。」の部分には、所有者の筆跡で「事件と思われないことをとらえること」との書込がある。他人の痕跡が色濃い書物を持つのは、ある種、気持ちの悪いものなのだが、この「歴史はなにを教えるか」を読んだ1970年代初めの人物は、きっと学生で、写真を通して社会、そして、自身の問題を考えていたのだと想像するのは、懐かしく辛い。わたしもそこに居たのだ。知立の友人Y氏もアンダーラインを引いて、書物の思想を自身の思想に取り込んでいるのだが、彼のアンダーラインが気に掛かる。今日、見付けた本の44頁では「自分をあいまいに」から「自分の問題をみつめようとする写真」にわたって知るしが付いている。「Yさん、この部分、本当に気になりますね」
October 30, 2004
中日ドラゴンズ、リーグ優勝応援感謝食事会を主宰した。ファンとしては当然。中日が優勝した年は家族を誘って食事と云う事にしている。本当は50年ぶりの「日本一感謝」としたかったが、こればかりはしかたがない。もっとも、4人のスケジュール調整、料理と店の選択に責任が重い。我が家のメンバーは厳しいからね、スポンサーとしては予算との兼ね合いもあるし---それで、雑誌やネットを観たりしていたが、スムースの林蘊蓄斎氏が10月2日に夫人と食され「値段と全体の質を考えれば、京都ではイチオシのビストロだ。むろん人気店で、ランチでも予約が必要である。」と書いておられるビストロ・スポンタネを会場とした。娘達はステーキが大好きだから松沢牛に満足するだろうと思った訳。
ビストロ スポンタネ 川端通り側入口
京都市東山区宮川筋4-321-6
電話 075-541-5005
シェフ: 谷岡博之
雨振りの午後、川端通りを松原の方へ下がって行くと店とおぼしき辺りに人の群れ、これは大変だと身構えたが、先のグループ(注1)との入れ替えのタイミングであった。1時30分スタート。メニューの選択はメイン料理が村沢牛のステーキとなるお昼のシェフお任せコース。オードブルの一品目は鱸のカルパッチョ、白い皿にチェリートマトが可愛いアクセント。次いでホタテと茸のエスカルゴ・バター、美味である。キリン・ビールを飲みつつ、パンにバターを塗ったり、ソースに浸けたりしながら、愉しく頂く。子供達の皿も綺麗に進んで行く。スープはマッシュルーム、これも眼を楽しませる色をしている。本日の魚は真鯛のソテー、ピストソース。みんなが料理評論家になって面白い。昼からビールを飲むとどうして酔っ払うんだろうと云う愚問には、ビール酵母は光合成しているのではなどと、いい加減なヨッパライ。このあたりで飲み物は水に切り替え、バカ話をしながらの食事。そしてメインの松沢牛、出された皿は二種類のソースに別かれていて、シェアされてどうぞとの事だったが、黒胡椒ソースの方が肉に合う感じ、どうも白味噌、胡椒ソースは甘くて肉の味を殺してしまう感じ(注2)。柔らかくて上手い肉なのでもったいない。黒胡椒の皿となった家人と長女は喜んでいたのだが---。
全体にあっさりとした味付けで、お腹が一杯なのにもたれないと女性達の評価は高い。ここまでくるとデザートの基準が厳しくなるよと彼女達は待ち構える。デザートは5品の盛り合わせでイチジクのシャーベット、ミントのゼリー、青林檎のムース、アップル・タルト、網焼きオレンジ。それにコーヒー、わたしと次女はミルク・ティー。
美しい女性達で店内は満席、わたし達家族と別の1グループ2名を合わせて男性は3名のみ。世の中、こんな風に食事を楽しむのは女性だけなんだと思った。中日の話題は最初の二皿ぐらいであがった、あがっただけでも嬉しい事だった。林氏に感謝。今日は百万遍知恩寺、秋の古本まつり初日、氏に収穫がありますように、わたしは明日、出掛けよう。
帰宅するとニュースが「勇姿に歓声、16万人ドラゴンズ優勝パレード」と伝える。広小路通りを進みゴール地点は榮の中日ビルだと云う。
注2) 「おすすめランチの村沢牛のステーキは極上だった。ただし白味噌と黒胡椒のソースはやや問題あり。白味噌を使うのが流行のようだが、マズイわけでは決してないにせよ、肉が美味なのでソースはいらない。もう少し肉の量が欲しい。」と林氏は書いている。
October 29, 2004
地下鉄、四条烏丸でホームからエスカレーターを上がったところに、池坊文化学院が生け花を飾るケースがある。何時も眼を楽しませてくれるのだが、今日は伝統文化コースの木村孝治氏の作品。ストレリチア、吾亦紅、セロームが上手く主張している。生け花には正面があるのだが、その角度はとじっと観てしまった。
October 28, 2004
今日は大平具彦氏から以下の引用を----「詩はその世界とわれわれの言葉との遭遇から生まれる。それを実用言語に翻訳するにはとてつもなく時間がかかるのは当然だ。この場合メッセージとはその遭遇が発する光であり、言葉自体はどこまでも暗号であり続けるのだから。ブルトンが自動記述を思考の写真と呼び、シュルレアリスムの視覚的表現の中心に写真をすえたのはそれゆえに