How are you, PHOTOGRAPHY?展、始まる

 京都写真月間が始まった。昼前にバスで河原町丸太町まで出て、江寿画廊からのぞく、例年怪しげな面々の展示がおこなわれている画廊だが、田中幹人の「Untitled」と、浅田淳一「Advance the Time」が良かった。前者の「危ない所にいる人」シリーズは楽しい、ある種、トマソン的行為だけど、観覧車のおそらく4号、日本では不吉だから5号になっているけで、その「危ない所」に立っている田中氏の身体が、写真化されていて、アートになっている。写真はきっと行為なんだ、仕上がりの映像よりも上位にある概念、「これだよな」とわたしは納得し、嬉しくなった。同じ文脈で「写真で詩をつくっている」浅田氏の作品も楽しい。写真なんだよね。ホモセクシュアルな気質にたじろぐけど、わたしとしては楽しい写真がいい。次いで、小林祐史写場へ、ここでは井上昌彦の「Depth」が良かった。「時間のズレと焦点のズレ」が写真的だ、立花常雄の「観る/触れる」も、視覚と行為、観ることの不確かさを作品化している。ギャラリーTeraの宇都宮淑子「空に」も、好きな仕事だった。月曜日にマロニエへ搬入するスクラップブックが不安になった。時間がないと、いい加減な仕事を展示しては、申し訳ないと思った。でも、同時代ギヤラリーに回って、ほっとした。宮本タズ子の「Yellow Cab」と吉永節子は別格だが、今年の同時代に出品している作家達には力量不足を感じた。本家田毎で蕎麦を食し、休息。ギャラリーマロニエでは無藤一の「いまあるということを」にどきっとした。土岐小百合の映像を観てから京都駅に移動し、名古屋へ帰る。

 車窓から近江の光を見たりしながら珈琲(乗車して直ぐに車内販売がやって来た)、そして、読書。鈴木雅雄さんの「シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性」を開いている。心を揺さぶられてしまう書物に、久しぶりに出会った。シュルレアリスムに人生をとらわれてしまった20歳のころからの疑問が、描き出されている。解答ではなくて、納得させられる状況のようなもの。西陽の当たる家々、山裾の光が、人生を考えさせる。アンドレ・ブルトンに魅了されて人生の鍵をそちらの方にきったんだな、「痙攣」か。

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 ここにわたしが書き込んでいるブログ、この行為も不可解といえよう。ブルトンのナジャに言及し、鈴木さんは以下のように書いている。

 自分だけのために書き継がれる日記であれば、「私」の真実は傷つかないままでいられるかもしれない。すべてが終わったあとにつづられる回想録であれば、過去における「私」の真実を時間の高みから現実のなかにはめこむこともできるかもしれない。だが「私」と「あなた」とのあいだで今まさに起こりつつある出来事を、その同じ時間のなかで書きつづるという行為には、何かひどく残酷な、ほとんど非人間的なものがある。(155頁)

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 帰宅後、夕食までの時間に、ちくさ正文館書店へ自転車で出かける。頭の中で鈴木さんの仕事を考え、関連する書物を買っておきたいと、暗くなった道を北へ走る。しかし、吹上を過ぎてから道に迷ってしまった。見当をつけた方向へ道を変えるのだが、うまくいかない。同じ光景が何度も現れ、街に取り残された感覚に陥る。これも「痙攣」のひとつか。やっとたどりついた書店に書物はなく、不在の気分を知らされた。