写真の中の写真

今日からお盆休みとなったので、下鴨納涼古本まつりに参戦。出町柳までのバスで昨日求めた 水声通信の「シュルレアリスム美術はいかにして可能か」を、マン・レイの仕事にも言及している林道郎・木水千里のメールによる質疑応答から読む。古書市は一回りに三時間を有して探したが、三日目のためか、調査中の京都の詩人たちに関するエッセイを一冊求めただけで終わった。暑さに疲れ二回り・三回り、写真パチリも断念。特定の領域にしぼって歩くのはよくないな。でも、京都だから京都の詩人に関する探求書が出てくるはずなんだけどな。河原町今出川の田舎亭で揚げ賀茂茄子のおしたしそばを食して休憩。でも、回復しない。暑さに弱い身体になってしまったものだ。なさけない。

 三時に友人とイノダコーヒー本店で待ち合わせ。アラヒアの真珠を飲みながら、A4サイズのファイルに入れられた80枚ほどの写真を拝見する。そこには芸術なのか記録なのか判別しかねる距離感でわたしたちの世代に近い女性が写っている。対象との客観化からすると芸術だけど、日常の場面での自然な表情は家族写真の範疇に近い、でも、「私写真」とは異なる距離感なんだな。これから縮まる予感や意志が写真にあるような雰囲気もあるし、二人の自然な微笑みは見る者に一般的な男女の解釈をさせるようでもある、でもどこか違う。なんだろうな。友人はポートレートをA4サイズにプリントしさまさざまな場面に置いて撮影する。入れ子構造になるアイデアだが、不思議なとけ込み方をしていて、うなってしまった。心をリフレッシュさせる手法だな。友人は撮影を繰り返しながら元気を取り戻していったのだろうな。写真は記録の側面を持つけど、記録されたものは時間とつながっていて、過ぎ去ったいろいろな出来事を客観化----写真にして再度、撮る時の距離感覚---させた行為をみせてくれた気がする。10代の初々しさが戻るような写真だ。

 サービス・サイズの900枚ほどもさらに拝見しながら、いくつものアプローチが可能な物語である先の限定一部のオリジナル写真集(?)を読む。写真にはわたしたちを治癒するエネルギーが含まれているのだな。イノダコーヒーのウエイトレスが何杯も水をおかわりしてくれた。西日が一階ホールに差し込んで眩しい、わたしたち二人の為のタイム・トラベルへのレールだな。その後、丸太町堀川に移動して和食で一杯。突き出しはワタリガニ、お願いしたのは鱧のおとし、剣先イカの細作り、鴨ロースの陶板焼き、ゴーヤチャンプルの炒め物、鯨ベーコン、鮎の塩焼き、などなど。学生時代から今日に至る様々な話題になった。過去に交わした会話の内容をアルコールの作用で忘れていたわたしは、記憶の空白のいくつかを埋める事となった。生ビールを何杯も飲みつつ、いろいろな話、楽しい夜となった。有難う。