「後ずさりする宇宙」佐倉密と古川きくみ



11時頃から雨が降り始めたので、自転車を使った花見をあきらめ、バスで市役所まで出掛ける。三月書房で林画伯の「花の巴里で古本屋を怒らせる方法」が載っているSpin05号を捜したのだが、まだ入荷していないとの事。古多仁昴志のエッセイに興味を持って扉野良人編集による「ドノゴトンカ」創刊準備号を求める。その繋がりでか、EDI ARCHIVシリーズ2号の小沢信男の「亀山巌」を続けて購入。「バタフライ」(山本悍右)に言及するためには、名古屋豆本をおさえねばと、こうした証言が気になっている訳。傘を差しブラブラと二条通りを東に、古いシトロエンが駐まっているのでパチリ、雨足が強くなっている。天気が良ければ岡崎公園の疎水沿いの桜が綺麗なのだが、今日は濡れるばかりで、屋台のお兄さん、お姉さんも手持ちぶさただ。府立図書館に入って林画伯に教えてもらった資料を確認し、必要なコピーを幾つか、カラー・コピーも行う。戦前の京都の詩人達については、星座の配置が判りかけてきた段階だが、輝度と色合については、まだまだ時間がかかるな。山崎書店によって、瀧口修造の「超現実主義と絵画」元パラ付きを手に取らせていただく(家蔵本はカバー欠けだから買いたいな)。

 そして、今日が最終日(3月24日〜4月4日)と云う佐倉密と古川きくみの展覧会を拝見しにギャラリー16へ移動。3階に上がると会場は不思議な空間となっている。ボインのアニメキャラと火星人を挟んで「前世は宇宙人」と云う言葉が視覚に飛び込んでくる。作者は何を伝へたいのだろう、展示室に置かれた小さなオブシェと図面。住宅と茶室。初対面の両作家を紹介され、お話をお聞きすると幾つかの仕掛けを理解する事となった。



 
 饒舌な佐倉密氏は、すぐれた詩の読み手で、もともとはコレクターだった人、専門的な美術教育は受けていないと云う。コレクションしたい作品を美術家とコラボレーションして生みだす仕事は、アート・ディレクションパトロンとも異なる独自の視点に貫かれている。氏の作品にフッと惹かれてしまう観客の眼差しは、人が孤独であるのを自覚させる、ざわめきにあると思われる。逃げ出したい辛さを感じた多感な少年時代を過ごした氏は、月並みな物言いだが、詩の言葉の中に、時間と空間に繋がる宇宙を観ていたように思う。氏の仕事は、最近、さまざまな例で出会う言葉を使う現代美術家の発する勢いある言葉ではなく、空間にばらまかれた、詩の言葉。紙の上に載せられたインクによる言葉ではなくて、スマート・ボールの中に閉じ込めた涙に反転して映る言葉。お話を聞いていると氏の空間は「後ずさりする宇宙」と思えた。以前、わたしはブログで、宇宙の果てが人間の後頭部にあると云うレトリックを持ち出したが、渦の中に身を置いて、ギャーを入れ替え全速で後退する船の航跡を今日は観た。
 「佐倉密」は、自ら選んだ言葉だと云う。これ以上の詩の言葉を見付けていないと打ち明けられた。遅い時間となったので画廊を後にしたが、運が悪ければ、広口瓶に閉じ込められてどこかの宇宙に連れ去られしまうだろうな。それもしかたないか。