高梨豊の「東京人」


高梨豊「東京人」を口絵に掲載した「カメラ毎日」1966年1月号
年末の自室掃除に朝からとりかかる。家人がおせち作りで外出し、監視人無しとはいえ、ゴミ収集日を過ぎてしまったので紙屑を出すのは御法度。もちろん、本人の狙いは書棚から必要な資料を取り出す通路作り。1メートル離すだけなのですがこれ大変なんですよ(笑) 「戦前京都の詩人たち」に関する準備が一区切りとなった。しかし、資料相互の関連って本人にしか判らないから、片付けをしているとダークな気分になった。記憶力ゼロなので残さねばならないが、「きっと必要になるだろう」と云う保険は処分せねばならないな、痛んでしまうばかりだ。本に纏めたら、使用資料を処分し、次の企画にリフレッシュ、そんなタイプに憧れるな---古本好きにはいないか。

 夕方、整理に疲れたので古いカメラ雑誌をパラパラ。今年一番影響を受けた金子隆一の「日本写真集史1956-1986」で紹介されている高梨豊「都市へ」の記述に考えさせられた、金子は「「都市へ」がついに刊行された1974年、購入した誰もが、豪華本のつくりをした「都市へ」の単なる付録のように扱われている「東京人」を見て、困惑し、失望した。サイズも「都市へ」の半分にも及ばず、無地の黒い紙が表紙についているだけで、中面のページは新聞のようなザラ紙を使用していた。」(170頁)

 わたしも失望した一人だった。大げさな作りに作家自身が「権威」に取り込まれている感じがしたのだった。改めて金子の論を読み進むと、浅はかだった自己を反省するのだが、最初に「カメラ毎日」へ発表してから8年が経過していた訳で、時代状況が変わってしまっていたのだな。カメラを手にして街に出る、街路の思想こそ、写真固有のものだと思っていた青春だったからな。----雑誌に載った作者のコトバを再読すると「たしかに「写真」は、撮りながら、また、どんどんはき出すという反復行為が、自己変革を行なって行くものです。はき出すことによって、次に撮る、自分の視点が変化して行く、ということが、写真行為の健康な姿です。」とあった

四条河原町上ルに京都書院があったころ、高梨豊氏にお会いした。