慶びの連鎖で、天野隆一「八坂通」ゲット


四つ橋筋堂島ホテル前で地上に、10時前の気持ち良い光線。


アトリエのジュリエット、観客はわたし一人。画面の左後方には、先のブログで触れた「ブルー・ブレッド」

中之島国立国際美術館で開催中(11月14日迄)のマン・レイ展へ行った。3回目である。先日、家人と鑑賞したとき隔月発行の「国立国際美術館ニュースNo.180」が刷り上がっていなかったので、これを確保するのが目的だった。それは、掲載テキストを執筆したのがツァイト・フォトサロンの石原悦郎氏だと知っていた訳で、氏の忌憚ない批評を期待した。美術館に入ってラックから取りだし直ぐに読んだ「ディラーとして30年間、マンの写真300点を入手して親しんできた。」と書き出している。わたしは、氏の画廊が日本橋にオープンしたときからの付き合いなので、マン・レイにまつわるいろいろな事柄について、氏からアドバイスを頂き、コレクションの方向性を修正・調整してきた。また、いくつかの、マン・レイ展で協力もさせていただいた。氏の明るく楽しい人柄が多くの関係者を繋げたのではと思う。国内でも海外でも。業界人の具体的な作品を背景とした意見は、なんとも、的確であり臨場感にあふれる。ダゲレオタイプとカロタイプに関するアメリカ人とフランス人との考え方の違いなどの指摘は秀逸であり、藤田嗣治夫人の例をもちだして「夫人の力では著名作家の生涯作品について詳細な知識を持ったり、完全に管理するというのは所詮不可能なことなのだ。」という指摘など、なるほどと思う事柄。石原悦郎氏は今回の展覧会について「テキストが無いのは実に残念だ。」と云う、この場合のテキストとは展覧会のコンセプトの意味で、「マン・レイの様なエスタブリッシュなものの展覧会は開くだけなら誰でも出来る」と、的確に指摘している。そんな訳で、今展に対する不満な気分がちょっとおさまった。
 美術館ニュースには、国立新美術館ニュース(No.15)に掲載された監修者であるジョン・ジェイコブと福のり子によるテキストも再録されているので、合わせて読むと興味深い。二人の発言には「しかし<アーティスト財団>が所蔵する作品は、作家の死後に遺産として相続されたものである。だから、本物である確率はきわめて高い。」などとあったりして、そんな軽薄なこと書かないでよと頭を痛めた。田野勲先生の著書からの引用についても、マン・レイ発言の孫引きであり、きわめて不適切で驚いた。これは、文章を書く人のものではないし、誠実さにかける。
 さて、先の石原悦郎氏のテキストで「新婚旅行でもマン・レイの家を訪ねているぐらいだ。」と言及されたわたしは、会場を巡回する。
 アトリエに残されていた作品個々の理由(オークション・ハウスのパスや、そもそもパリのアトリエに在ったのかなど)を考査しつつの鑑賞である。例えば「プリアポス(No.33)」のふぐりでは片方だけが黒いし、写真「黒と白(No.12)」のモダン作ではキキの頬にあたる光が白く飛んで目につきすぎる、「二人のテーブル(No.229)」では一つの脚が短くて不安定となっている。こうした詳しい正誤表を作ろうかとも思ったが、生産的でないのでやめた。それにしても、心が痛む、ここにはマン・レイがいないのである。創作の秘密などと云って「作品」を分析・解釈する事なく、投げ出して会場に置くだけなんて ---と書いてきて、また、頭にきてしまった。
 会場で上映されているジュリエットのインタヴューにしても、現在、フランスで一般的に入手できるものだからな、アトリエを訪ねた日を思い出しつつジュリエットの言葉をメモしておいた。

 ここに移り住んだ当初は まるで田舎の部屋でベッドルームも何もなかったの/床の上にマットレスが転がっていたきりで 最初の晩はその上で眠ったものです/春のことで 寒くはありませんでした/彼はベッドルームが欲しいと言い出し バルコニーをベッドルームにしたのです/ベラム紙で 埃よけをつくり くつろげるようになりました/「プロに不可能なことなどないさ」なんて自慢していましたけど/冬は寒かったわ/部屋は摂氏6度から8度という寒さでした/私たちは薪ストーブを早速手に入れ 薪や石炭をくべました/薪炭屋さんが毎日燃料を持ってきてくれてね/黒い煤が舞い上がったわ/なぜって ここの室内の放熱器にはきちんとした炉がついていなかったのよ/ここに住んでいる間だは このオイルストーブを使いました/毎朝 彼が起きると燃料缶から油を注ぐのが日課でした/それは冬のこと でも 夏は平気/私は朝食をつくると ベットに運びベットの中で朝食をとりました/・・・・・・体は燃えていましたしね。

 未亡人の話の興味はこうした事柄であって、作品はまた、別である。売店でフランス版の巡回展カタログを買い求めた(日本語版とは随分異なる)。

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出品は「編集の森」---感謝しています。

さて、阪神の野田から芦屋へ移動し、昨日から始まった芦屋市立美術館で開催中の「芦屋のちいさな古本市---文学の楽しみ 絵本の喜び」を覗く。林画伯のブログに「コルボウ詩集」の1956年と1957年の2巻がアップされていたので、落ち葉拾いに15分程歩いた訳。
 会場で先日、富田砕花資料の閲覧でお世話になった学芸員のAさんに挨拶。街の草ロードス書房、「ひとわく」などと見ていくが、すでに何もない状態。資金も乏しく見付からないのが有り難い---見付けたくない---といった気分で、壁面に掛けられていた小杉小二郎の版画を眺めていた。そして、ふと下をみたら、かねて探していた天野隆一の詩集「八坂通」(文童社、1993年)が顔を出していた。本当にひょいと現れた感じで、これには驚いた。毎日、「日本の古本屋」をチェックしていたし、古本ソムリエ氏にも探索をお願いしていた一本。この本が、現在、執筆を進めている「戦前京都の詩人たち」の切っ掛けになったので、図書館本ではなく、架蔵したいと強く願っていたのですよ。これは、嬉しかった。早速、近くにいらっしゃったAさんと街の草店主のKさんに報告。---原稿書きを早く終わらせて、使用写真の複写をせねば、最後の鞭を入れねばと思った。

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ケース上段には「牙」。別のケースに展示されていた「火の鳥(1946年12月)」の表紙には、<解放されたシュルレアリスト>等という表記があった。

今日は、欲張りな計画を立てて早い時間から動いている。それで、昼食をとる時間がとれない。そのまま急いで阪神芦屋駅に戻り三宮へ移動、神戸女子大学教育センター1階ホールでの「戦前神戸の詩の同人誌展」(11月3日-6日)を覗く。季村敏夫さんが中心となった特別企画で、3日のシンポジウムには所用があって出席できなかったが、貴重な現物だけは見ておきたかった。特に「牙」「羅針」。3つの展示ケースに別れた、およそ30冊。季村さんの執念がみえる詩雑誌群。5階で本日のシンポジウムが開催されている関係か、学生さんが一人弁当を食べているだけで、ホールに他の観客はない。しばらく、へばりついて拝見し、写真も幾枚かパチリ。前衛映画「ひとで」の上映などにもふれた神戸詩人事件に関する小林武雄の記事を読む。

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創業大正四年と読める。二皿(6個)で540円。

アーケード右側(写真)に黒木書店があった。元町五丁目辺り。

元町側に裏通りを選んでブラブラ降りる。竹中郁や天野隆一が歩いた時代の雰囲気(この二人はハイカラだから、トンカ書店などに続く道は足立巻一、亜騎保、岬絃三の方だな)を求めるのも可笑しいが、なにか、吸収したい気分。中華街の老祥記に入り、豚まんを二皿食す。土産をもって元町を神戸に向かって歩く(これ匂うからな)。海文堂書店を覗き、黒木書店があった辺りもブラブラ、そして、学芸員のAさんに教えてもらった兵庫古書会館での古書市へ顔を出す。不思議は続くもので、二階の棚で竹中郁マン・レイと会った時の印象を書いた「マン・レイを訊ねた」が載った「セルパン(1935年11月号)」のPHOTO NUMBERを見付けた。家蔵の号は表紙に書き込みがあるので状態の良いものを探していた訳。精算を済ませ階下に降りると、今度は名古屋豆本の第11集、亀山巌著の「絵本ぱらだいす」(1969年)が袋付きで現れる。どちらもリーズナブルな価格設定のオールドブックス ダ・ヴィンチの出品、有り難いKさんとの出会いだった。

 中之島マン・レイから天野隆一を至て竹中郁、とどめに亀山巌となると、執筆中の原稿と同じ構成となるではないか。これは、何を意味しているのだろう---和物はこれで休止し、再びマン・レイに収集スタンスを変えているわたしに、いやいや、まだまだ、戦前の詩人たちもすごいですよと、誰かが囁いていると云うだろうか。花隈からガード下を歩いて三宮に戻る。手許が豚まんで匂うので、ちょっと、本屋を覗きにくいなと思ってしまった。