河井寛次郎と洛旬万菜こしの

名古屋の写真家が上洛。約束の時間まで京都・高島屋で開催中の「河井寛次郎、生命の歓喜」展(5月5日まで)を観る。寛次郎は好きな作家で五条坂のアトリエにも何度か行った(若い頃だけど)。百貨店の会場で部屋の様子が再現され、生活の中にある民芸の精神は良いものだ、木製飾り棚の五体を観てると楽しくなった、今日はNo.111の木彫「猫」(一人娘の可愛がっていた「熊助」と云う名前の猫が居なくなった時に彫られたとの事)が一番かな。陶器としてはNo.8の「孔雀緑黒花耳付壺」(個人蔵)とNo.173「呉洲貼文扁壺」のブルー発色が現代的で惹き付けられた。売店で「助からないと思っても助かって居る」と書かれた絵葉書を求める。---このところの気分とマッチする訳。

寛次郎58歳頃の詞句 24.5x36.5cm
勧業館で友人と待ち合わせた後、京都国立近代美術館の1階で東京シリーズの新作を拝見する(40年以上前に愛知県立美術館1階のベンチで二人して写真を見せ合った頃の情景が蘇った、同じ事をしているのだな--進歩がないのか、深化しているのか、問題ばかりだけど)。友人にとって最優先課題の撮影だそうだが、東京地区の諸般の事情で撮影には適さない光の状態、シャッター・スピードが遅れて手ぶれになったり、色温度が不規則になったりしていた。しかし、対称との関係を明るく語る友人の楽天主義はどこからきているのだろう、劇的な物語の進展ではなく、ありふれた日常が進行していく写真の行為、友人にとって、これこそが自然なのだが観る者はどうしても、物語を読みたくなってしまう。しつように撮影を続ける情熱は、どこから来るのだろう。今日は公園や遊具、幾層にも塗り重ねられたペンキの色調に時間を読んでいく、別の作品群も拝見した。友人の様々なアプローチ、重層化した写真行為の先にあるもの、貴重なフレーズを聞いたのだけど---


その後、三条烏丸まで歩き、洛旬万菜こしので一杯。十四代(純生)から頂いた。純米吟醸の「富翁」から佐々木酒造の「古都」。食したのは造りの盛り合わせ(三種)、地鶏の天塩焼き、しめさば、春の山菜天ぷら、牛肉とキノコの陶板焼きなどなど、そして、鮭雑炊でしめる。場所を変えイノダコーヒ本店のガーデン席でいろいろと話す。年末の京都写真展で友人がどんなふうに「時間論」を展開するのか、興味深く話しを聞いた。--酔っぱらっているので肝心なところが、あやふやなのだけど。

十四代は濃くがあって旨い、でも甘口かな、富翁の方が好みであるように思う。

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イノダコーヒのガーデン席、噴水の水音は良いモノだ。

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四条烏丸で別れて阪急電車に乗ったのだけど、西院では停まらない。特急電車だった訳で桂駅で折り返す。いつもの事だけど。

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9時過ぎに帰宅し、昨夜からと外出前を合わせ、今日は3セット(累計15セット)印刷した。