碧南・新安城 合宿


名鉄電車 三河線ワンマン対応車6000系 (6020+6220)

名鉄電車 三河線 碧南駅 12時56分
古い友人を訪ねて碧南へ行った。京都からだと名古屋で新幹線を降り東海道線刈谷名鉄電車の三河線に乗り換えおよそ2時間半の行程。彼は中部学生写真連盟高校の部時代の仲間だから、自宅へ伺うのは40年ぶり、あのころの電車は緑色だったなと思い先頭車両から単線の先を眺める。終点の町は海が近い、1時に着くと友人が車で向かえに来てくれていた。早速、現在の楽しみと云う大型鉄道模型(大型の子供を乗せて走る)を見せてもらう。新作はホイットコム・ボンネット、人柄そのままにデコ型電機の楽しい形状が好きな様子、身体を動かす特有の感覚は写真家の眼として独特だったし、旋盤を使い、人が乗れるものを作る喜びは、格別の優しさからくるのだろうな、自宅の庭に建てられたスペースを「衣浦車輌・浜田工場」と名付けている。こんな空間を持っているなんて羨ましい。


衣浦車輌・浜田工場
友人を訪ねたのは、写真集を確認する事だった。東京で写真の仕事をしていた関係で、わたし以上に70年代のリアリティーあふれる写真資料が山積みになっている。事前にリストをもらっていたので書棚から現物を取りだし楽しんだ。東松照明森山大道細江英公などのビックネームは別にして、491関連の写真集などを見る。わたしの手許にないのは『這根』福島彰秀と『ヒロシマ 広島 hirosima』全日本学生写真連盟、二人して491の事務所を訪ねたのは19歳の時だったけ、『断層』の高橋章など同じ高校生の写真集として影響を受けた。合宿の案内や通信などがファイルに三冊、劣化した新聞用紙は、手にとる端から崩れていく感覚。この資料をもとに当時の状況を整理する必要性を痛感するものの、名古屋と東京との二年ほどのブランクに視点の違いが歴然とする。彼は見たけどわたしは見なかったもの。彼は走ったけどわたしは喫茶店に座っていた。女の子ばかりを見ていたんだ。



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『壁は語る』 13×19cm J.ブザンソン編 広田昌義訳

『足ぶみ飛行機』17×18cm 「5/合宿 (3)サークルの状況を把握し、問題を摘出する以前における、討論か撮影か、という議論は無意味であろう。」
友人に譲ってもらいたいと頼んでいたのは、粟津潔が構成した『壁は語る』(竹内書店、1969年刊)と明治大学カメラクラブが発行した『足ぶみ飛行機』、後者には刊記がないので詳細は不明(70年安保時代の出版物では一般的)。高校生の時、全日合宿で『足ぶみ飛行機』を手にした友人は、テキスト部分をガリ版に切って仲間に配った。赤い表紙の懐かしい冊子。「これもセット」でと加えて渡した後、「俺にはこの方が重要なんだ」と付け加えた。彼の手許から二冊がなくなる、思い出を奪うようで気が重くなった。

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 さて、夕方、もう一人の友人(中部学生写真連盟高校の部)が登場し、三人で安城まで移動。昔話に話しが弾む。しかし、覚えていないこと、勘違いしている事が多く、それぞれの視点で時間が作られていると感じた。手帖にメモしようか、このままやり過ごそうか、会話は消えていくからこそ楽しいのだろうか。

もう一人の友人の書斎(知立市) 拙著『三條廣道辺り』(銀紙書房 2011.8.27刊)の『エロテックな墨流し』で「写真集を横に置いて生きた夫婦の物語」と言及した。
 書棚ケース内には稀覯写真集、立て掛けられた名古屋市美術館の「写真家・東松照明全仕事」と愛知県美術館の「愛知曼陀羅」のポスター、その背後にはエドワード・ウエストンのオリジナルプリント(アール・ヴィヴァンで買い求めた品であったと記憶する)懐かしい。

 遅い時間まで呑んだ後、名鉄西尾線で福地まで戻る。暗闇の中を電車が走り光の帯が田んぼに続いていく。駅まで向かえに来てくれた友人の娘と息子に感謝。田舎では車がないとダメなんだと気付く、酔っぱらった還暦二人連れを乗せて西へ、友人宅に戻った時間は記憶にない。