シュルレアリスム美術を語るために

シュルレアリスム研究の最前線で活躍する鈴木雅雄とコンテンポラリー・アートを専門とする知性の人、林道郎との往復書簡を中心とした興味深い本を読んだ。題して『シュルレアリスム美術を語るために』雑誌「水声通信」での掲載時に読んではいたのだが、東京都写真美術館でのシンポジウムに参加出来なかったので、早く読みたいと思っていた訳。わたしより若い世代(鈴木で10年、林で7年)のシュルレアリスムとの距離感では、「シュルレアリスムを生きる」などとは言わないのだろうな。


シュルレアリスム美術を語るために』(水声社 2011年6月刊、2800円+税) 

気になったところを引き写してみた:

彼(瀧口修造・引用者補足)によって、「物質」に主導権を渡す、そしてそれを通じてコミュニケーションの新しい形式と経路を切り開くシュルレアリスムといった見方が可能になり、そこから、若干の飛躍と屈折を経て、花田清輝そしてウォルター・ベンヤミンなどという名へ連なる経路も拓かれた。13頁 林道郎 

シュルレアリスムという運動を、イメージ/テクストの領域に閉じ込めるのではなく、日常の生活場面におけるメンバー相互の愛憎交えた私的交流や出版メディアの働きなどの複雑な絡まり合いからなる「生きられた錯綜」とでもいうべき世界に置き直し、その「痙攣」をまるごと捉えようとする視線が隅々までに息づいていたからだ。 16頁 林道郎

シュルレアリスムの写真が、加工された場合でも、かならずその跡が目立たないようにされ、滑らかに統一された空間(準遠近法的な空間)を保持しているということがありました。そこがキュビスムからダダへと継承されるコラージュにおける写真使用とは本質的に違うところで、滑らかであることによって、イメージはそれが「現実」の像であることを主張し、同時にそこに加えられた変形によって、「外部」の力を指し示すという、引き裂かれた性格を持たされることになります。 39頁 林道郎

遠近法という視覚システムそのものが、性的な欲望の備給を可能にする特権的な構造をもっていたことへと敷衍して考えなければならない問題なのでしょう。110頁 林道郎

印象派以降になると、画面サイズの小型化とモダニズム的な感性にもとづいた脱イリュージョン化のプロセスのなかで、遠近法はしだいに時代遅れのものになっていきます。 122頁 林道郎

「不気味なもの」の反対に、「可愛いもの」では変ですが、「愛する」ということがあるんだと。何かを引っくり返して不気味なものにするのではなく、あるものを過度に愛することの不気味さもあるんじゃないでしょうか。 147頁 鈴木雅雄

シュルレアリスムという運動のなかで生み出された「作品」と呼ばれるものの多くは、最終的には手紙やプレゼントとまったく区別できないと、僕は考えています。 166頁 鈴木雅雄

目をつぶるという行為に死を模した部分があるのは確かだとしても、それは失われた何かの方を向いているわけではなく、写された「私」たち一人ひとりは、未来へ向けてそのイメージを「機能」させるために自らの顔を眺めることになるのではないでしょうか。 201頁 鈴木雅雄 (「シュルレアリスム革命」第12号の掲載図を想起・引用者補足)