中村正義とジャクソン・ポロック

帰省して二つの展覧会を観た。まず、名古屋市美術館「中村正義展」(11月1日〜12月25日)、副題は「日本画壇の風雲児、新たなる全貌」。わたしの乏しい経験から蛍光塗料を混ぜて描くおどろおどろした「男と女」シリーズの日本画家と云った先入観で会場に入ったが、初期作品に現れた光の扱いに西洋風の感性を見て驚いた。「斜陽」(1946年頃)や「雪」(1961年頃)などに柔らかく、強く現れた光には自立した自我があるし、伝統技法から自由になった「風景」(1958年)はエルンストが描く森と繋がっているようだし、「点」(1963年)にはマン・レイの自然絵画との類縁も認められる。日本画の表現なんて関係ないぞと、真摯に生きた人の眼には光だけが映ったのだうか「樹間」(1969年)の逆光など、写真の世界だけど、どこか違うリアリテイを持っている。カタログに中村の言葉が幾つか転載されているが、その一つに「誰にも似ていないということが芸術創造の根本原則です。」とあった。
 会場をゆっくり歩いてみると、作品が高低差を付けて掛けてある。視線に変化を持たせ緊張感を演出し、作家が生きているような臨場感をあふれさせている。2階に上がる遮蔽壁の狭さも意図したものだろうし、吹き抜けを使ってプロジェクターが映し出す作家の姿も危うい距離感があって面白く、菩薩達に囲まれる小部屋や地階の「源平海戦絵巻」に圧倒される展示室など、美術館の空間を知り尽くした学芸員ならではの仕掛けだと感心させられた。


カタログの裏面一杯にアトリエを写した写真が使われている、ちょっと良いのよ。

琵琶演奏家・北川鶴昇による「壇ノ浦の段」の演奏、幼い帝が泡となって消えていく情景が、中村の絵画とコラボして濃密な会場になっていた。

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3時過ぎにいそいで栄まで移動し、愛知県美術館で始まった生誕100年「ジャクソン・ポロック展」(2012年1月22日まで)を拝見した。評価額200億円の絵画と云う話題が先行する伝説的展覧会(になるであろう)というので期待したのだが、中村正義を観た直後の眼には、「幼く」感じるアメリカ作家になってしまった。ポーリングやドリッピングなどの技法は、偶然をコントロールするのだし、選んだ部分で作られる絵画は、拡がりと奥行きに欠ける。アルコール依存症にさいなまれた画面には、精神分析の絵解きばかりが充満していると思えてならない。画布に取っつきにくいのは、会場構成が画一的で、「ありがたく、かしこまって」鑑賞させようとさせる為だろうか。アトリエの再現(室内以外にカメラを向けようとすると係員が飛んで来る)やポロックの靴を置いた交通事故現場などに後世の様々な憶測をみてしまった。いつものように会場を何度も回ったが、眼の端で面白く感じたのは「無題」(1946年、富山県立近代美術館)、「カット・アウト」(1948-58年、大原美術館)、「黒、白、茶」(1952年、原美術館)と云った、いずれも日本のコレクションになっている作品だった---眼が記憶している図像に再会して喜んだのだ。きっと、幾度か期間をおいてポロックと再会したら、「インディアンレッドの地の壁画」にも感動するのだろうな(次会を期待したい)。