請益生


撮影地は左から: 豫園(2) 留園(3) 鴨川(1)

京都写真展に出品した6枚組写真のタイトルについて、説明しておきたい。会場のコメントには「司馬遼太郎の『街道をゆく 十九』(朝日新聞社、1982年刊、306頁)に、この言葉があった。」とした。11月に家人と上海・蘇州の観光をした後、中国を知りたいと思って谷口智彦の「上海新風---路地裏から見た経済成長」(中央公論社、2006年9月)と司馬遼太郎の「中国・江南のみち---街道をゆく19」(朝日新聞社、1982年10月)を読んだ。どちらも興味深く、異国の情景を裏付けて理解するのに役立った。谷口では父君への追想にじんとくるものがあったし、後者は司馬史観における中国理解へのアプローチの有効性をなっとくさせるものだった。---遣唐使団への言及に「留学には、行ってすぐ帰ってくるだけの請益生というのがあった」として、文献紹介による田舎密教の受容で仏教者の道を外れていく最澄の例などを挙げている。以下、306頁の転記

「請益」というのは唐代の言葉らしく「師のもとにあいさつをしに行って、許しを請ける」という意味である。僧の場合、経典、仏画をコピーさせてもらったり、法具の複製をつくらせてもらい、日本に持ち帰る。請益の僧は、僧として学問的に成熟した者が多く、最澄の場合などは、すでに宮廷の十人の僧(内供奉十禅師)のひとりで、権威からいえば明治の帝大教授を超えるものであったろう。

 「マン・レイから許しを請ける」のは、あらゆる意味で不可能になってしまったが、在野であっても、わたしにはマン・レイ研究の実績が40年あり、人からは「コレクター的に成熟」していると見られていると思う。そんなわたしが、たまたま、上海・蘇州で観た事象が「師のもとにあいさつをしに行って、許しを請ける」といった気分を、写真が色濃く反映したわけである。人の「絆」に涙した1年を振り返り、写真(自己表現)の事を考えていたら、「請益生」と云う言葉が頭から、離れなくなってしまった。空海のように留学しなければ、マン・レイを受容することはできないだろう。