マクシム・アレクサンドル


Maxime Alexandre 水声社 2012年1月20日発行 定価2800円+税
奇蹟的に全十巻完結に近付いている水声社のシリーズ「シュルレアリスムの25時」の新刊『マクシム・アレクサンドル--夢の可能性、回心の不可能性』を読んだ。執筆はシュルレアリスム研究の俊英、鈴木雅雄(1962年、東京生まれ)、このシリーズでの氏の執筆は2冊目(ゲラシム・ルカ--ノン=オイディプスの戦略については、このプログでも報告した。)だが、「私の仕事の前提には、シュルレアリスムとは作品を作り出すことではなく、いわば「幸せ」になろうとすることだという考え方がある。」(276頁)とする姿勢の困難さと、境界があいまいなシュルレアリスムを生きる事に対する真摯な態度に、なるほどと思う部分の連続である書物となっている。「シュルレアリスムを生きる」と言明したように、わたしは生きてきたのかと自問するばかり、いくつか、引用しておきたい。

 アリクサンドルの後半生において非常に大きな比重を持ったのは、みずからの過去のすべてを語りつくそうとするかのような回想記作者としての情念であるが、最後に私たちは彼の回想的な一連のテクストのなかに、自分の人生に一つの枠組みを与えようとするたびに、修復できない亀裂と齟齬を見つけ出してしまうようなあり方を確認することになる。(26頁)

 ブルトンは異なる会合では異なる回答をしていて、そもそも彼らがここで語っていることがどれほど現実に対応しているかなど、まったくわからない。(73頁)

 ブルトンに心酔する書き手の多くが、自分の体験もまたブルトンの体験したものと同じ「客観的偶然」だと---自分こそ本当にシュルレアリスムを実践しているのであり、したがってグループに加わったことはなくとも、シュルレアリスムの「内部」にいるのだと---考えてしまうのに対し、アレクサンドルはブルトンの身振りを反復しようと試みながら、自分はそれに成功しなかったと語る。(119頁)

 ロラン・バルトもまた、自伝は「私とは誰か」という狂人の問いを問うが、日記は「私は存在するのか」という愚者の問いを問うといっていた。(187頁)
 自伝/回想は書き手によって再構成されたもの---書き手がそうであってほしいと考えているもの---なのに対し、日記とはそこから「事実」を推測すべき資料だとみなすのが常識的な判断であろう(199頁)
 運動に加わったものたちと自分がどのように出会ったか、ブルトンはしばしば語ってみせた。とりわけ有名なのは。『ナジャ』で描かれる、エリュアールやペレ、デスノスの登場と活躍だろう。(218頁)

 文学研究はテクストを「作品」として見る。いいか悪いかを自分の責任においていおうとする「批評」の雄々しさとは違うにしても、確立された作品平面とその効果に対する信頼、テクストへの冷静で成熟した愛情がなければ、文学研究は成立しない。(223頁)

 シュルレアリスム研究者とはおそらく、自分の語ることが「私」の物語なのか現実なのかわからない場所に赴き、そこで生じたと思わずにはいられない出来事を---語る「私」自身の真実として---証言するもののことである。(224頁)

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 いずれ、『自伝』を書く予定にしているので、上記の箇所に特に関心を持った。記して感謝を表したい。それにしても、ブルトンの『ナジャ』と出会って40年、シュルレアリスムにこれほど「つきまとう」とは思わなかった。
 「シュルレアリスムの25時」は、次回配本「ジュルジュ・エナン---追放者の取り分」(中田健太郎)で完結の予定。