「村山知義展」すべての僕が沸騰する


鴨川・御池大橋から北を望む。

疎水から京都近代美術館、右手に平安神宮の大鳥居が見える。

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三週続けてお花見にブラブラ、でも昨夜の雨で落下盛んの葉桜状態になっていて残念。---今日は午後から京都国立近代美術館で7日から始まった村山知義の展覧会に出掛けた。村山(1901-1977)は大正末期から昭和初期にかけて活躍した作家で、新興芸術を理解する上での最重要な軌跡を持っている。21歳(1922年)で原始キリスト教を学ぶため独逸に渡った後、当時勃興した芸術思潮(表現派、構成派など)に傾倒・影響を受け学業を断念、以降の人生を芸術の分野で全うした。仕事は美術から建築、ダンスからパフォーマンス、舞台芸術から演出と多岐に渡り、グラフィック作家・絵本作家としてもよく知られている。
 わたしにとっての村山知義は雑誌「マヴォ」での活躍や「コンストラクション」などの作品を通した美術家であるが、その生涯を通観する展示を拝見しながらさまざまな事を考えた。大戦前の洋行と青春における文化の受容が、わたしの関心事の大きなテーマなのだが、村山の場合、独逸の俊英舞踏家・ニッディ・インベコーフェンとの出会いが大きいと思われる。会場では彼女が踊るショパンとべートヴェンの映像(1分37秒)が映し出されていたが、性を持たない肉体の象徴性に惹かれる部分を村山のように感じた。彼は「美しいと思う人々」(雑誌・婦人の友社 1927.1)と題するエッセイで「初めて写真を見た時は男の子だと思った。---彼女は口の中に歯は無いような感じを興へる。---そして私も彼女の顔を見て涙した、天国と地界との間にさまよっている顔、小さな、しかもおおきな顔」(急いでメモしたから引用に誤りがあるかもしれない)。この感覚は青春に固有のものだと思う、15歳でデビューしたニッディを知ったのは彼女が18歳の時だと云う。村山が独逸から持ち帰った2000冊の書物、翻訳し紹介するのは熱にうかされた行為、「沸騰する」行為であるのだろうな。
 最近の展示では、文献資料に重要な役割が与えられている。油彩や水彩や写真と拮抗して、書物や雑誌や小さなカタログの類が示されている。エフエメラ好きにとっては嬉しいことといったらない。この展示では特に、浅草・伝法院大本堂で開かれたマヴォ第一回展覧会(1923.7.28-8.3 )に関する案内状、案内状封筒、目録、チラシ、入場券といった涎モノに心を奪われた(欲しいな)。そして、別のケースに収められた村山知義宛の柳瀬正夢葉書「フンメルのワルツを踊っている私」を撮ったオリジナルの写真葉書が素晴らしい。モホリ・ナジとマン・レイの「回転扉」との関連や、仲田定之助旧蔵のパウル・クレー、牧野虎雄の「花苑」やクルト・シュヴィッタースのいくつかを楽しんだ。
 展示構成のほとんどが未見。山田耕作と「デア・シュトゥルム」誌との繋がりも、所蔵先表記にあったギャラリーTOM(村山知義の子息である村山亜土が開設)についても知らなかったと、反省する事ばかり。展覧会の会期は5月13日までで、水沢勉、尾崎眞人の記念講演、やなぎみわの演劇プロジェクトなどが予定されている。

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白川端を下がりギャラリー16で松尾直樹展「赤いネズミ、他」を拝見し、新門前、花見小路、祇園と抜けて四条大橋へ。12日に発生した車暴走には、幾つかの場所で花が手向けられていた。亡くなられた方々のご冥福をお祈りしたい。

疎水から白川へ下ったあたり。外国人観光客も多い。

鴨川・四条大橋から南を望む。