写真の誘惑---視線の行方

国立国際美術館でのシンポジウム「写真の誘惑---視線の行方」初日に参加して先程帰宅した。刺激的な討議については後ほど報告したいが、明日、参加予定の方(わたしは所用があって不参加)の為に一言、整理券配布の5分前(9時55分)に美術館へ到着したら、「最後尾」のプラカードを掲げた女性を見つけてビックリ。頂いた券はわたしで80番だった(定員130名)。恐らく10時30分には無くなったかと思う。知人の話では明日はもっと込むのではとの予測、予定されている方には早くからの出撃をお勧めしたい。

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整理券の順番を待つ行列は美術館の外に長く続いていた。

シンポジウムの入場整理券No.80 会場入場は12時40分から

国立国際美術館は、これまでも重要なシンポジウム(野生の近代:再考---戦後日本美術史、未完の過去:この30年の美術、絵画の時代---ゼロ年代の地平から)を開催してきたが、今回の「写真の誘惑---視線の行方」に関しては、評論家や研究者だけではなく、実際に同展で作品展示をしている人を含む表現者をスピーカーとしてよんでの討議となったので、一般の関心も高いと思われる(理屈よりも実体験だよね)。整理券配布に並んだ人達の顔ぶれも若い。

 セッション1「写真と記憶」は植松由佳の基調講演に続いて、森村泰昌の「しゃべり」から始まった。討議の内容が活字に残されるのを危惧しつつ、ライブ感が大切とサービス精神旺盛な「大阪的」乗りで米田知子を巻き込みつつ話しを盛り上げられた。壇上の三方がそろってロラン・バルトの「明るい部屋---写真についての覚書」を持ち込んでいたのは面白い---わたしもバルトを若い頃(そして最近も)に読んだけど、どうも良く判らないが、森村も同じようで年齢を経るにしたがって、判らなくても良いと思えるようになって、理解出来たような感覚に至ったと言う。それは、肝心のイメージとなった母親の写真が図版としては提供されていない(はなから貴方には判らないと、作者が言いたいのかも)ことに起因するのかもしれない。こうしたニアンスは対談の流れのなかで消えゆき、別のかたちで蘇る。その場に居なければと思う。だからコトバで再現出来ないのよ。森村が発したキーワードは「記憶、記録、思い出」「撮る、写る、見る」などだったし、バルトに関連して米田との「切り傷を与える」に関する「プンクトゥム」と云う表現への言及も興味深かった。隣家が写真店であった事にも起因するのか、父親のライカで写真と出会った森村、シャターを押す楽しみを持った森村が美大に進んで教授から「君の写真は面白くない」と批評された後、面白い写真があるんだと、写真史を紐解く側にもシフトし、客観化、作品化に至ったのはよく理解できる。森村の仕事をギャラリー16での「肖像/ゴッホ」から観ている者として、なるほど、なるほどと合点のいく話しだった。
 もう一人のスピーカー、米田知子がどんな人なのか、知りたいと思ったのが、今日の目的の一つだった。彼女は明石出身でジャーナリスト志望でアメリカに渡り、言語の壁にぶつかってヨーロッパに活路を見つけようとしたらしい。現在はロンドンを基点に幅広い活動を展開されているが、写真との出会いは父親にあるという(家に暗室があった)、旅行記念にひもついた写真の記憶、「どうして、米田知子は歴史を扱うのか」と云う森村の問い---彼女のスタンスには両親の戦争体験が影響しているようだ。キャプションによってイメージが変わってしまう写真、情報は操作されていると言う。文筆で世に出ようとした米田にとって当初の写真は「筆の足しになるか」といった扱いだった。写真とコトバの相乗効果で表現を指向している、わたしとしては米田のやり方に親近感を持った。バルトの「明るい部屋---写真についての覚書」は遺作でもあったので、その後を生きる世代となった森村と米田の認識はネガ・ポジの親を持つ時代からデジタル化したクローンの時代になり、先の大震災が警告する地球規模の被害、電気の影響で一瞬にしてデータが消えてしまう、世界が破壊される時代は、一方で「不死の時代に入った」と云えるようで、森村は歳をとらないアニメのキャラクターにまで言及されていた。わずかな時間ではおさまらない重要な問題が山積みで考えさせられたが、刺激的な時間だった。いずれ、活字化されるシンポジウム報告を楽しみに待ちたい。ありがとう。

 20分の休息を経てセッション2「写真と身体」が始まった。こちらの基調講演は東京都写真美術館笠原美智子、わたしにとって未知な作家「フェリックス・ゴンザレス=トレス」を紹介しながらの「身体の不在によって身体を表現すること」と云う意図だったので、ちょっと捕捉しずらかった。スピーカーの鷹野隆太とブブ・ド・ラ・マドレーヌについての知識も不確かなので、作品と作者の関係性を理解するのに手間取った。笠原の立ち位置によるのか、ジェンダーやマイノリテイーといった括りに政治性がまとわりついて難しい。スピーカー二人の作品にはいくつもの共通性があるようだが、グロテスクな身体表現なのでつらい、向き合うべきと思うかどうかだか、二人が性的な意味合いを写真化において「性欲の発動」とか「20センチの法則」などと発言されると、「人それぞれだよ」といったスタンスになってしまう。写真を考える事ではなくて、個人的な事項へどんどん踏み込んでいく対談、意味はあるのだろうが---セックス・ワーカーで60歳になったら現役に復帰すると公言するブブは「欲望を捻挫させる」面白み(?)についてあれこれ、「カスババ」シリーズに移行されている鷹野は「性欲が落ちてきたのか」と自戒、「写真と身体」の討議が死の側へどんどん踏み出して行くのは当然といえば当然なんだろうな。
 男と女の恋愛を指向する者を、同性愛者(ゲイ)の反義語として異性愛者(ヘテロ)とよぶそうだ。こうした語彙をもたないわたしなど、このセッションに不向きであるのかも知れない。身体を見つめれば見つめるほど、不在になるとは、なんと逆説であることか。ブブは「腐らないものはおかしい」と言う。自分の肌の色を基準チャートにしようとした鷹野(実際には失敗したらしい)、身体を捉えようとすると、政治性が覆い被さるのはどうしてだろうか、肉体は連鎖の中にある事の証しなんだと思った。討議の後の、若い聴講者からの問題提議にきちんと応えていた二人、何か違和感ばかりを覚えてしまった。マン・レイが写した美しい女性ばかりを愛しているわたしとしては、当然の反応なんだろうな。この点についても、後ほどのシンポジウム報告を参考に検証したい。