田渕照弥の「書」


田渕照弥 李白「自遣」より

ロンドン五輪が始まってテレビ観戦に忙しい。開会式では新しい国や地域の参加が多く国名と国旗と場所が不案内。しかし、旗手を務める美しいアスリートたちが登場する度に、特徴的な骨骼にワクワク。国家昂揚の露骨なイベントは嫌だけど、表情豊で誇らしい女性たちが素晴らしく人類の多様性に希望を持った。早く起きたので家の用事を幾つか、---床の間の掛け軸(京都の水明書道会で長く後進の指導にあたられた故田渕照弥氏の書)を取り替えた。
對酒不覚暝  
落花盈我衣  
酔起歩溪月  
鳥還人亦稀
   李白
 ネット検索の助けを借りて読み下しをすると「酒に対して冥(ひのく)るるを覚(おぼ)えず/落花(らっか)我が衣に盈(み)つ/酔起(すいき)して渓月(けいげつ)を歩めば/鳥は還(かえ)り人も亦(また)稀(まれ)なり」、これを現代語訳にすると「酒を飲んでいて、日暮れさえ気付かないでいた/気付けば、散りかかる花びらがわが衣を被い尽くしている/酔ったまま起ち上がり、月の光に照らされる渓(たにがわ)の辺りを歩いてみると/鳥たちはねぐらに帰り、人影もまた まばら」(paxchinaのブログ 日々のよしなしごとを…から)、今日はクーラーを効かせて昼からビールを飲んでしまったから、この詩がピッタリだった訳。李白は「酒」をキーワードとして、社会の矛盾を内面に投影したのだろうね。女流書家の筆先が散りかかる花びらのようで、初盆に帰ってこられるような雰囲気である。

 須賀敦子のエッセイ集「霧のむこうに住みたい」(河出書房新社、2003年3月)を読んだ(昨夜)。その中の一遍「となりの町の山車のように」が特に興味深かった。著者が1947年ごろ夜行列車(鈍行)に乗って関西から東京行く車内で「どれぐらい停車していたのだろう。やがて、かん高い汽笛が前方にひびいて、列車ぜんたいにながいしゃっくりに似た軋みが伝わると、ゆっくり動き出した。」(115頁)の記述に、わたしの鉄道ファン時代を思い出して懐かしく思った。著者は「この列車は、ひとつひとつの駅でひろわれるのを待っている「時間」を、いわば集金人のようにひとつひとつ集めながら走っているのだ。列車が「時間」にしたがって走っているのではなくて。ひろわれた「時間」は、列車のおかげでひとつのつながった流れになる。いっぽう、列車にひろいそこなわれた「時間」は、あちこちの駅で孤立して朝を迎え、そのまま摘まれないキノコみたいにくさつてしまう。」(116頁)と続けるのだから、深く悲しい孤独の繋がりなわけで、前述の「李白」と「須賀」を並べて書きたくなった。