エル・グレコ展 at 国立国際美術館



レセプションで飲んで、京都に戻って飲んで、ヨッパラっています。ちょっとハイだと思います。大阪・中之島国立国際美術館で明日から始まるエル・グレコ展の内覧会・開会式・レセプションが2時から5時まで行われたので、会社を早退して出席。昨年から心待ちにしてきた最大規模の展覧会。グレコ大原美術館所蔵の『受胎告知』を観た時から虜になった画家で、ブルーと赤の色彩がなんとも涙色でじんときてしまっていた訳。そのエル・グレコの傑作51点が集結するというのだから、大変なんです。美術館には2時に到着---ざっと観てから見直すのがわたしの流儀なのだが、これが、いけない、ひっかかるモチーフがいろいろあって流せない気持ちとなりつつ、会場を進んで行くと入口側へ出そうになるのだが、左に曲がって展示室(最後の部屋だった)に入ると、高さ3メートルの大祭壇画No.50『無原罪のお宿り』(1607-13)が掲げられている。教会風の閉じられた空間ともいえようか。この絵の対向壁面にテレビのクルーが陣取っている。じゃまになるかしら---でも、画面に近づいて細部を確認。右下のユリとバラと街の様子、噴水などを通して遠近法の距離感などに眼を凝らしかけて、マリア像を見上げると、首から顎に掛けての立体感が本当に「マリア」が居るようで、天上界に続く無限の距離感、347 x 174 cmの画面による迫力がもたらすもの以上に、複雑な遠近法からくる宗教的な喜びに包まれた。わたしには宗教心はないけど、ふうっと身体が持ち上がって行く感覚。この絵には近づき見上げるという観賞方法がぜったいに必要だ。
 もどって第一室の「肖像画エル・グレコ」から丹念に拝見。細密でないのに人物の存在、性格、さらに生活まで描いてしまう筆先は、ゆるやかにぼやけていて不思議だ、No.8『医師ロドリーゴ・デ・ラ・フェンテ、またはある法学者の肖像』(ca.1588)の人物の左目の充血具合はどうだろう、どの人物も一方の眼で画家を観ているようで、ひょっとして、画家も片方の眼でのみ対象を観ていたのではと思った。遠近法は両眼の差異でなりたつのに、グレコの遠近法は片方での透視図、無理というか、緊張せずにはおれない視線が、琴線に触れる感覚。それは、描かれた人物がどこか斜めにこちらを向いているためだろうか---視線と姿勢と時間。展示は4つの部門に分かれているが、それぞれに興味深く、肖像画家のパートではマン・レイも、こうしたポーズを研究したのではと思ったし、身体バランスの特徴がマン・レイの描く胴長のプロポーション(解剖学を会得しなかった為とも言われる)と一致しているとも思った。偉大なグレコとの共通点をマン・レイに見たので、なるほどなほどと、会場を回った。
 宗教画の知識がないし、同展のカタログもこれから読もうとするタイミングなので、ヨッパライの印象記と笑って欲しいけど、グレコの描くキリスト像はエロテックです---特に『十字架のキリスト』(ca. 1600-10)には驚きました。股を覆う白い腰布の勃起かげん、布のはつれの射精かげんなんて、意識しているとしか思えない表現だと思った(ゴメン)。『聖マルティヌスと乞食』の白馬の賢い瞳にもしびれました。書き出すときりがないけど、展示品を観ながらNo.32『聖ドミニクス』の額の傾きとNo.23『羊飼いの礼拝』(ca. 1568-69)の額縁と原画のズレなどが気になった。400年前の油彩群は、どんな時間をくぐってきたのだろう。

エル・グレコ展 カタログ カバー絵は『無原罪のお宿り』32 x 23.3 cm 296頁

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レセプションでシャンパンをいただいていたら、展覧会監修者のお一人であるフェルナンド・マリーアス教授をお見かけした。それで、カタログに献辞をお願いすると、快く応じて下さった。そんな訳で、ハイになっている。

展覧会は国立国際美術館を会場に10月26日〜12月24日で開催される。