写真と文学


京都・西木屋町「枝魯枝魯/ひとしな」にて
塚本昌則編による『写真と文学』(平凡社、2013年刊)を読んだ。「何がイメージの価値を決めるのか」と問う本書は、シュルレアリスムと写真に関心を持つ者にとって、刺激的な構成となっている。ちょっと一段落したので、付箋を付けた幾つかを書いておきたい。

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「速度の違うふたつの記号、質の異なるふたつの次元が共存しているのである。」(塚本昌則・34頁)

「明確な日付を持った撮影の瞬間から切り離されて、写真はしかし永遠の時間に達することはなく、曖昧な厚みを持った「現在」のなかに投げ入れられて機能する。」(鈴木雅雄・130頁)

シュルレアリストたちは明らかに、被写体それ自身の時間から隔てられた説明図ともいうべき写真、とりわけアーカイヴされた写真に対し、きわめて敏感な感性を持っていた。」(鈴木雅雄・136頁)

「彼女自身がどの写真を成功とみなし、どれを失敗とみなしていたか、どの写真を作品と見なし、どの写真を作品と見なしていなかったということが、私たちには完全には判別できない。」(永井敦子・182頁)

「効果的な陰影のコントラストをもたらす照明や、身体や顔の特定の箇所を強調する被写体と写真家の位置取り、さらにマン・レイが用いたソラリゼーションの技法などにより、被写体の女性の肌の肌理や、贅肉のない身体の線のなめらかさが強調され、身体や顔が理想化され、女性性が強調された欲望をそそる対象となっている。」(永井敦子・184頁)

「この一世紀の間に、写真はジャーナリズムの花形になり、やがて写真の証言する「事実」というものへの信頼性に疑問が投げかけられるに至ってその地位から引きずり下ろされ、イラストに取って代わって広告表現の重要な一媒体となり、つまりは陳腐な大衆文化のまっただ中に身を置きつつ、同時に絵画の模倣(ピクトリアリズム)という呪縛から抜け出すことで独自の美的価値を認められると、美術館の展示室に確固たる居場所を得た。100年足らずの間にこれほどまでに立ち位置を変えたメデイアは他にない。」(佐々木悠介・274頁)


阪急電車京都線にて

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「どうやらかれらは、絵画や彫刻といった美術作品にたいして、少なからず関心を抱くひとたちの集まりらしい。」(齊藤哲也・148頁)