マルセル・デュシャンを立体的に視る--1

書物自身が創造的なものであるばかりでなく、
読書もまた創造的な行為である。
藤本由紀夫『四次元の読書』2001年

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国立国際美術館ニュース 221号 29.7×21cm 8pp 2017.8.1発行

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大阪の国立国際美術館で興味深い催しが開かれている(四次元の読書-1『マルセル・デュシャンを立体的に視る』10月15日迄)。京都の国立近代美術館での藤本由紀夫氏講演に参加した折に教えていただいた企画であるのだが、本好き、資料好きには、堪えられない空間となっている。言えば大阪にキャサリン・ドライャーの書斎が再現されたと言ったところ。藤本さんのアプローチも面白いけれど、昨今のデジタル技術の進展とアーカイバルの研究成果によって、美術館図書資料との付き合いが新しい展開となっているのを実感する事になった。デュシャンの関連書籍とは京都書院や東京のアールヴィヴァンなどで1970年代後半に遭遇したが、高価であったり専門領域のズレから架蔵にいたらなかったりしたので、ひさしぶりの逢瀬。指に触れると幸せを感じます(白手袋を通してですが)。---もっとも、書棚に置かれた65点のほとんどが近年の刊行物なので稀覯本とは言えないけど---
  
アート/メディア─四次元の読書-1 マルセル・デュシャンを立体的に視る(三つ折り、表・裏) 29.7×14.1cm

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 本はテキストを読ませる機能よりも、ページを捲って連続、あるいは断続、はたまた突入、逆転を可能とする知の装置の役割によって、わたしたちに受け入れられてきたものだと思う。デジタル・イメージが反乱する昨今であっても、具体的で永続的な紙とインクの佇まいが、「手」を通して個々人の基準原基になると思う。ところが、美術館などで展示される貴重書の場合は、「手」にとることが出来ない、(デジタル画面でページを捲る疑似体験は仕掛けられているけど)。それで、いつも我慢している訳。個人の肉体(指先)と紐付きになっている本の魅力をどのように伝えたらよいのか、最近は頭を痛めてしまう。---白手袋を渡されるだけで、本の扱い方の指導と云うのはないからね。そして、もう一方で、「本」だからと云う理由で、蔵書印などが押されぞんざいに扱われ、美術館の収蔵庫から漏れてしまう実態。こうした、もろもろの不満を、今回の展示でクール・ダウンさせていただいた(感謝)。
 今回の企画には、紙モノがいくつか用意されていたので、いただいてきた。美術館ニュースで平芳幸浩氏が指摘されているように、「デュシャンについて考えたり語ったりするために作品を観る必要がないこと」「デュシャンは言葉でできている。ひとつは彼自身の思考の言葉として。もう一つは他者の思考の言葉として。」といったあたりを改めて考えながら、「同時代性を持ち続けたデュシャン作品の「生々しさ」を伝える最後の展覧会」に立ち会った世代として、「生臭さの消えた、冷たく乾いた言葉・思考・表象」と付き合っていくことが可能だろうかと思ってしまう。身銭がきれた(雀の涙ですが)最後の世代とも言えるのだろうか--- 情報コーナーの様子については、次回紹介したい。

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