2003.8.1-8.31 マン・レイになってしまった人

August 31 2003

気分の優れない一日。資料調べと本の整理。終日、家で過ごす。夜、世界陸上の女子マラソン中継で、地図を手許に拡げ、熱心にテレビ観戦。街並み、店の看板をチェック。コマーシャル中の街路が気になる、アレクサンドル三世橋の手前で右折した左岸の情景が、途切れてしまったのよ。ケニアヌデレバの走りは違う、それに、野口みずき選手の飛ぶような軽さも良い。仕掛ける迄のかけひき、瞬間への対応がテレビの面白さ、CMが入るのは試合でもつらいね。もともと、マラソンを観るのが好きだけど、選手の背後ばかり観るのはどんな鑑賞スタイルなんだろう。マロニエが心配したほど涸れていないように見えた(?)、パリの街路はステキだね。


August 30 2003

重い話題に引きずられて4時に目が覚めてしまった。テレビを付けると世界陸上の中継。200メートル決勝で、スタートを出遅れた末続伸吾選手が、歯を食いしばり、粘って銅メダルを勝ち取る。短距離種目では日本人初の快挙。4位と1/100秒、10cmの差。血の滲む練習の後に掴んだ栄光。しかし、これも、さらなる順位への道しるべと言う。「結果がすべてだ。人生においても」と思いつつ、寝間に戻った。

 午前中は家の用事。昼から新刊書店と図書館へ。後に睡眠をちょっと。夕方からは雨。気分のスッキリしない中で、新しい本の資料下調べ。夜、横浜のT氏と情報交換。


August 29 2003

阪急電車で知り合いとバッタリ。重い話を少々。


August 28 2003

帰宅した時、家人が近所のTさんが保津川で釣ってこられた鮎を頂いていた。丁度、焼き上がたので、早速にビール。次女が「西瓜の匂いがするよ」と云う。わたしも嗅ぎたかったな、美味い。カメラを取り出し天然物をパチリ。


August 27 2003

東京へ単身赴任しているM氏は友人であると共に『日録』の良き読者である。氏は8月2日に書き込んだ「万年筆の修理」に反応して親切な専門店を紹介してくれた。電話とメールで確認すると、対応もしっかりしているので、モンブランの149とプラチナの3776を修理に出す事にした。見積もりでは2ヶ月程必要との事なので、その間、原稿書くのに困ると思い、古い万年筆にインクを入れる。書き味で文章が変わってしまうから、今度の銀紙書房本は復古調となるのかな。


August 26 2003

...es flimmerte mir vor den Augen wie einr Leinwand, Von welcher mit einew Zuge ein Bild warmen Lebens weggewischt worden ist.(Gottfried Keller)
GALERIE SEVERINSWALL
22 - 30 November 1980.
Invitation 14.5 x 10.5cm.

  

朝方の京都市内は激しい雷雨。家が潰れるかと思うほどの凄まじい勢いだった。オランダのユトレヒトにある古書店から、そろそろ、エフェメラ4点が到着するタイミングなので、これが終日続くといやだなと思いつつ出社した。欧州からでも一週間が郵便の目処。先日、安く見付けて注文していたところ。
 さて、きちんと梱包された封筒が帰宅すると机の上に置いてある。よかった。内容はコーダー・アンド・エクストローム画廊(ニューヨーク、1965)の大判カード「我が愛しのオブジェ」。ロッテルダム・ボイスマンス美術館での大規模な回顧展(1971)の前日内示展案内状、光沢紙に美しく『恋人達』が印刷されている。又、アイントホーヘンのヴァン・アッビェ美術館の案内状(1975)はソラリゼーションを使ったヌード写真(眠れるモデル)のもの。エフェメラだけがセットで古書目録に出るのは珍しい。

 一枚、マン・レイと直接関係の無い葉書が含まれている、こうしたオマケが面白い。ウイルソンリンカーン・システムになっていて(チューリッヒの地名があるカードにはTOPPAN TOP STEREOのトレード・マーク)、Gottfried Keller通りに金髪の全裸美女が花で陰部を隠し立っている。『日録』に書き込む為にキーボード脇に置くと、裸体の乳首までがよく見える。画廊の案内の方は写真の説明として記載したけど、まったく意味が解らない。まあ、しかたのないことだ。

 今晩も銀紙書房用の原稿を書かず。『日録』で遊んでしまった。反省。コレクション目録に追加記載しましたので、そちらも、どうぞ。


August 25 2003

原稿用紙を買い求めて帰宅。わたしは何時もコクヨのタテ書20×10(ケ-30)。これの升目を無視し、ヨコ書で使う。だいたい400字ぐらいの量。ウダウダと何度も書き直すので進まない、書き損じで破り、クシャクシャまるめてポイ。ペン先と紙の相性。ヨコ書きでの升目バランス。まあ、妥当なところだろう。


August 24 2003

終日外出せず家の用事を片付る。一段落し、5時頃から銀紙書房の新しい本の為の資料整理。書き始めるまでのこの作業が構想を練るのに大切だと思いつつ、何時も捜し物に追われて効率の悪い事といったらない。気分転換にネットサーフインを少々。バカンスと異常気象の影響か、欧州地域の古書店、ネットオークション共に低調。米国のサイトも新しい出品が無く、淡々とチェック。そろそろ、別の収集ルートを発見しないとダメかと思っている。


August 23 2003

朝6時前、町内の地蔵盆準備で目が覚めた。敷布団からゴロリと転がり畳の感触をしばらく。よどんだ頭のままで、昨晩の続きを読み『ナジャ』を読了。346頁に今日の日付を書き入れた。パソコンを前にし『日録』を書き込む。わたしの大切な友人は「l’au-dela」の訳語にブルトン解釈の再検討を迫られると報告している。新しい発見、予期せぬ出会いに満ち溢れた、青春の書である。

 訳者の巌谷國士氏は「本書に特有の役割をはたしている写真の一点一点について訳注でふれながら、写真中に見えるフランス語をすべて訳出することも、この訳注の特徴のひとつである。」(199頁)と、写真からこの書物にのめり込んだわたしの、心の琴線に触れるアプローチを助けてくれている。「有難う」貴方の水先案内がなければ、このような読書・読写は出来なかった。青春がよみがえる体験は、現時点の生活を虚ろなものにさせていく、『ナジャ』的なわたしの書物の再開も必要かと考え始める。ブルトンが執筆した年齢には至っていないけど「この「全面改訂版」のあちこちには、著者が晩年にいたってふりかえる人生のある時期への思い---そしてその時期の体験がいまも彼につきまとい、彼の心情をゆりうごかしているという状況---が透けてみえるのだ。」(316-317頁)といった指摘に触発される。

 今はもう、閉じられた書物の幾つもの頁にはさまれた現実の事柄が、わたしにつきまとい、わたしの心を身悶えさせ「いまも涙の大きな茂みのうしろでほほえみかけている。」(187頁)
 とりあえずは、マン・レイが描いたデッサンでわたしに特別の感情を想起させるサンペネゼ橋(註)が写真右下に確認出来る182頁の写真を示そう。その写真の撮影者は、ヴァランティーヌ・ユゴーで、本文の記述は以下(181頁)。

 ひとつのすばらしい、心をいつわらない手が、夜明けという文字を記す大きな空色の標識板を指し示したのだ。

註)巌谷さんの訳注(303-304頁)によれば、南フランス・アヴィニョンにある古い橋で、17世紀に洪水で流され、以後、修復されないまま今日に至り、途中まででとぎれてしまっている。童謡「アヴィニョンの橋の上で/踊るよ/踊る」で知られる。マン・レイのデッサンではこの橋の上に、現実場慣れした大きさの裸婦が横たわっている。


August 22 2003

『ナジャ』を読んでいる為か、不思議な感覚にとらわれている。現実の出来事が夢のようで、実感無く過ぎて行く。人との会話が音読や黙読となって取り残され、わたしがその場にいる実感が欠落する。これは、おかしく、不安である。写真での再確認が必要な日常。書物の中にいるように生きている。例えば今日のこんな一節「彼女はなんという優美な仕草で、自分の帽子の、実際にはついていない重い羽根飾りのうしろに顔を隠していたことだろう!」(128頁)
 
 帰国中のNさん、知立のYさんと写真集の話しをいろいろ。


August 21 2003

長女が昼に放送された京都テレビの「京都最新情報」を録画してくれていた。ギヤラリー16の井上さんが出演されている。「京都の街は程良い大きさで」との発言に納得。「どんなコレクターも最初はビギナーなんですから」とか「コレクターはシピアです」とかのキーワードに反応した。


August 20 2003

ホテル・グランヴィア2階
グランジュール
話が一段落して撮り合いタイムとなった。

   

   

   

ホテル・グランヴィアのロビーでマン・レイに関心を寄せる若い女性と待ち合わせ。1983年にわたしが書いた本(註)と、マン・レイの『自伝』を読んでいて、作家論を纏めるさいの疑問点の幾つかを質問したいとの用件だった。最初の問いが「マン・レイは写真は芸術にあらずと言っているけど、その本意はどこにあると思われるのか」だったのでビックリ。G.L.M.が刊行した同名のリーフレットに言及しつつ「彼は芸術は写真にあらずとも言っていますよね」としどろもどろに答えるのがやっと。マン・レイの専門家として30年のキャリアがあっても本質的な事柄については、心もとない。「彼は画家だから、写真の話題については関わりたくなく、写真の業績だけがもてはやされる、身に覚えのない絵画への劣等感の裏返し」と答えてしまっては、話題が発展しないことは明白である。
 質問事項が整理されているノートに、わたしの話がメモされていく。「マン・レイはどんな人だったのか」「マン・レイシュルレアリスム写真はどれか」「多くの人達にマン・レイが受入れられるのはどんな理由で」等々。『自伝』で述べられたキキやリー・ミラーの小さなエピソードにも的確に反応するこの人の知性は、自身も写真をやっている体験からもたらされる重みある肉声である。マン・レイの仕事を現象としてではなく、同じ作家として見ようとする姿勢は、好感が持て、話をしているわたしも嬉しい。名古屋市美術館のカタログを前に「マン・レイは手が好きなんですね」と指摘されると、「手フェチ」のわたしは、自分の嗜好とだぶって混乱してしまった。
 高校2年から写真をやっているその人が好きな写真家は、最初、ダイアン・アーバス。次いで今道子、最近ではハンス・ベルメールだと云う。「ベルメールには手が無い」などと念をおされると、会話は深みを増し、リー・ミラーとドラ・マールの素晴らしさを強調しつつ「わたしにとってのマン・レイは」と自問しながら、答えを探すこととなる。
 この人が京都写真クラブやHow are you, PHOTOGRAPHY?展に参加され、一緒に何か楽しい事をする機会がおとずれるのを期待しつつ、充実したひと時を過ごした。

註)父親に借りたと云う『マン・レイになってしまった人』(銀紙書房刊)の事。鞄から取り出された自書を見るのは恥ずかしい。彼女は「この本を書いた頃と現在とで、マン・レイ観は変わりましたか」と、さらに本質的な問いを投げかけてきた。


August 19 2003

「読書」と言うけど、「読写」とも言えるかな。巌谷國士氏の訳註に誘い込まれて『ナジャ』の挿入写真図版を読んでいる。本文と訳註の間を行きつ戻りつする奇妙な読み。文章では行間とか頁の余白とかの指摘だけど、写真と対面する時、映像の背後、建物構造の暗黙の了解、街路の構成、服装の些細なデテール。あるいは、時間のズレと云った感覚。定着された、例えば1/8秒の前後に起こっていた出来事の残り香と予感。写真を読むのは、写された物の背後を冒険する事。エンピツでの書き込みを自らにかして進む『ナジャ』。引用したい箇所がたえず波間に表れる読書と読写。
 「眠りの時期」のロベール・デスノスをとらえた写真(36頁)への註では、ブルトンマン・レイにあてた手紙の一節を紹介し「眠りに入ったデスノスが出席者のほうへ、驚くほどどんよりとした目をあげる瞬間をえらぶといいでしょう」(227頁)とある。今日は「『ユマニテ紙』の書店」前で立ちどまったところである。


August 18 2003

連休明けでトラブルがいろいろ。


August 17 2003

今日も雨。地元の高校野球中継を楽しみにしていたが残念。昨日は新幹線事故にも巻き込まれずの道中だったと朝刊に目を通す。ラジオでは四谷シモン氏のインタビュー再放送。「ハンス・ベルメール」の名前が電波に乗ってくる。

居間のテーブルに「ナジャ」の書物の幾つか。
中央の写真版が人文書院刊行の『アンドレ・ブルトン集成』
「まず出発点として、偉人ホテルをとろう………」
  

  
例えば巌谷さんのこんな訳註「「私とは誰か」を問うことは、存在論的な自己の位相や心理学的な自我の内実を問うことではなく、何をすべきなのか、何をする運命と使命を負っているのかという「私」の生き方にかかわる実践的・道徳的な問いであり、だから一見「些細な」出来事の体験を通して問われるべきなのである。」(『ナジャ』岩波文庫2003年刊 208頁) これなんだ、必要とするのは「一見些細な出来事の体験」ブルトンはどうだったか、マン・レイは、巌谷國士氏はと、こいつは続く。わたしの「日録」の拠り所もここにある。客観的に自己を突き放す、もう一人のわたしが書かせるような、「実践的・道徳的な問い」 そして詩的に美しい有名なイメージが想起される。

 私はといえば、これからも私のガラスの家に住みつづけだろう。そこではいつも誰が訪ねてきたか見えるし、天井や壁に吊られたものすべてが魔法のように宙にとどまっていて、夜になると私はガラスのベッドにガラスのシーツを敷いてやすみ、いずれそのうちに、私である誰かがダイヤモンドで刻まれてあらわれるのを見るだろう。(20頁)

 写真を現像に出し、「日録」にアップ。本を読んだり、いろいろ考え事をしたり。掃除も少し。ビールを飲んで、食後の後かたづけ。つつがなくお盆休みが終わる。Nさんから電話。


August 16 2003

名古屋駅新幹線プラットフォームから
西側を望む。
  

 

今日は五山の送り火。用事で名古屋に出掛け、午後9時に戻った。西大路通りのバス停で降りると、左大文字の文字がかろうじて「\」と残っている。夏らしい日が一週間も無かった年。ご先祖にもわたしにも束の間の夏休み。

 移動の車中で、巌谷國士訳のアンドレ・ブルトン箸『ナジャ』(岩波文庫2003年刊)を読み進める。この転進劇を予感する入れ子構造の書物は、わたしにとっても青春の書。初めて読んだのが何時だったかの記憶はあいまいだが、恐らく1970年1月15日以降の早い時期。人文書院が刊行を開始した『アンドレ・ブルトン集成』の第1巻で訳者は巌谷國士氏。わたしはこの本に魅了された。名古屋時代の18歳の頃である。幼鳥の親のすり込みのように、若い精神が、巌谷國士ブルトン=ナジャとなってしまった。以来、何度も再読した。そして、今回が『ナジャ』巌谷訳の決定稿といえるもの。多層的な読書を要求する青春の書。この本を必要とする、精神の状態に、今、わたしはある。

 いつからか、読了日を後付に入れる習慣がわたしに備わった。最初の出会い以降の記録を以下に記す。

<<ナジャとナジャ論の読書>>

1970.---  著者による全面改定版 人文書院アンドレ・ブルトン集成第1巻』巌谷國士
1973.3.8   著者による全面改定版 人文書院アンドレ・ブルトン集成第1巻』巌谷國士
1973.6.3   1928年版 現代思潮社 稲田三吉訳
1973.10.23 1928年版 現代思潮社 稲田三吉訳
1975.5.6   著者による全面改定版 人文書院アンドレ・ブルトン集成第1巻』巌谷國士
1975.12.24  1928年版 講談社 『世界文学全集』稲田三吉訳
1976.11.7   1928年版 白水社 巌谷國士
1977.10.29 『ナジャ論』白水社 巌谷國士
1983.1.29   『ナジャ論』白水社 巌谷國士
1993.10.22  1928年版 白水社 巌谷國士
1993.11.21 『ナジャ論』白水社 巌谷國士

 写真版の興味から、1972年の春以降と思うが、京都の丸善でnrfの原書を購入している。これは「著者による全面改定版」で1970年7月23日の印行。以前の丸善売場には、二種類の『NADJA』があった。他方はフランス装のアンカットするタイプのもので、恐らく1928年版の何度目かの再版。しばらく迷ったが、写真がしっかり再現されている方を買った。見捨てた書物の余白。あの「ナジャ」には、いかなる物語が挟まっていたのだろう。手許の一冊と「双面劇場」であるような、それは、今、何処に。


August 15 2003

下鴨神社境内 糺の森
納涼古本祭り会場の東側テント
手前から谷書店、キトラ文庫、欧文堂と続く。
  


午前中は詩人のKさんの原稿をあてはめながら、銀紙書房の新しい本のレイアウトをページ・メーカーでゴソゴソ。午後になってから「第16回下鴨納涼古本まつり」に出掛ける。糺の森での恒例の催し。これに参加しないと、お盆休みの実感がわかない。会場で友人の高橋善丸氏とバッタリ。

 夕刊にニューヨークの大停電、マヒして5000万人に影響。パリでの猛暑、フランスの死者3000人と見出し。欧州の異常気象の原因を知らないけれど「犠牲になった高齢者の多くは自宅アパートの部屋で死亡。フランスの住宅は19世紀から20世紀初めの古い建物が多い上、例年の夏の平均最高気温が24度にしかならないため、冷房がない家がほとんど。今年は8月初めから連日38、39度の気温が続き、室内は40度を越す状態だった」とある。テロを否定しているが、世界はどうなっていくのだろう。不謹慎だけど、高温は「本」にもダメージを与える。一方、日本は冷たい夏で連日の雨。野外で開催されている古書展に置かれた商品も湿ってどうにもならない。本の事より人間の方が大事なのに、気になってしまう。分かっているのに、古本好きの心は屈折している。


August 14 2003

朝からの雨で下鴨神社古書市に出掛けられない、残念。それで読書。岡崎武志さんの『古本屋さんの謎』(同朋舎2000年刊)に田村治芳氏の次の発言。「あとコレクターというのは、集める対象にある程度の量がないと生まれない。と同時に、上限がなくてはならない。例えば、過去から現在までの日本で出た切手を全部集めようとしても無理でしょ。切手収集が廃れた原因はそこでね。全制覇が可能かもわからない、という終着点がはっきりしてないとダメなんですよ。例えば、サンリオSF文庫旺文社文庫の全制覇、できるでしょ。その中に、自然と見つかりにくいものがあってね、またそのことがコレクターを刺激する。」(207頁)

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 お盆で「おっさん」(関西弁のオッサンとはイントネーションが違うけど、家内達はお寺のご住職をこう呼ぶ)にお経をあげていただく。床の間に掛けた次女の掛け軸「夕陽千樹鳥聲寂源月一庭花影深」に気付いて下さり。音読で意味や漢詩のイロハを伺う。渋谷氏は人の心を清らかにする。「何も考えず、望まず、手を合わせる事。無心が大事じゃ」と昔、教わった。無心に座り、鐘の音が入って来ると、すーと心が繋がる一瞬がある。自己との不思議な対話。
 昼からも雨。ドシャ降り。居間の入口上段に掛けている額は、渋谷氏のお寺の本堂正面にかけられている扁額を縮小印刷をしたものだが「雨奇晴好亭」と読める。「そこからの景色が、雨でもよく、また晴れてもよいところの建物であるという意味」で、蘇東坡の詩からとったと云う。眼で楽しむ景色の他に、読書で想起される脳内の景色もある。今、観ているものは「マン・レイの写真プリントに関するある画商の質問」 ニューヨークからパリへ送られた1994年の資料。語学が出来ないけど、景色を見るのは好きだ。


August 13 2003

通勤のお供で古書フリーク達の著書を、数冊読んでいる。いずれも同病者の闘病日記風だから面白いのだが、中でもお勧めは林哲夫氏の『古本スケッチ帳』(青弓社 2002年刊)。氏の人柄が出ていて楽しく、慎ましく読むことが出来る。既に『ARE』『sumus』等で出会っているが、書き下ろしの「オン・ザ・ブリッヂ」には特に参ってしまった。デュシャンが登場しているかと思ってしまうほど美味く(字が違うか)。景色が何色にも重なっている。それなのに、こんな頁(124頁)では、氏のお叱りを受けるかも知れないけど、気になる事なので、あえて、引用する。

「だから、植草甚一がぶらりと古書店を回って洋書をひと山探し出し、茶店でコーヒー飲みながらパラパラやる、などという話を読むとヒジョーな羨望を覚える。そうして、そういう向こうの雑誌や小説本からネタをちょいちょいと拾ってシャレた随筆でもモノにする。おおかたの日本人が知らないことばかりなので、カッコイイーと若者たちの人気者になる。これは日本の読書界のひとつのパターンである。」 重要なのは、当然、上記引用文の前後関係「だから」と「パターン」につながる、わたしたちの行き方、読み方の問題である。

 昨夜の捜し物は右側の書棚奥から現れた。連休の仕事になるのだが、ややこしい英語かと拾い読みを少々。「パターン」とならないよう、肉声になるまで、ゴソゴソ、言葉をいじってみよう。アマチュアだからね。


August 12 2003

ビールを控えめにして、捜し物。昔、ニューヨークのある画商からいただいた手紙で、原稿書きに使おうと思ったが見付からない。いつも探すと逃げられ、諦めたころにヒョイと変なところから出てくる。計画している書物の骨格となる部分なので、手紙がなければ、始まらない。埃だらけで花粉症が恐い。


August 11 2003

帰宅すると旧知である高嶋清俊氏の写真展 「on resolution」の案内状が届いていた。OZC Gallery(大阪市北区鶴野町1-1 大阪造形センター4F 電話 06-6372-9781)を会場として8月18日-24日に開催される。案内状から、すでに期待が拡がる仕事である。ピンホールだろうか、露出過多だろうか、トリックのコンセプトを考えながら湯船にザブン。高嶋氏の写真は現代美術の範疇としてあるものだから楽しみ。
 風呂からあがり、ギンギンに冷やしたビールをグーと飲みつつ、鱧鍋をいただく。こいつは美味い。今晩もビール過多の胃袋となってしまい、原稿の下調べが進まないまま、とりあえずの「日録」と云ったスタンス。


August 10 2003

床の間に掛けた次女の書

  

  

  

家内の指示の下、汗だくになりながら居間の敷物を「あじろ」に替える。梅雨の終わりがずれ込んだので、今年は8月になってしまった。足裏に気持ちのよい夏の肌触り。座敷の掛け軸も次女の漢詩に替える。和紙と墨の気持ちよい色彩。新しい白の今後の変化も楽しみ。

 3時過ぎに掃除は終わったのだが、カメラのフィルムを撮りきっていないので、日録に写真をアップ出来ない。それで、言葉のスナップも面白いかとパソコンに向かっている。Nさんとの話題に出た日本の写真集を取り出したり、古書店の目録を見直したり(古い物もそのまま置いてある)、読みかけの読書を続けたり。そして、こんな納得の一節と出会う。

 「フランスの愛書家というのは、それをどこかへまとめて寄贈したりすることは絶対しないです。必ずオークションに出して自分の蔵書目録を作る。それは芸術作品をこれだけ集めたという証拠であると同時に、自分の収集行為の芸術性を示す「作品」となる。しかし、「作品」がいったんできあがったら、あとは他の愛書家のために譲らなければいけないという礼儀がある。だからそれ自体をどこかへ寄贈してしまうということはほとんどないです。持ち主の死後、必ず売り立てがあって、それで初めて蔵書家として認められる。棺を覆いて定まるというやつです」(註)

 「他の愛書家のために譲らなければいけないという礼儀」って良いよな。わたしも、これにすがって生きている。そして、あと20年ほど先を射程に、コレクション・リストを作ろうと考える。「自伝」とペアで刊行することを前提とした「目録」。自伝の方が生きている経過で、リストの方が完結品であること。コレクションを続ける異常な情熱の方が生きている実感。収集に纏わるエビソードは常に二次資料にすぎない。

註)以上は鹿島茂氏が『それでも古書を買いました』(白水社2003年刊)に再録した対談の中での発言(229頁)。


August 9 2003

台風10号は午前6時頃、西宮付近に再上陸。しかし、京都盆地は静かで青空も見えている。昨夜の二人は神社仏閣の観光よりも銀紙書房の刊行本に興味を示し、昼前に来宅。『マン・レイと彼の女友達』や『時間光』などからお見せする。わたしの本は、保管する一冊(限定番号1番)が手許にあるのみで、申し訳ない事をした。しかし、在庫を抱えるのが嫌いだから、今後も新しい読者には不便をかけるだろう。Nさんは、昔、東京で『封印された指先』を購入したとの事だから、小部数本であっても何時かは出会う事だろうと思う。今後の銀紙書房本の重要な収集家を確保したのだから、著者・刊行者として嬉しい。二人にパリの古書店や画廊の様子、コレクションする献呈本の疑問点等をお聞きする。マン・レイの専門家のつもりだが、パリの古書達人の体験に脱帽、脱帽。一段落してから、三人で簡単な食事。近所の明暗とうふの冷や奴、鱧の落としをあてにビールをちょっと。そして、世間話。

 資料を沢山取り出したお陰で、書棚の奥から『しかし…からの出発 十七歳は告発する』(ノーベル書房 1969年刊)が出てきた。高校生の頃によく読んだ本。無くしたと思っていたので、ちょっぴり安堵。ビールを飲んだので視点が定まらず、本の手触りだけを懐かしがった。この本の事を知っているのは、碧南のS氏、知立のY氏のほかに誰がいるだろう。東京の学生写真連盟のN氏との話題にも出たと記憶する。30年以上昔の事柄。

 夜、長女が友人を伴い帰宅。みんなで焼き肉。また、ビールをグビグビ。昼にNさんも「日本の夏はビールの喉越しが旨い」と云っていた。11時を過ぎ、やっと「日録」を書き込む。しかし、ゆったりした気分で眠い。


August 8 2003

二条間之町角のイノダモータース
よらむさんのBARは花屋の東隣
昼間は蕎麦の店とおる

  

  

昨秋、インターネットで知り合ったパリ在住のNさんが帰国され、数日、友人のOさんと関西遠征。台風が近付いているが、夜7時に二条東洞院の「酒BARよらむ」で待ち合わせの約束となっていた。嵐の中でランデヴーも悪くないと思い下駄履で出掛ける。店主のオフェル・ヨラムさんは流暢な日本語で今夜は貸し切りですねと迎えてくれた。二人は写真集を専門とする古書業界(?)の人で、Nさんの通訳でいろいろお聞きする。昨年、Oさんが纏めた目録を拝見すると、マン・レイの『電気』や『マン・レイ写真1920-1934』が載せられているが、後者には校正刷りがあり、「PHOTOGRAPHS BY MAN RAY 1920 PARIS 1933」とタイトルが印刷されている。最終的に1934年となるのだが、指示が解って興味深い。収録されている40点の殆どが既に売れたとの説明を聞き、日本じゃどうにもならない状況を羨ましく思う。もっとも、最初からフランス語が理解出来ないのだから絶望。Nさんは1960年代の日本の写真家を中心にヨーロッパへ紹介する仕事をしている様子で、これも羨ましく思った。東松照明森山大道荒木経惟細江英公、----わたしが所持しているタイトル、パスしたタイトル取り混ぜて彼女がテキストを執筆し目録で紹介している。マン・レイの側に行き過ぎて、他の人の写真集をあまり持っていないけど、日本の写真集については、知立の友人Y氏が収集する手助けをしたので、本の手触り、紙面の流れを思い出す。それで、日本酒もいただくことにした。
 きちんとしたコンセプトを基にして写真集を集める事、それで生計が立つ事。わたしの青春と一致するそのラインナップには脱帽する。彼女の話では「14才の頃に瀧口修造氏の詩作に出会って決定的な影響を受け、美大の油彩に進んだ。その後、自身で描く事からは遠ざかったが、パリでシュルレアリストの作品を見付けて日本に持ち帰り、逆に日本の写真家の作品をヨーロッパで紹介」、何故写真家なのかは「出会い」としか説明出来ないのだろう。彼女が探しているタイトルをここでは紹介出来ないけど。古書歩きの楽しみがまた増えたと喜んだ。それにしてもである、プロとアマは迫力が違うと脱帽。
 台風の一夜であるのに、10時前の二条通りが傘をささなくても歩ける。下駄をカラカラ(湿って良い音は出ないけど)させて東へブラブラ。そして「ATHA」で二次会。台風は何処へ行ってしまったのだろう。


August 7 2003

明日は台風10号が関西にも接近するらしいので、帰宅し急いで朝顔の種を取り込んだ。しばらくすると雨が降り出した。

 

August 6 2003

深夜3時に目が覚めてしまった。寝付けないので階下に降り、居間のテレビを点けたら、音声が閉じられ、映像のみが映されている。先の事だと思っていたが、いよいよデジタル放送が始まると気付く。チャンネルを切り替えても総て「地上デジタル放送設備のテストのため午前4:55まで番組をお休みします。ご了承ください。」の表示。開始時間はずれるものの同一内容でる。しかし、読売テレビの表現だけが「テストのため午前4:55」の間に「,」が入って「テストのため、午前4:55」となっていた。どっちでも良いことに眼(首)を傾げてしまった。映像はNHKと朝日が「エッフェル塔」、毎日と関西が「女性の肖像と花」。読売が「室内・静物」だった。これも、どうでもいいか。身内にテレビ局勤務の者がいるので、時代の変換点の予感もして、リモコンをカチカチいじってしまった訳。玄関に新聞配達の気配。朝刊を読んだ後、再び寝入る。


August 5 2003

必要があって日中に四回、外に出た。蝉の抜け殻とあちこちで出会う。フラフラと暑い。


August 4 2003

強烈な蝉時雨で目が覚めた。朝一番の蝉の鳴き声を「時雨」とは形容しないと思うけどね。意識がはっきりしない時間帯だから許されるか。

 わたしが「手フェチ」気質である事はなんども告白してるけど、内堀弘さんの『石神井書林日録』(晶文社2001年刊)で紹介されている詩誌の書影に気になるものがあった(19頁)。吉野信夫編による「詩人時代」昭和9年12月号。掌から血管のような樹木のような、切断面を見せる一本が直立し、その影に画面右にあると思われる物体の影が重なっている。アルファベットのSから始まる名前の作者と推測されるが、誰だろう。このイメージに連なる機械デッサンを生前のマン・レイに宛てて、フェール街のアトリエに送った事があったので、改めて思い出し「日録」に書き込んでいる。

 夏らしく、暑い一日。ビールの酔いから醒めて、これから風呂掃除。水遊びのようで就寝前の楽しみ。でも、ちょっと、横浜のT氏に電話。


August 3 2003

フリーダ・カーロ愛を刻む自画像」に出演のYさんを観た後、庭木の剪定、適当にトラガリバチバチとハサミを入れる。家で見るのは初めてだったが、柊に紫色の身が付いている。汗だくとなった。昼からはお盆に備えて仏壇の掃除。

 横浜の友人T氏に情報を提供してもらった岩波書店のPR誌『図書』の8月号を手に入れたので、早速、巌谷國士氏の「『ナジャ』とナジャのデッサン」(18-21頁)を読む。氏は7月16日に岩波文庫から『ナジャ』の「著者による全面改訂版」を刊行したところ。この『図書』では4月のブルトン・オークションに言及されているのだが、最終部分にこんな記述があった。「私はこれまでに何度かナジャのデッサンの「実物」を見たことがあった。昨年春の「シュルレアリスム革命」展に出品されていた10点など。どれもポール・デトリバ蔵となっていたので、この種のデッサンの大方はすでに売られ、ブルトンの家にはのこっていないのかもしれない---と考えていた。だが、ちがう。こうして生前にきちんと整理され、ナジャからの手紙とともに、身近に保管されていたことがわかったのだ。私はそのことを嬉しく思った。ブルトンにとって『ナジャ』が特別の書物であったように、そのための資料が、いやナジャそのひとが、やはり特別の存在であったということを、あらためて確認できるような気がしたからである。」(21頁)。わたしにとって、特別の読書である『ナジャ』 文庫版については、後日この「日録」で報告の予定、ご期待下さい。

 未知の読者から「ファンレター」のようなメールを受け取る。その人は写真集がお好きな様子。感謝の返事を書き込み送信する。


August 2 2003

昨夜は楽しかった。朝から「40years of galerie 16」のCDを楽しむ。展覧会の記録で確認すると。わたしが16へ行き始めたのは1975年で、個展としての記憶はベルナール・ベッソン展から始まる。その時、作家と美術評論家の中村敬治さん、井上さん達と居酒屋で呑んだのを思い出す。「ベッソン個展」には、A4サイズのリーフレットが作られ、これにはオリジナル写真が添付された限定版のシートもあり、井上さんに頂いた手許に保管する一品には作家のサインと限定番号2/130が裏面に印されている。このシートは中村先生の「MONA RROSE ああ、教えて、君の秘密」が掲載されている雑誌『gq』6号の96-97頁に挟まれて、大事に時を過ごしている。CDを楽しみながら、久し振りに取り出し、ベッソンが描いた幼い少女の、対置された消え入るようなデッサンを記憶で探った。
 1975年7月17日(祇園祭山鉾巡行の日)に、東京の友人と路地を歩いていて偶然気が付いた画廊へ入り、その壁面にマン・レイの「アングルのヴァイオリン」の版画を見付けたときには驚いた。CDの記録には同年7月8日-13日まで「The Party展」というのが開催され、出品作家は今井祝雄、植松奎二、村岡三郎、MAN RAY(註)とある。MAN RAYが参加した翌週に画廊と出会ったわけだが、やはり、縁があるんだな。

(註)会場の写真にはマン・レイメトロノームと眼の写真で構成したアッサンブラージュ『破壊されざるオブジェ』が映っているが、坂上しのぶさんに確認したところ、日本側の三人が制作(?)した物であった。オリジナルを持ち込まなくても、作品のコンセプトで展覧会に参加するなんて、マン・レイはすごいよな。

 

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「THE LIBRARY 2003」展会場
Gallery SOWAKA

   

  

午後、モンブラン149のインク吸入が作動しなので修理を頼みに万年筆の専門店へ。店の人の説明では、最近のモンブランは、若い女性をターゲットに、ブランド名を入れた小物類の販売に熱心で万年筆事業をないがしろにしているとの事。「どうしてもと望まれるなら預かりますが、2万円ぐらいの費用で、修理がすむのは年が明けてしまいます。」 高価な万年筆で一生使いたい品物であっても、こんなアフターケアでは、別の会社の新しいペンを買い求めた方が良いかと思った。この万年筆修理のほとんどがインク吸入部分との説明なのだから、会社の姿勢に唖然。修理を諦める人が多いらしい。わたしも、我慢して店を出た。その後、東寺近くのギヤラリーそわかへ行き「アーテイスト・ブックによる展覧会」を覗く。本好きのわたしにとっては気になる企画。東京のGallery ART SPACEで6/17-7/13 京都では7/22-8/3の展示である。出品数が多いので、適当に取り出しての鑑賞となったが、全体的に本という形式が勝って、内容が貧弱な作品が多いと感じた。甘すぎる絵本というのではどうも、自身の裸体映像を使っても「見せたい自分、見て貰いたい自分」が安心な場所での類型化ではいただけない。オブジェ化したものもあるが、本と云う手仕事が、個人的で閉じた営みである間は、見る者を感動させない。作者であっても作品とは客観的な位置を保つ者、良い作品と作者の基準は、こんなところにあると思う。
 そんな中で中村恭子(1976年生まれ)さんの「Deutscher Kursus」と熊谷聖司(1966年生まれ)(註)さんの「PLAUBEL makinaカメラ」は面白かった。前者は、植物採集をした後の標本作りに本の間に草花を挟む意匠といったものだが、硫酸紙やフィルムやビニールケース、方眼紙やポチ袋といったものの中に、植物や星やイロイロな採集品が収められていて、楽しい。ポラロイド写真を切り取って挟み込んだ頁も含めて、本という形式を借景に心象を表現した、気持ちの良い一冊。丸椅子に置いて、表紙や内容をスナップしてしまった。
 他方、熊谷さんのは豆本だけど、カメラになっていて、切り抜いた穴から銀紙製のレンズが覗いている。日常をとらえた平凡な写真が、リズムを持ったページに裁ち切りで印刷され、日々の生活の連続感をパラパラと指先から与えてくれる。写真って、この感じなんだよね、わたしの思っている、写真と付き合う人生って、これだよねと、なんども頁をめくった。

(註)熊谷聖司氏は写真新世紀1994年度年間グランプリ受賞者。帰宅しインターネットで知る。


August 1 2003

「ギヤラリー16の40周年及び記録集発刊を祝う会」
ぱるるプラザ京都6F
挨拶をされる井上道子さん

   

  

京都駅前にある、ぱるるプラザ京都で「ギヤラリー16の40周年及び記録集発刊を祝う会」が開催されたので、家内と出席する。わたしが20代の頃から画廊でお会いしたり、作品をいろんな所で観ていたり、評論や新聞記事などの書き手、コレクターも含めての懐かしい同窓会の盛り上がりも伴った祝う会である。井上道子さんが娘のような恥じらいを持って壇上にあがられ会が始まる。司会進行は植松奎二さん。来賓・祝辞に作家の村岡三郎氏、京都国立近代美術館館長の内山武夫氏、美術評論家の峯村敏明氏、乾杯が美術評論家の針生一朗氏という、そうそうたる顔ぶれの参加者300人規模の大パーテイとなった。


 歓談の途中に「40本のバラ」というイベントがあり、40人の美男美女(?)が井上さんと仙石早苗さんに、40周年にかけて40本の薔薇を手渡すのだが、わたしは、スピーチも頼まれていたので、ちょっと緊張した。以下が事前に考えたスピーチの原稿である。


 井上さんに薔薇の花を贈らせていただけるような、嬉しい企画を考えて下さり有難うございます。薔薇の花といえば、マルセル・デュシャンのローズ・セラヴィを連想しますが、井上さんとは昔、ラ・ユヌの「プロフィルの自画像」の話をした記憶があります。この企画をお聞きした時、バラのラッピングはと考えて、ニューヨーク・ダダという雑誌の表紙コピーを持ってまいりました。
 わたしはデュシャンの友人である、マン・レイのコレクションを続けていますが、コレクションすることも、ひとつの自己表現だと井上さんに教えていただきました。その教室は、画廊というより、寺町三条界隈の居酒屋が多かったと思います。名古屋から京都へ出てきたばかりの、20歳の頃のわたしにとって、憧れであると共に、姉のような存在である井上さん、貴女とお会いすることがなかったら、コレクターとしての私はありませんでした。ギャラリー16で初めて購入したマン・レイの作品は小さな版画でしたが、そのタイトルは「ボンソワー・マン・レイ」でした。「ボンソワー・井上さん」本当に有難うございます。

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 会場の豪華な顔ぶれが影響して、酔っ払う事が無かった。アルコールよりも言葉を交わすことの楽しさを堪能する。何時もは、酔っ払いの会話だから、何も記憶に残らないのだが、この夜は、違った。ある人は「アバンギャルドが一同に集まるなんて、ノン・アバンギャルドだ。日本的すぎる。でも、僕も来てるから」などといって笑っていた。若い時と風貌の変わらない人が多いのは、芸術家に固有の現象なのかな。自由でいようとする強力な意志があるからなんだろうね。ボストンからこの為に駆けつけた山本さんがバラの花束を贈り。林剛さんが〆の挨拶。9時頃にお開きとなった。

 その後、お茶を飲み、旧友の綿谷恭治郎さんと二次会、三次会と世間話を続け、12時過ぎに帰宅。