『中之島でシャンパン』ときの忘れものブログ

f:id:manrayist:20220307230127j:plain大阪中之島美術館と国立国際美術館(後方)

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 2月2日(水)に大阪中之島美術館が開館した。建物と開館展(超コレクション展 99のものがたり)の様子を、本駒込の画廊「ときの忘れもの」のブログに寄稿したので、読んでいただけたらうれしい。→ 『中之島でシャンパン』at ときの忘れものブログ 

 尚、開館展は3月21日(月)迄なので、本日を入れて残り4日、まだの方には観ていただきたいと思う。

 

f:id:manrayist:20220307230142j:plain佐伯祐三『郵便配達夫』1928年 後方ガラスケースに慈雲飲光『不識(達磨画賛)』、仙厓義梵『布袋画賛』 

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 美術関係者から厳しい意見を聞くことの多い美術館のようですが、小生は「1983年に大阪市の市制百周年記念事業」として美術館を建設する契機となったコレクター・山本發次郎(1887-1951)のコレクター魂に親近感を持った。下掲の書籍『山本發次郎コレクション── 遺稿と蒐集品にみる全容』』に詳しく哲学が延べられているので、引用しておきたい。

 

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22×17.8cm 306pp. 河﨑晃一監修 淡交社 2006年

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 頼山陽の書にふれて「あまりにその才気が当時の思潮に迎えられて、一筆一賦ごとに大向うの喝采を博しすぎたものですから、酒は飲みたし、もてるは嬉しで、ついつい大衆を忘れる隙きがなく、潤筆料にもへつらったものと思います」(13頁)、小生も浮世の幸せには注意しなければと妄想 ── しますな

 

 ルオー、ゴッホゴーギャンピカソに「我が白隠禅師の傑作を見せたならば、どんなに驚嘆するだろうかと思う」と語った後に「芸術はしょせん心のものである。その人間の問題である。いわゆる芸術以前にどれだけのものがあるかで価値が決まる。表現の深さにおいて、至直さにおいて、殊にはその表現されたその人自らの強さと高さにおいて、白隠だけの人と同じく位する人が古来日本に、はたまた世界に何人があるであろうか」(35頁)

 

「芸術には個性がなければ生命がないわけである。それと同様に芸術の鑑賞と理解にもまた個性がなくてはならぬ。すなわち真の芸術家には、どの芸術についても、上手下手は別問題として、その人らしい独特の表現があるはずである。と同様に、本当の芸術の理解者には、いかなる芸術に対しても、その人らしい特別の好みがあるはずである」(48頁) 山本發次郎『白雲荘放談』より これ、マン・レイと小生にも当てはまりませんか。