
岩上通りは堀川通りに沿って一本西、1590年の秀吉による新町割りで開かれた二条城から松原通りに至る凡そ1.4キロメートルの突抜路。晒屋町で交わる佛光寺通りは鴨川右岸堤防から佐井西通に至る東西の通り。佛光寺の北に面し、近世までは五条坊門道りと呼ばれた。晒屋町は通りを挟んだ両側の町で形成された生活単位。祇園祭の寄り合いなどがよく知られる。拙宅の町内会区割りも、これにならっている。晒屋は織物に関係するから町内に多いと思うが、未確認。
さて、本題の仁丹琺瑯看板は明治末年から昭和の初めにかけて設置された住所表示。現存は700枚程度とされ、仁丹の「大礼服軍人」など人気が高く、蒐集対象だと聞く。京都で「○○通○○東入ル」などの住所表記は、ルールを覚えれば分かりやすいものの、通りをどれほど進めば目的の家屋に当たるのかが難しい。拙著『三條廣道辺り』で俵青茅の自宅(京都詩人協会事務所)特定に苦労したのを思い出す。京都では秀吉による新町割りの為か同一の町名が市内に多く、通り名を記さないと正式でないとも言われる。郵便番号制度導入時(名古屋の昭和郵便局でアルバイトをしたとき直面)には、字数が多すぎシステムが破綻したらしい。
