ブダペストでも絵葉書を買う。 ── 10日(月)

8.9× 13.6 cm 消印 1913年12月2日 ラーコーツィ通り

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8.7 × 13.7 cm 消印 1912年10月?日 ラーコーツィ通り

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8.7 × 13.9 cm 消印 1913年11月10日 オペラ座(アンドラシー通り)

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8.8 × 13.8 cm 消印 1916年9月11日 ドナウ川(くさり橋、後方右に国会議事堂)

 

● 浅学故に宛名も通信文も読めないけど、エンタイアの楽しみは時と場所のリアリティ。1912年〜1916年のブダベストにロックオンしたい。

 

[メモ]

 ラーコーツィ通りはエルジェーベト橋から東に伸びる大通りで、旧市街を囲む環状通り(ヨーゼフ通り)の交差部に現在も
上掲二枚目絵葉書のドームを被った建物二つを認めることができる(左はスーパーLIDL、ストリートビューで確認)。都市の活力を宣伝するための絵葉書好みポイントであったように思う。
 オーストリア=ハンガリー二重帝国の一方の首都であったブダペストは、19世紀末に劇的に発展し、マジャル人が増え言語もハンガリー語
主流となり、さらにユダヤ人の比率も増えた。南塚信吾の『ハンガリーの歴史』(河出書房新社)によると、「ハンガリーの世紀末文化は、ウィーン、プラハに劣らないものであった。それまでの貴族指導の文化に対抗して、ようやく現れた市民勢力の文化が、ここで花開いたのである。…… 華々しさはないが、その分、土着的で、頽廃性のない世紀末文化であった」という。「新聞・雑誌の創刊、図書館の整備、カフェの拡大、労働運動の広がり、普通選挙権の導入など」小生、街の様子を肌感覚で知るにつけ「頽廃性のない世紀末文化」というのに、エールを送りたい気持ちとなった。まてよ、先の南塚は岩倉使節団(1871年から74年)の報告から「自主建国、開花を求めてきているが、いたずらに外貌を飾る」と引用している。小生も戒めなくては。