アルハンブラ-3| ライオン宮・飛び散る血の光 ─ 1 June '26

アルハンブラ宮殿至福の空間、もうひとつは、光に包まれるライオンの中庭。ガイドブックでは魅力は分かりませんでしたね。水鏡の青空が眼に残るままか細い列柱越しに光に満ちたオアシスに入った。光が光線ではなく充満している感覚は、初めてのように思う。

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09:16 ライオンの中庭
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タイルはアルハンブラでは重要な装飾材料であり、壁面装飾に欠かせないものとなっている。床から壁にかけてのいわゆる腰壁にあたる部分には、必ず彩色タイルが張りつめられ、全体の装飾に安定感を与えている。このタイル貼りの腰壁は、座床生活のイスラム教徒には背もたれとしての実用性もあり、突起のない平面でなければなかなかった。また、その模様は多種にわたり、色は白、黒、赤、青が主体で、その中間色もある。

大塚勝弘『現代アルハンブラ物語』(東京図書出版会 2008年) 95頁

アルハンブラの装飾を支配する思想は、終わりなく反復する連続性であり、これはタイル装飾のみならず、漆喰彫刻、文字装飾においても特に顕著なものしとなっている。オランダの図案家モーリッツ・エッシャーは、1926年と1936年の二度にわたってアルハンプラを訪れているが、有名な「だまし絵」の創作は、アルハンブラの装飾タイルのデザインにヒントを得たものである。

前掲書『現代アルハンブラ物語』 96頁
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白大理石の円柱は124本。大塚勝弘は124という数字に意味があると前掲書で自説を説明され、「これは噴水としての存在とともに、永遠の時を告げる水時計でもあった」と結論づけている(76-77頁、102-103頁)。昔の地面は砂利敷きではなく草花が植えられていたとも。

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12塔のライオン
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アベンセラヘスの間

中庭の南面に16世紀から「アベンセラヘスの間」と呼ばれる空間がある。ナスル朝の最大勢力アベンセラヘス一族の36人が対抗勢力の讒言によって最後の王ボアブディルにこの部屋で惨殺され、「部屋中に飛び散った血は、ライオンの噴水を通じて中庭まで広がった」という場面、今でも亡霊が出るという。
 『アルハンブラ物語』の著者W・アービングは、ボアブディルではなく惨殺は残酷で凶暴な父王アベン・ハッサンの行為だとしている……

アベン・ハッサンは高齢になってから、高貴な家柄の美しいキリスト教徒の娘を、何番目かの妃とした王である。彼女はソライダーというムーア名を名乗り、二人の王子を産んだ。ソライダ妃は王の寵愛をうけて、やがて自分の息子に王位を継がせようと大望を抱いた。他の王子たちの嫉妬はたいへんなものだったらしい。
 次の王位をめぐってさまざまな陰謀がめぐらされ、噂がとんだ。それが王の耳に入ると、王はそれにかかわると思われる人物たちを次から次へと殺害していったのである。

W・アービング『アルハンブラ物語』江間章子訳(講談社 1976年/1975年) 97頁
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ライオンの中庭 東西28.5m、南北15.7m

中央のライオン像は「ムハンマド5世がユダヤ人サムエル・イブン・ナグレラの邸宅から移したもので、11世紀頃にキリスト教徒の捕虜によって彫られたものと推測されている」(大塚勝弘)。
 庭を囲む各部屋はハーレムだったというから、胸キュンとなりますな。

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アルハンブラ-2| 水鏡にコアレスの塔 ─ 1 June '26


アラヤネスの中庭

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09:04 アラヤネスの中庭
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南の柱廊側の建物は、カルロス5世宮殿の壁に表面のみを貼り付かせている。中央の池は長さ34.7m、幅7.15m。19世紀に入って両側に天人花(アラヤネス)を植栽。

池の水面には柱廊のアーチとコマレスの塔が映され、この水鏡の技法は、300年後にインドノタジ・マハールで使われることになった。

大塚勝弘『現代アルハンブラ物語』(東京図書出版会 2008年) 62頁

ムカルナスからの採光を奪った暗い部屋を出ると、砂漠の民のオアシスが突如現れる。アンダルシアの青い空を映す水。美ではなく驚異の瞬間。両端からの水音が、歓びをリフレイン。
 この体験をしたくて来たのは、わたしだけではありません。なので、パチリのタイミングが難しい。

大使の間

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入口壁の窪
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大使の間

広さは11.3m四方、高さ18.2m。宮殿最大の部屋で、王が諸外国の大使に謁見し外交を行った。当時、玉座があったと推測される。

アジア人とアフリカ人の混合した群衆は地中海に上陸して、偉大な侵略を成功させた。彼らはここでしあわせな政治を樹立しようと、アンダルシアを掌中におさめたのであった。
 この征服者は英雄的であったと同時に、人民に行う政治は中庸の道をとった。建立した王国の繁栄とともに、真剣に人民のしあわせを考えた。 
 遠く故郷を離れて来た彼らは、アッラーの意思に従って人民のしあわせとなるものすべてを追求し、〈美〉を探求し、その領地を大切に愛した。
 その政策は賢明だったといわなければならない。
 彼らは権力を強めていくいっぽう、美術・科学ばかりでなく、農業・工業・貿易を学問として進歩させた。そして、当時のキリスト教国であるあらゆる帝国が、およびもつかない先進国として、無敵の王国を築いたのであった。

W・アービング『アルハンブラ物語』江間章子訳(講談社 1976年/1975年) 60頁
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見上げてばかりではいられない。足元の装飾タイルの朽ちるさまは、現実を呼び覚ます。天井と地上にこれほどの差があるとは、誰が知ろう。最近、現役時代の同僚が車で掛けていた中島みゆきの「地上の星」を思い出す  ── 「みんな何処へ行った 見守られることもなく / 地上にある星を誰も覚えていない / 人は空ばかりみてる」。

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アラヤネスの中庭

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アラヤネスの中庭 コマレスの塔

正面・7連アーチを架した柱廊からコマレスの塔に入り、バルカの間を抜けると大使の間に至る。

 

 

アルハンブラ-1| 正義の門・要石の〈手〉 ─ 1 June '26

スプリンクラーの攻撃を避けながら、城壁を見上げ、正義の門を眼下に10分程で入口へ。アルカサバの前に立つ、手前に咲くのは夾竹桃だろうか。現地のガイド氏は花の名前に詳しいが、わたしはダメですな。

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08:22
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5.4 × 14.9 cm チケット 予約 08:30

近年の観光客増加に伴い、ツアー申込時に、パスポート番号と氏名が必要。個人手配はややこしいようですね。

 諸説あるらしいが、「アルハンブラ」というのは「赤色」に関係する名という。城壁や建物の色彩にその感じを認め、砂漠(?)の乾いた土の色かと思った。間違いか? ── でしたね。大塚勝弘が歴史家イブン・アル・ハティブの説を紹介し

通説によれば、アルハンブラの城壁の上塗りに使われている土に鉄分が多いため、変色して赤色に染まったからといわれるが、アラビア人の歴史家イブン・アル・ハティブの説では、アルハンブラの前身であった古い要塞を、夜を徹して再建する間に松明が焚かれ、その炎に照らされた城壁がグラナダ市民に赤く見えたのであって、実際の城壁の色は漆喰塗りで白かったという。
 十五世紀の城壁の整備で茶色に上塗りされているが、最初の色が白かったことは、その後の調査でも確認されており、「赤い城」の名の由来は、イブン・アル・ハティブの説が正しいかもしれない。

大塚勝弘『現代アルハンブラ物語』(東京図書出版会 2008年) 31頁

アルハンブラは海抜685mのサビカの丘に広がる城壁に囲まれた王宮都市で、「全体形はほぼ東西に細長い形で、全長740m、最大幅220m、総面積13ha」(大塚) 当初は防衛上の目的から樹木はなかったという。
 昨夜「ナスル朝王国の中心で、休息と『千夜一夜物語』のような夢心地のひとときを過ごす」と引用したが、建国は1238年、初代国王ムハンマド1世によって丘にあった古い要塞を改造し王宮を移したのがアルハンブラ宮殿の起こり。1240年頃に最初のアルカサバが造られ、1450年に整備を終えた。
 カスティーリャ王国によるレコンキスタのコルドバ奪還が1236年、バレンシア1238年、セビーリャ1248年と続くなかで、最後のイスラム王国となるナスル朝はカスティーリャ王国と友好関係を保ちつつも、臣従による平和と繁栄であって、常に影をまとう王朝となった。770年にわたるレコンキスタ、時代の流れを止めることはできない。最後のボアブディル王がキリスト教徒に城を明け渡したのは1491年11月25日だった。

正義の門

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正義の門
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「手」に特別の関心を寄せる筆者には、馬蹄形の要石に右手が大きく彫り込まれている「正義の門」には、立ち止まってパチリをさせる魅力が満ちている。「手」はイスラム教徒の教理のシンボル。魔力に守られ嵐にも大地震にも被害を受けず、今日に残っている。以下の昔話に心踊る。

王様、私は老人の中の老人、高齢でございます。それに、古星術師とよばれる哲学者でもありますので、金銀財宝を欲しがる者ではございません。しかし、せっかくの仰せゆえ魔力を持つ宮殿が完成したときは、最初にその門をくぐる生きものを私にくださいませんでしょうか

W・アービング『アルハンブラ物語』江間章子訳(講談社 1976年/1975年)143頁

詳細は後日のつもり。

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Te hemos estado esperando

カルロス5世宮殿

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カルロス5世宮殿

イザベラ女王(カスティーリャ王国)とフェルナンド国王(アラゴン王国)の孫、カルロス5世が1527年に最新のルネサンス様式で建設を始めた宮殿。その後、資金難と心変わりから頓挫。そのためにコマルス宮の取り壊しが一部でとまったのは歴史のあや。使われたことのない宮殿の滑稽さ、カルロス5世は先日紹介したメスキータの改造もしたのだった。

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ブドウ酒の門

アルカサバ

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アルカサバ

メスアール宮

1319年頃の建築で、現存する建物としては最古といわれる。

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左にムハンマドの塔(雌鶏の塔)
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メスアールの間

ナスル朝の司法と行政機能の場であったが、パチリの時点で確認できる上段横木欄干などは聖歌隊席の名残で、大規模な改修が行われたと知る。

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黄金の間
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ムカルナス

イスラム建築で特徴的な持ち送り構造装飾であるムカルナス。鍾乳石の丸天井を想起させ、10世紀中頃から発展。水の落下を永遠に停める、乾いた国故の風景。

グラナダ|メリア・グラナダのザ・レベル ─ 1 June '26

アルハンブラ宮殿を望む、特別サロン「ザ・レベル」、朝食はこちらでいただきました。出発は8時、景観に見とれてしまいます。

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スパークリング 飲んじゃいますね。
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古典的なベネディックト サーモンとハム
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07:36 アルハンブラ宮殿から「陽はまた昇る」
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日本の漫画、大好き!

「ザ・レベル」開店前に立ち話をした女性。関西に3年程滞在していたそうで、日本語ペラペラ。訊くとマンガのオタク。「タッチ」が好きだとか、「ドラゴンボール」の話で盛り上がってしまった。それで、集合時間に遅れ気味、ツアーの皆さん、10分前行動でした。


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ホアキン・ソロージャ通り
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建物から飛び出す赤丸印が「ザ・レベル」

 「メリア・グラナダ(Meliá Granada)」は、グラナダ中心部のアンヘル・ガニベット通り(Calle Ángel Ganivet)に位置しています。この通りは当初、幅員13メートルで両側に歩道を配した、自動車の通行を主眼に置いた設計でした。しかし1942年、シエラ・エルビラ産の石材を用いたアーケードが通り沿いに建設されました。このアーケードは、ナショナル・ヒストリシズム(国家的歴史主義)からネオ・エレーラ様式、さらにはモダニズムの傾向に至るまで、多様な建築様式が混在する建物群を視覚的に調和させる役割を果たしています。これらの建物は、20世紀半ばのグラナダを象徴する建築群を形成しています。ミゲル・カスティージョ・モレノ、フランシスコ・プリエト=モレノ、ミゲル・オルメド・コジャンテス、ルイス・アルバレス・デ・シエンフエゴスといった1940年代から50年代を代表する建築家たちによって設計されたこれらの建物は、市の中心部という恵まれた立地にふさわしい風格を備えていました。
 現在「ホテル・メリア」となっている建物は、1949年に建築家ミゲル・カスティージョ・モレノの構想によってプロジェクトが開始されました。建設地は前述のアンヘル・ガニベット通りに面しており、側面のファサードはクアドロ・デ・サン・アントニオ通り(Calle Cuadro de San Antonio)に、背面のファサードはセルバンテス通り(Calle Cervantes)に面しています。その後、1956年に建築家ミゲル・オルメド・コジャンテスによる改修が行われ、当初のネオ・エレーラ様式の設計からモダンなデザインへと姿を変えました。1989年にはホテルの再オープンに合わせて内装の改装とセントラルヒーティングの導入が行われ、2002年には建築家ラモン・フェルナンデス・アロンソ・ボラホによって、張り出し部分(現在は「ザ・レベル(The Level)」が位置するエリア)が増築されました。

ホテル立地紹介パネル
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07:59

アルハンブラ宮殿に登ります。

グラナダ|メリア・グラナダの千夜一夜 ─ 31 May '26

「ナスル朝王国の中心で、休息と『千夜一夜物語』のような夢心地のひとときを過ごすのに最適なホテルです」とネットに書いてますね。ナスル朝というのは1232年〜1492年にかけて、この地で栄えたイスラム王朝。

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MELIA GRANADA

投宿は、グラナダ中心部のメリア・グラナダ・ホテル。309号室。夕食は一階奥の地中海料理  Nervio by Periko Ortega (だったと思う)。

⚫️ MELIA GRANADA HOTEL
Ángel Ganivet, 7 Granada, Andalucia 18009 Spain
★★★★

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カバ(発泡白ワイン)
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309号室から

夜の写真家になりたいところだが、歳をとっちゃいました。パチリの後にダッシュして逃げられないし、背負うものも多い。部屋の明かりをカーテンで遮り、安全なパチリ。なにをやってんだか……

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客室には、エレガントで上質な素材を採用。オーク材、ウォールナット材、マルキーナ大理石といった素材使いを基調としつつ、マットブラックや真鍮のディテール、天然素材のテキスタイル組み合わせ。
 バスルームとベッドルームが、一体化された構成の客室では、ヘッドボード、サイドテーブル、ワードローブ、バーカウンター、姿見、テレビパネル、洗面台など、家具の大部分はこのホテルのために特別にデザイン。十分に確保された天井高で、ウォールナット材のヘッドボード背面に施された緻密な柄の壁紙と調和する色を採用。まるでパノラマウィンドウが広がっているかのような視覚効果を生み出し、より広々とした空間を感じさせます。特注の壁紙には、アルハンブラ宮殿に着想を得た幾何学模様と風景画が組み合わされています。それぞれのテーマには異なる配色が用いられています。空が主役となる風景にはライトブルーを、オアシスの豊かな植生を思わせるアースカラーには深みのあるサンドカラーを、そしてムーア様式のパティオ(中庭)を想起させる親密な空間には鮮やかなアクアマリンを採用しています。印象的で現代的なデザインが特徴です。ここでは、ラグジュアリーさと、家庭的で親密かつリラックスできる雰囲気が融合されています。バックライト付きのヘッドボードは、ムデハル様式の建築に見られる格子(ラティス)に着想を得ており、プライバシーを確​​保しつつ空間に奥行きを与えています。
 さらに、各客室には、オーウェン・ジョーンズが1856年の著書『装飾の文法(The Grammar of Ornament)』で紹介したアルハンブラ宮殿の装飾モチーフを描いたプリントが飾られています。

 この建物ならではの特別な魅力を大切にしながら、その立地や周辺環境とも調和する空間を目指しました。プロジェクトの仕上がりに大変満足しています。

アルバロ・サンス(建築家)

客室紹介パネル
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贅沢をさせていただいています。

グラナダ|夕食前のブラパチ ─ 31 May '26 

旅行では出発前にグーグルマップで宿泊地の新刊書店、古本屋、鉄道駅などを確認する。書店に関してはSHOP検索で該当をクリックし店内写真をチェック。美術書や絵葉書があるのではと探す。ストリートビューで一軒毎に目を凝らすこともあるのです。今回は、グラナダへの到着時刻が不明だったので気合イマイチ。Libreia Pragaは閉店20:30、だめだめ、日曜日なのでお休みなんです。

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19:12 前方丘の上にアルハンブラ宮殿

部屋に届いたスーツケースを確認し、ホテル内を探索。アルハンブラ宮殿が眼の前ではありませんか。隣接するスーパー・カリフールをのぞいたあと、奥様と別れ近場をブラパチ。自由時間は30分。夕食は20時から……

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ホテルが面するアンヘル・ガニベル通り
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19:26
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19:37
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19:43

光が平明であることと、ルート選びの失敗から街の風情に味がなく、写欲がわかなかった。

コルドバからグラナダ 川を渡り、 丘を超えて ─ 31 May '26

メスキータを後にローマ橋でグアダルキビル川を渡り、バスでグラナダへ向かう。イスラム勢力終焉の地までは凡そ170km、2時間の予定。「ひまわり開花の情報、運転手さんやツアーの仲間に尋ねていますが、今、難しいみたい」ツアーの募集案内が「(5/23〜6/7発) ひまわりの開花時期にはバスを降りての写真撮影をお楽しみください」としているものだから、ガイド氏は真剣。苦情を言う人はいないと思うけど…… ルートとの近接、バスの停車スペース、私有地との関係などがあるようなので、運が良ければで、走りましょう。

① コルドバ

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メスキータ
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グアダルキビル川
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コルドバの守護聖人 聖ラファエロ像 (ベルナベ・ゴメス・デル・リオ作 16世紀)
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15:46 カラオーラの塔

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16:04

② レストラン・ルケ駅

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Restarante de la Estacion de Lique  C. de la Estacion, 1480 Luque Cordoba, Spein
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①コルドバ ②レストラン・ルケ駅 ③グラナダ

バダボス・グラナダ自動車道(N432号線)を南東へ。撮り鉄としては、トイレ休憩で入ったレストラン(?)「ルケ駅」が良かったですね。廃線、廃駅の利用、乾いた土地の様子が西部劇みたい(違うか)、構内でパチリした案内板には以下の説明↓

ここは、かって「オイル・トレイン」と呼ばれた旧ルケ駅です。この路線はハエン駅とカンポ・レアル駅(ブエンテ・ヘニル)を結んでいましたが、現在は完全に改修され「ビア・ベルデ・デル・アセイテ(オリーブオイル・ハイウェイ)」として運営されています。1891年にカプラまで、1893年にハエンまで開通したオイル・トレインは、アンダルシア鉄道会社、後にRENFFによって運行され、1984年に廃止されました。現在、駅舎はレストランとして完全に修復され、かっての屋根付きプラットホームにはオリーブオイル解説センターがあります。

 ここから、アラミージョの掩蔽壕とその歴史へと続くルートが始まります。これらの掩蔽壕はスペイン内戦中に建設され、この地域の戦線を分断する防衛線の一部を形成していました。今日、フランスの哲学者ポール・ヴィリリオが「支配するか、あるいは支配されるか」と表現したこの「コンクリートの地理」は、ルケ町議会によって観光客向けに復元されました。

案内板

それで、執筆時にオイル・トレインをネット検索すると、スベティカ地方の険しい地形を克服するための大規模な土木工事が必要だったという。沿線で広く栽培されていたオリーブから採るオリーブオイルの輸送に貢献し、最盛期には旅客と貨物の両方を運んだという。ネットで混合列車の走行画像なども発見。旅の記憶がさらに深まります。

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16:59
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スペインの在来線の多くは広軌(イベリア軌間) 1668mmなので、留置転用されている貨物の雰囲気、「家」のようですな。これも新発見。iryoは世界標準1435mmでしたからね。

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17:02

ツアーの皆様は、ここでしか手に入らないオリーブオイルを買い込んでおられました。リーズナブル。バスは再び走り出し、グラナダを目指す。

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③ グラナダ

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休憩をしたので所要2時間30分。お疲れさまでした。

コルドバ|メスキータ レコンキスタで勝利した側 ─ 31 May '26

昨日、概略を記したように10世紀末の拡張工事で完成したメスキータは、レコンキスタを経た13世紀にカトリックの教会堂に転用され、16世紀には中央部にゴシック様式とルネサンス様式折衷の教会堂を建設。今日の姿になった。
 スペインを巡って、異なる文化の重なりに触れるのが、今回の旅の目的のひとつだった。顕著なアンダルシア地方。わたしは退けられた側に声援を送りたくなる性分なので、弟子たちによる偶像崇拝の組織化による「光」の支配に「NON」と言いたい気分。カトリックのマリア信仰が良い子を育ててきたと、思うのですな。

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聖歌隊席仕切り上部装飾
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キリスト像
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レコンキスタにおけるカスティーリャ・レオン王フェルナンド3世軍によるコルドバ包囲戦の図
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聖体祭行列用聖体顕示台(部分) 聖テレサ礼拝堂

金細工師エンリケ・デ・アルフェによって、スペインに新たな行列用護符の概念がもたらされた。この作品の価値は、作品の質や図像の豊かさだけでなく、それまでコルドバでは知られていなかった新たな芸術潮流の先駆けとなり、ゴシック様式からルネサンス様式への移行を促した点にある。

この傑作は4つの異なる部分から構成されています。まず、三つ葉のアーチと繊細な装飾で区切られたオリジナルの台座が見えます。その内部には、キリストの公生活、受難、復活に対応する18の場面が描かれています。それらを構成する人物像は55ミリメートル以下で、エンリケ・デ・アルフェの卓越した技術力が十分に示されています。

続いて、ガラスと金でできた聖櫃が置かれています。これは聖像を安置する聖体顕示台としての役割を果たす本体です。渦巻き模様と天使像が施された台座の上に立つこの本体は、円筒形のガラスの控え壁によって形成されており、そこから内部の塔が伸び、同時に飛梁によって外部と繋がっています。

次は聖母被昇天教会で、銀細工師ベルナベ・ガルシア・デ・ロス・レイエス作の聖母像が安置されている。建築的な観点から見ると、この聖母像は、天使像が乗ったイルカを支柱として互いに連結された小さな塔で構成されている。

最後の部分は鐘楼に相当し、花輪で繋がれた六角形の塔が連なっています。鐘、ドーム、そして6つの小さな鐘が吊り下げられた冠で仕上げられています。全体は台座で完成し、その上に勝利を収めた救世主の像が置かれています。

 公式HP

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主祭壇
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下掲の絵葉書は、昨年末、藤井大丸の古書市で入手、改めて123年後の姿を観る。読めませんな。

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10.0 ×14.0 cm CORDOBA: CATEDRAL: SILLERIA DEL CORO 消印: 25 May 1903

COROというのは、聖歌隊席の椅子列・腰掛けの一式。

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メインチャペル、翼廊
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黒い円柱の森

ウィキによると、コルドバがイスラム勢力に支配されたのは、711年〜1236年とされ、後ウマイヤ朝(756年〜1031年)が首都と定めた。彼らはイベリア半島で起こり、アフリカ大陸に逃れ、元の地で再興。初代は金髪緑眼。コルドバは洗練した文化都市として繁栄。10世紀には人口50万人あまりの世界有数大都会。イスラム支配下では信仰の自由が許されユダヤ教徒もキリスト教徒もともに暮らしたという。

 スペインのカトリックを、信仰と王権、帝国支配と結びついたものと理解するのが妥当かもしれない、観光客にはサンティアゴ・デ・コンポステーラとサグラダ・ファミリアの国。アンダルシアで今しばらくイスラムの残り香に浸りたいと思う。

コルドバ|メスキータ 黒い円柱の森 ─ 31 May '26

ここは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフーマン1世時代の785年に建設されたイスラム教のモスク(メスキータ)が発祥。以降、3回にわたって拡張され、25,000人収容の大モスクとなった。レコンキスタによってイスラム教徒が追い出された後、カトリックの教会堂とされ、現在では司教座聖堂「コルドバの聖マリア大聖堂」となっている。

 幸い改造はされたものの、レコンキスタによる破壊を免れ、イスラム教とキリスト教が同居する奇跡の空間となり、1984年、世界遺産に登録された。 

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カルデナル・エレロ通り、前方に尖塔(ミナレット)
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免罪の門からパチリしたオレンジの中庭。正面がメスキータ
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シュロの門

入室し眼が慣れてくると、1,000本以上の円柱が規則的に並んでいるのが分かる。礼拝の静寂に、祈りの声が響き渡るようだ。一日、五回。

空間を支える無数の円柱は、世界各地から集められた時代、様式、場所の異なる他の建物から転用されたものである。この転用されたために寸足らずとなった円柱の上部に10m程度の高い天井を支えるための工夫が、特徴となる2重アーチを生んだ。メリダにあるローマの水道橋を参考にしたとされるこの2重アーチは、赤いレンガと白の石灰岩を交互に楔状に配した構成となっている。

ウィキペディア
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内部、拡張の様子(「地球の歩き方」から引用)
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アブドゥル・ラフマン1世のモスク
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アブドゥル・ラフマン2世の拡張

「カトリック教徒の改造で入口は5つの門を残しすべてが塞がれてしまった」とガイド氏。キリスト教徒は暗闇を突き刺すただ一つの光、神の言葉を得ようとするが、イスラム教徒は「神の前で平等」で、光に包まれ祈るのだろう。メスキート本来の空間では光で至福を与えていたのではないか。キリスト教では「黒」が似合うように思う。

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アブドゥル・ラフマン1世のモスク
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ガイド氏が携帯の光で、アラバスター(雪花石膏)効果を示してくれた。古い石柱は数本しか残っていないという。
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ミフラーブ(メッカの方角を示す壁がん)

「かっては窓があった」と聞いた。

メスキータの円柱空間については、HPに詳細な解説(日本語対応有)がなされている。以下↓

アブドゥル・ラフマン1世のモスク(原本)

アブドゥル・ラフマン2世の拡張

アル・ハカムIIの拡張

ミフラーブ

アルマンゾールの拡張

 

コルドバ|花の小道 (短すぎじゃありませんか) ─ 31 May '26

現地のガイド氏は、この街にはセネカが生きているという。浅学のわたしは、この哲学者を知らなかった。紀元前1年頃にコルドバで生まれ、65年にローマで亡くなったストア派哲学者。皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られる。

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カイルアン通り、城壁はキリスト教時代
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ルキウス・アンナエウス・セネカ像 通称(小)セネカ 後方にイスラム時代10世紀頃に建てられたアルモドバル門
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続けて「街中のお店に『セネカ』の名前がついてます」とガイド氏
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白壁と小鉢で飾る涼しさ
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「各家にはアンダルシアの暑い夏を快適に過ごすためのパティオが設けられている」とガイドブックにある。水やりが大変だそうですね。


本日観光のメイン、メスキータ前のレストランで昼食。
Casa Palacio Bandolero Restaurante
C. Torrijos 6 Centro 14003 Cordoba

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オックステール煮込み
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面白いですね、ミナレットにしているのかしら。
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パティオ
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Restaurante Bandolero
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レストラン左隣りのお土産屋さん、黄色の郵便ポストが良いですね。

食後に連れ立って徒歩5分の写真スポット「花の小道」へ。

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G.JA DLAS FLORES

装飾的に省略した道路表記、正確には「Calleja de Las Flores」でしょうか。人、一人がやっと通れる小道。ガイド氏が整理しての一方通行、200m。通りきると小さな広場があり、振り返って見上げるとメスキートを象徴するミナレット。白壁に飾られた色とりどりの小鉢の花。他の団体が途切れた瞬間に、われわれもパチリ。ユダヤ人の面影は白い壁に隠され、感じることはできなかった。

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花の小道奥の小さな広場
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メスキートを象徴する尖塔(ミナレット)

iPhoneで取ればよかったかしら、この位置、広角・縦ですよね

アトーチャ駅発車 iryo─ 31 May '26

電光掲示右上  10時30分発 セビーリャ・サンタ・フェスタ / コルドバ・フリオ・アングイータ行き イリヨ  06106号 ホーム1階。

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プラド通り 左にティッセン・ボルネミッサ美術館

パレス・ホテルからネプチューンの噴水側を渡り、ホテル・リッツ近くで待機していたバスに乗りアートチャ駅へ。プラド通りの市民マラソン(?)による通行規制と駅の改修工事で、到着までに時間を要す。

 駅はマドリードとセビーリャ(コルドバ・リスボン)といった南方面を結ぶ長距離列車の起点駅。1851年開業、火災による改修工事、1892年に2代目駅舎、1992年の高速鉄道開通にともなう新駅舎。2代目は典型的な欧州の鉄道駅、プラットホームと線路を同時に覆う大屋根構造のトレイン・ジュッドで、その遺産を現代までつなげている。新駅舎は頭端式ホーム8面15線、北側入口に植物園(?)を取り込んでいるが、近回りしたわたしたちは見ないままだった。

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09:40 コンコース
 

10時30分発のコルドバへ行く新幹線iryoの改札は2階、信用乗車方式ではないのでホームでの撮り鉄三昧は出来ません。チケットと手荷物のX線確認を受け待機、スタッフの脇から入線してくる車両をパチリ、ピントの調整などをしておりました。撮り鉄したいね── 奥様とお土産探しです。もち、荷物持ち(ハハ)。

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「スペイン散歩」第11回でふれた若い友人好みのレアル・マドリード、エムバペのオフィシャル・ユニフォームがありました。「本拠地マドリードでゲットするのに意味があるのよ」と奥様。── 本稿執筆の7月1日も、ワールドカップで2ゴール、かっこいいですね。

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さて、わたくしは撮り鉄、緩やかなエスカレーターに乗ってホームに降ります。パチリしながらなので、ちょっと危険。

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イリヨ(iryo)は、スペインで民間が運行するフル規格高速鉄道。使用車両は イタリア鉄道(Trenitalia) のフレッチャロッサ(赤い矢)1000 と同系、最大速度時速360km。日本資本の日立レールとカナダ・ボンバルディアとの共同開発。ネットの情報によると「イタリアでの形式はETR400型だが、スペインでは既存の高速列車AVEの続番となるETR109型という形式が与えられた」という。スタイリッシュだけど、ヨーロッパ感がありませんな(好みの問題です)。

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109-001
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29.7 × 21.0 cm セビーリャ行06106列車予約シート 2号車4B
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10:15

欧州の駅には発車ベルがないので、10分前に車内へ戻る。


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スペイン国鉄 Renfe121系電車

高速新線(1435mm)と在来線広軌(1668mm)に対応するモーター付軌間可変動力集中方式車両。30km/hで走行しながら車輪幅変更可。最高速度前者250km/h、後者220km/h。

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バルセロナ・サンツ行きが発車していきました。
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スペイン国鉄 Renfe AVE S102 (或はS112) アヒルのくちばしのような先頭形状が特徴
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アトーチャ駅発車
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11:03
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イリヨの車内サービスは4種類、1等車には食事付きというのもあるらしい。わたしは鉄道好きなので車両を移動しながらパチリ、パチリ。ビストロ車両でエスプレッソかビールと思いましたが、我慢。座敷配置が独特ですな、回転式というのは日本の特許だそうです。中央辺りでパーティ状態なんてグループもおりました。

 オリーブでしょうか、平坦な土地が続きます。


9分遅れの12時22分 コルドバ・フリオ・アングイータ駅着

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スペイン国鉄 Renfe Cercanias  近郊系統通勤列車
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12:25

イリヨは本年1月18日に、スペイン国鉄の車両を巻き込む大規模な鉄道事故をコルドバ近くで起こしていたので、心配だった。

ソフィア|駆け足鑑賞 タイムアウト ─ 30 May '26

下調べをしないまま入場したので、ソフィアの回廊と展示室、鑑賞ルートが今ひとつ飲み込めない。日本的に閉館8時の先入観、ミュージアムショップも覗いておきたいと、係員に尋ね、一旦、外に出る。再度、ミロとピカソを観なくちゃと、エレベーターホールへ。わたしのやり方は、どこでも、二度見。空間に慣れないといけません。《ゲルニカ》の人集りもおさまり、対話をしばらく。
 別室で人気のサルバドール・ダリの油彩も、パチリ可能な状態。奥様と歩き回りながら、タンギーやドミンゲスなどの記録もパチリ。閉館のアナウンスはありません。

 後日確認したところ。マン・レイの《埃の飼育》やダリの《透明人間》などもあったようだが、クローズされていたのかもしれない。

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ダリ《果てしない謎》1938 Room205.13
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ダリ《偉大なオナールの顔》1929 Room205.13
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ダリ《窓際の人物》1925 Room205.06

シュルレアリスムといえば……

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イヴ・タンギー《矢占い I》1927 Room205.13
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オスカー・ドミンゲス《ジョルジュ・ユニュの旅》1935 Room205.14
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フアン・ゴイティソロ広場

左手前の背が高いモニュメントは、グーグルマップの書き込みによると、アルベルト・サンチェス(Alberto Sánchez Pérez)が設計・制作した1937年のパリ万国博覧会のために作られたオリジナル作品のレプリカ。高さ18m、重さ7t。頂上に社会主義を象徴する赤い星を飾る。

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20:38 サバティーニ館 右の黒柱奥のエレベーター塔から広場をパチリ

駆け足鑑賞だったが、エフェメラを堪能した眼福の一時だった。閉館は9時だったもよう。出発前のパソコン環境が良くなかったので、下調べがなおざりだった。反省ばかりですね。ソフィア王妃芸術センターのHPは充実しているので、今後のためにもブックマークしておこう。

マドリードでの美術鑑賞は、16世紀〜19世紀の三大巨匠、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤのトレド美術館、印象派を中心としたティッセン・ボルネミッサ美術館、大規模改修後の1986年に再開された近現代美術を紹介するソフィア王妃芸術センターの国立三館が圧倒する。
 ピカソの《ゲルニカ》所蔵で特に知られるソフィアを後にしながら、館のアイデンティティは、スペイン内乱で敗戦した共和国政府の復権にあるのではと思った。「詩・自由・愛」シュルレアリスムの思想との親和性も高い。世界の20世紀芸術を牽引した三巨匠、ピカソ、ダリ、ミロが、スペイン出身であったことなど、希望の現れではないだろうか。


ザ・パレスに戻り、ツァーの皆様と合流。ビールが旨い。本日、22,968歩。 お疲れ様でした。

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21:35

ソフィア|マン・レイとわたし、 そして、 キャパ ─ 30 May '26

ソフィアがコレクションするマン・レイ作品でHPに掲載されているのは、凡そ55点。1926年の油彩と没後の大型メトロノームを除くと、実験的写真があるものの、スペインに関係する画家や著名人の肖像写真が多く、また、没後のプリントが大半で、芸術作品というより資料の位置づけ、近年の収集と思われる。

 とはいえ、会場で男性のフラメンコ・ダンサー、ビセンテ・エスクデーロ(1888-1980)がタップを踏む様は、リー・ミラー発案の階層的な影の効果でリズミカル(今回の旅行で実見し、納得した)。ビセンテは「ダンサーであると共に、シュルレアリストたちと交流した画家であり、著述家。モダニズムの感覚をフラメンコの身体表現へ持ち込んだ」というのを、本稿記入の過程で知った。スペイン繋がりですな。

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額装写真 マン・レイ《ビセンテ・エスクデーロ》1928年5月23日 ヴィンテージ、ゼラチンシルバー・プリント 16 × 10.8 cm 1997年収集 Room 205.11
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ソフィアの人たちがマン・レイをどのように理解していたのか、知りたいのですよ。

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額装写真 左からマン・レイ《シュルレアリスム的構成》1920-1934 没後焼付 1982 ゼラチンシルバー・プリント 28.8 × 20.0 cm 1988年収集、 《パブロ・ピカソの肖像》1932 ヴィンテージ、ゼラチンシルバー・プリント 21.6 × 16.4 cm 2003年収集、 Room 205.02
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ケースには……

大判カメラの技術者、ハーバート・アルトマンとマン・レイの有名なレイヨグラフを挿図に使った「h. KROVS .W」の「キャバレー」と題する記事の内容は分からないが、瀧口修造が訳したアンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』(1928年 / 1930年)にマン・レイの方は《ある女の思想》(1922年)と《太陽の方へ》(1927年)が紹介されていたのを思い出しつつ、雑誌にスペインとの繋がりがあるかと覗き込んだ。

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監視員(?)が不在だったので、ちゃっかり記念写真(ハハ) 


高校の写真部で友人のS君とロバート・キャパの話をよくした。二人の教本は『ちょっとピンボケ』(ダヴッド社)。ノルマンディー上陸作戦の「決定的瞬間」が、暗室助手の興奮でほとんど失われた逸話は、フィルム現像を始めたばかりの高校生には、強い教訓だった。「写真による世界認識」なんてことを真面目(?)に思考していた二人には、キャパの《崩れ落ちる兵士》は、アイコン、お手本でしたね。これを、ソフィアで見たものだから、リアリズムとシュルレアリスムの若いときからの葛藤を、またまた、思い出していた。作品を鑑賞するとはこのことだ(ハハ)。
 
 スペイン内戦を取材していたキャパが、1936年9月のコルドバで「頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士」を撮ったものだとして、グラフ誌『ヴュ』ついで『ライフ』に掲載され、大反響となった写真。一瞬、ヴィンテージかと思ったが展示は没後焼付 のゼラチンシルバー・プリントだった。── というよりも、近年の研究で写真は、演習中の演出写真で、兵士も生存している。撮影もキャパの恋人、ゲルダ・タローではなかったかとされる。

 大人になりきれなかったわたしに、「それが貴方の良いところよ」と言ってくれた女友達がいたけど、「りんごの写真にリアリティなどあるものか」と、真摯に現実と向き合っていたマン・レイに、連帯の挨拶を送りたいのですな。

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額装写真 ロバート・キャパ《死の瞬間の人民戦線兵士》1936年9月5日 没後焼付 1998 ゼラチンシルバー・プリント 31.8 × 45.4 cm 1998年収集、Room 205.16 部分
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フランツ・ロー編集、ヤン・チヒョルトのブックデザイン『写真の眼』1929年

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グラナダ、コルプス・クリスティ 1922年。 第1回ディープソングコンクール アンダルシア小学校歌唱コンクール 6月13日・14日 賞金総額8500ペセタ (自動翻訳)

アルハンブラ宮殿野外劇場で催されたコルプス・クリスティの祝祭週間に催されたコンクールの公式ポスター。マヌエル・デ・ファリャとフェデリコ・ガルシア・ロルカが中心になって開いたという。古いフラメンコ(カンテ・ホンド)を保存・振興しようとした催しで、スペイン近代芸術史の重要事項に位置づけされる。

Agent i

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中庭のカルダー《カルメン》1974年 に気付く、パチリには遠い。

ソフィア|魔術師・ブルトンとエフェメラたち ─ 30 May '26

ソフィアの常設展示(205.13)でわたしが見入ったのは、エフェメラ。図版で知っていたものたちが、厚みをまとってリアリティ。どうしても拙宅の架蔵品と比べてしまう。ムム。この分野の先達、羊歯齋文庫特設会場のK氏、ギャラリー点のT氏らにパチリした大判アクリルケースに美しく整列したエフェメラたちの晴れ姿の感想を聞いてみたい。

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テキスト、右にヴィクトル・ブラウナー油彩《シュルレアリストの風景》1930 お顔は自主規制

アンドレ・ブルトン シュルレアリスムの魔術師

1924年に最初のシュルレアリスム宣言を発表したアンドレ・ブルトンは、自身の心理学知識から理論化された運動の基本原則を定義しました。これらの原則には、芸術家の精神における主要な手段としての執筆の重要性、自動記述、そして想像力、美、知性、愛といった絶対的価値を称賛する理想主義が含まれていました。運動の普及、そして、そのイデオロギー的・芸術的発展、提案、議論は、様々な雑誌で表現されました。ブルトンによれば、これらの雑誌は「定義されていない、多様な読者の期待に応える接触手段であり、同時に私たちの生命のニーズと周囲の空気の性質に適応した呼吸のリズムを与えてくれる」ものでした。雑誌はまた、グループ内の様々な潮流間の創造的・イデオロギー的な相違を繰り広げる弁証法的な戦場でもありました。
 この部屋の作品は、1928年に初版が刊行されたブルトンの主要著作の一つ『シュルレアリスムと絵画』を中心に構成されています。この著作は、シュルレアリスム文学の創作に適応した絵画様式を創造した芸術家たちの作品を集めたものです。オートマティズムと芸術家の内面世界への着目は、ブルジョワ意識の危機をもたらすことを目的としており、最終的には、作品全体が革命を提唱する資源として構想されました。

会場テキスト
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会場写真にはマン・レイの油彩《サン=ジャン=ド=リューズの夜》1929

上掲のブルトンが写る生写真(右)は、『ガセタ・デ・アルテ』誌の提供で、カナリア諸島(スペイン領)のサンタ・クルス・デ・テネリフで1936年5月に催された「シュルレアリスム国際展」の折のもの。夫人のジャクリーヌ、詩人のペレなども並び、壁の右端にマン・レイの油彩が認められる。展示には70点のシュルレアリスム絵画、ブルトンは講演も行なっている。
 これまで《サン=ジャン=ド=リューズの夜》が出品されたと知らなかったので、マン・レイ油彩のカタログ・レゾネ(銀紙書房、1999年)を改訂するときには追記せねばと思った。

ソフィア|クラヴァンとミロのバルセロナ ─ 30 May '26

昨日、《ゲルニカ》を探して回廊を進んだ時、「チラ見した展示品に興味が向かった」と書いた。エレベーターホールからのアプローチからすると下掲の部屋と思うが、回廊なので初見参には常設展示が2階のどこから始まるのか分からない。

 帰国後、ソフィアのHPに手掛かりを探すが、

当美術館の常設コレクションは現在、約2万5000点の作品で構成され、19世紀末から現代までの作品を網羅しています。主な焦点はスペイン美術史ですが、国際的な作品も所蔵しており、特にラテンアメリカの作品に力を入れています。─<略>─ 当美術館は2028年まで所蔵品の再編成を進めており、そのため一部の展示室が一時的に閉鎖されていたり、作品が別の場所に移動されている場合がございますので、あらかじめご了承ください。

ソフィア HP

とあり、記憶が混乱する。

 ソフィアでの体験に戻ると、シニア二人は《ゲルニカ》から一旦離れ、眼に止まったミロの《ヤシの木のある家》(1918)が飾られた部屋に入った。常設のスタートと思ったのである。壁の左にはピカビアのダダ時代の作品もあり嬉しい。「391」良いですね。この部屋にはアルチュール・クラヴァンとジャック・ジョンソンのボクシング試合告知ポスターが掛けられ、ニューヨーク・ダダに関心を持つわたしは、体験のロケットスタートだと、気合が入った訳。

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ピカビアとミロなど
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ボクシング試合ポスター、対戦写真など

アルチュール・クラヴァンとジャック・ジョンソンのボクシング試合は、1916年4月23日、バルセロナのラ・モニュメンタル(PLAZA DE TOROS MONUMENTAL)で催された。写真を見ると本物の闘牛場に思える。伝説のダダイスト、クラヴァンの試合の記憶にソフィアで出会うとは、驚き。ポスターは既知だったが、バルセロナだったとは。── わたしたちの旅の最後は、バルセロナを予定。
 詩人で雑誌編集者で、ニューヨークではデュシャンとピカビアの悪ふざけにあい酩酊したまま講演し。マイナ・ロイに愛されながら、海の彼方で行方をくらまし、人生そのものを芸術に変えたスキャンダリスト。わたしはクラヴァンの対戦写真を、知らなかった。ある報告に「右アッパーカット、左フック:クラヴァンはダウンし、試合は終了した。」とある。


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別の部屋にはミロ、カンディンスキー、ドミンゲス、ニコルソン、ガルシア、ユニュ、グロスなど

拙宅の奥様贔屓はジョアン・ミロ。若い頃からでしたね。今回、二人して最初に「良いね」と指差したのは下掲のコラージュ。彼女はソフィアで優品に囲まれ嬉しそうだった。noteには投稿しておりませんが、作品を背景に記念写真をいくつかパチリ(ハハ)。

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ミロ《スペインの踊り子》1928

1920年代後半、ジョアン・ミロは「絵画のための絵画」を賛美する風潮やブルジョワ的な美術市場に抗い、非絵画的な表現を追求し始めました。彼はコラージュや、異質な素材を用いた構成(コンストラクション)といった新たな表現手法を試みたのです。1928年の春、ミロは「スペインの踊り子」を主題とする4点のコラージュ・シリーズを制作し、非絵画的な素材を取り入れることで作品の触覚的な質感を強調しました。構成の図式的な性格や象徴的な要素の選択が、作品に視覚的かつ詩的な趣を与えています。《スペインの踊り子 I》では、サンドペーパーの帯に鉛筆で逆向きの「v」の字が描かれ、その下にはフラメンコダンサーの靴を写した切り抜きが配置されています。一方、左側の垂直線は踊り子の身体を様式化したものであり、頭部は小さな円形の台座と、それを横切る羽(現在はその痕跡のみが残っています)によって表現されています。アンドレ・ブルトンのコレクションに含まれていたこの作品について、詩人のポール・エリュアールは「想像しうる限り最も『裸の』絵画」であると評しました。

ソフィア HP
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ミロ《肖像 II》1938

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前衛誌 DER STURM、BROOMなど
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ダリの初個展カタログ(GALERIES DALMAU, BARCELONA, 1925)など
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マックス・エルンスト《美しいドイツ女》1934-1935 石膏と鉄線