私は自分自身を挑発するために制作する

note.com

 

 著名な画家・批評家・エッセイストの林哲夫氏が『愛しのマン・レイ』展のカタログについての玉稿を、noteで発表された。当事者としてこれほど嬉しいことはない。感謝申し上げる。

 

 尚、美術館のFAM ART STOREではオンライン販売に対応している。ご興味がお有りの方は、ご確認いただきたい。

shop.fujibi.or.jp

ハーパース・バザー

愛しのマン・レイ展 出品: 135〜146

---


 1930年代の雑誌で背は糊留、ページを開いて観てもらいたいけど、背割れが怖く、枕の高さ、ピラーの位置など考慮。ファツション写真のヴィンテージは掲載雑誌の網目印刷だと、わたくし強く思っております。

* 会場撮影は関係者の許可をいただきました。感謝申し上げます。

エレクトレシテ

愛しのマン・レイ展 出品: 115〜124

限られた壁面に二段掛け、キャプションを含め、間隔どうしようかと学芸員、2-3センチのズレが印象を大きく変える。腕の見せどころですな。本作については「ときの忘れもの」のブログに詳しく書いた。→ 石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第10回 : ギャラリー ときの忘れもの

 

* 会場撮影は関係者の許可をいただきました。感謝申し上げます。

プロスペクト公園の絵葉書

愛しのマン・レイ展 出品: 58.9 × 14.0 cm 消印: 1908年3月8日

素手で扱えるのはわたくしだけに許される」なんて思ってはいません。きちんと白手袋を使い、丁寧にケースに納めました。天地の微調整を、それなりにしているのです。
---

 

 展覧会の開場構成は上段の年譜を基本にしながら、トピックを適宜内側等に配することで鑑賞に深みを与えている。「ブルックリンでの写生活動」を補足するトピック2では、マン・レイが写生に通ったプロスペクト公園(自宅から10キロ圏内)が紹介されるが、導入部に絵葉書が配されるのは、絵葉書ファンとして時代を遡るリアリテイが感じられ、嬉しいのですよ。

* 会場撮影は関係者の許可をいただきました。感謝申し上げます。

展覧会のエフェメラ

愛しのマン・レイ展 出品: 案内状、カタログなど

 展覧会ではマン・レイの個展やグループ展の案内状やカタログ、ポスターを展示した。筆者の楽しみの原点であり1970年代から関心を持って手元に保管してきた。その数はマン・レイが生きていた1976年迄に限って凡そ120。それぞれが果たした作家での位置づけと収集の思い出(*)については、今展のカタログで『展覧会のエフェメラ』と題し寄稿した。

 

 (*) ダニエル画廊、1915年 アレクサンダー三世画廊、1931年 サークルギャラリー、1944年 封印された星画廊、1956年

『愛しのマン・レイ』展 開幕 at 東京富士美術館

愛しのマン・レイ展 出品: 264

 拙宅 の一点「謹賀新年 ジュリー&マン・レイ」  マン・レイは新年の挨拶に「meilleurs souhaits」と書いていたようである。字義どおりに解すれば「幸運をお祈りします」でしょうか、再婚したばかりのデュシャンの「幸運」、いろいろ解釈できますね…… 絵葉書もどこに飾るかによって表情を変える。上掲の位置がお似合いだと思うけど、ただいま、八王子へ出張中であります。


 本日、東京富士美術館にて「愛しのマン・レイ展」開幕(3月23日迄)、入場料: 大人1,500円、大高生900円、中小生500円、未就学児無料。ご高覧いただければ、嬉しく思います。

ハリウッド・ランチマーケットの絵葉書

愛しのマン・レイ展 出品: 216

8.7 × 13.9 cm

---

 本品もカタログ第3章「ハリウッド時代 1940▶1951」の扉に引用された。マン・レイとジュリエットが住んだのはヴァイン通りを渡った側にあるU字型の建物で、ニール・ボールドウィンの評伝によると「細長い中庭にはバナナや棕櫚の樹が生え、ハイビスカスが茂っていた。蔦におおわれ、さんさんと陽光のふりそそぐ壁面を、ハチドリが上や下へあわただしく飛びわっていた。二人が選んだのは、通りからもっとも遠くて、中庭や青々とした裏庭を見おろす大きなアーチ型の窓のある二層式の部屋だった」そして「通りをへだてた真向かいには二四時間営業の青空市場があり、ジュリエットはそこで新鮮な果物や野菜を買った。マン・レイが保存食品を食べようとしなかったからである。そのハリウッド・ランチ・マーケットでは、ブランジェという安い赤ワインも三本一ドルで売っており、それを飲むとマン・レイはフランスにいたころよく飲んだ田舎のワインを思い出すのだった」(ニール・ボールドウィンマン・レイ草思社、1993年 346-347頁)

 筆者はマン・レイの過去の住まいに手紙を送り、不在者票が付いて返送されたものを、室内の写真(複製)と共に展示するプロジェクトをしたことがある。ヴァイン通り245番地在のマン・レイ氏に送ったところ、住人の画家から親切な手紙を頂いた。その時に訪ねておけばと悔やまれる。四年前の様子をアップしておこう……

 

2020年12月、 グーグル・ストリートビューから引用。感謝申し上げます。

サンセット大通りの絵葉書

愛しのマン・レイ展 出品: 2178.7 × 13.8 cm パイン・ストリートとサンセット大通りの交差点。

---

 ドイツ軍のパリ侵攻から逃れ帰国したマン・レイは、西海岸まで旅をしロサンジェルスに住んだ(1941年秋)。自伝『セルフポートレイト』(千葉茂夫訳、美術公論社、1981年)によるとパリで交流のなかったヘンリー・ミラーマン・レイは、近くに住んだことから親しく付き合うようになったようで「ある日、ミラーとわたしは、ハリウッド大通りとヴァイン通りの交差する角に立って、買い物でごった返す周囲の群衆についてあれこれ論評しながら、誰か魅力的な女性の眼をとらえんものと頑張っていた。しかし、冷たいまなざしに出会ったり、でなければくるりと店の陳列窓のほうに顔をそむけられてしまうだけだった。パリのようなわけにはいかないと、二人の意見は一致した」(348頁)と回想している。ハリウッド大通りは上掲のサンセット大通りの2ブロック北に位置するが、そちらの絵葉書は展覧会に出品しなかった。サンセット大通りの先に『我が愛しのオブジェ』展を開催したサークル画廊があるためである。

----


筆者所蔵 

8.6 × 13.8 cm パイン・ストリートとハリウッド大通りの交差点。

モンパルナス・ナイトライフ 絵葉書

愛しのマン・レイ展 出品: 459.0 × 14.1 cm
---

 今展の絵葉書は、カタログで各章扉のアクセントに使われるなど、重要な役割を担っている。上掲のカフェ・ロトンドはモンパルナス大通りとラスパイユ大通りの交差点にあり、1903年開店。店舗の左側が地下鉄ヴァヴァン駅入口。常連に画家のモディリアーニ、スーティン、藤田嗣治、ブルーデル、ドラン、ヴラマンクユトリロ、革命家のレーニントロツキーらがいた。マン・レイと有名なモデル、キキ・ド・モンパルナスが出会ったのもこの店。「売春婦に間違えられるからと案内を拒否するギャルソンに毒づく場面に居合わせた」1921年末とされる。

-----

 

愛しのマン・レイ展 出品: 73

9.0 × 14.0 cm
---

 ナイトクラブ ル・ジョッケーはマン・レイのアトリエがあったカンパーニュ・プルミエール街31番地直ぐ(徒歩3分)に、1923年11月開店、パリに住むアメリカ人のコミュニティーとなった。キキ・ド・モンパルナスは毎夜、乱痴気騒ぎの起こるこの店で、アルコールの力を借り卑猥な酒場歌を披露、「色気と美しい声で男たちを惹きつけた」という。この頃にはマン・レイとの蜜月は終わっていた。

 筆者は雑誌『シエステ』第2号(午睡書架、2023年)で、「引き出しの写真」と題し、キキ・ド・モンパルナスについて詳しく紹介した。

リッジフィールドの絵葉書(RPPC)

愛しのマン・レイ展 出品: 17

8.9 × 13.9 cm

----

 今回の展示ではオリジナル写真の裏面も一緒に観てもらえるよう什器を工夫した会場構成を行っている。しかし、多くの展示品では裏面をお示しするのが難しい。それで援護射撃になるかと思い「マン・レイと余白で」で紹介することにした。上掲の絵葉書(マン・レイではありません)はリッジフィールドの有名な三叉路を撮った写真で、コダック1903年から発売した「Real Photo Postcard」を用いた作例と思われる。当時のポラロイド、インスタントカメラといったものだろうか。撮影したカメラをコダックに送ると、葉書サイズの印画紙に焼き付け、フィルムを充填し送り返すシステム。印刷した絵葉書と異なり、庶民が関心のある場面をパチリする記録性と身軽さで爆発的な人気を博したと聞く。本作ではマン・レイが24歳だった1909年1月14日の消印が認められる。残念ながら、彼がリッジフィールドで生活したのは1913年の春から1915年の12月までだった。筆者はマン・レイが歩いた様子が想像できる絵葉書を、前後5年の範囲で蒐集している。これが難しいのですよ。

---

 パチリの場所は、ニュージャージー州リッジフィールドのグランド・アベニューとブロード・アベニューの分岐点(下に2021年の様子を示す)。マン・レイのコテージは右のブロード・アベニュー側を進んだところにあったようである。アドンと結婚し友人たちとコテージの前で寛ぐスナップ写真「結婚式の日」購入をニューヨークの画商から打診されたことがあった。高すぎましたな。(ハハ)

2021年10月、グーグル・ストリートビューから引用。感謝申し上げます。

ボーイズ・ハイスクール 絵葉書

愛しのマン・レイ展 出品: 1


13.6 × 8.5 cm

---
 さて、今週末11日(土)に東京富士美術館で『愛しのマン・レイ展』が開幕する。展示の最初はブルックリンの男子高校「ボーイズ・ハイスクール」の絵葉書。学芸員の宮川謙一は昨年同地を調査し、学校があるのはマン・レイの自宅から2キロメートル程の場所で、1891年に建てられたロマネスク・リバイバル様式の赤煉瓦造り校舎は象徴的な鐘楼と共に現存していると教えてくれた。
 マン・レイは高校時代を振り返り、素描と自由画以外の授業は惨憺たるものだったと言うが、「ボーイズ・ハイスクール」には奨学金制度があり競争率の高い地区の名門高校。1975年に建物はニューヨーク市史跡保存会によってランドマーク指定されている。この年、ガールズ・ハイスクールと合併しボーイス・アンド・ガールズ・ハイスクールとなった。卒業生には学者、政治家、ジャーナリスト、弁護士、スポーツ選手などの著名人が溢れる。マン・レイや作家のアイザック・アシモフノーマン・メイラーなどの名を見つけた。
 
 筆者は研究者のスティーブン・マンフォードが提供してくれた参考資料の「ボーイズ・ハイスクールの卒業アルバム」1908年 (fig.2)に掲載された、編集委員(アートディレクター)を務める若きエマニュエルの意気揚々とした姿に感激するのである。どうして、彼はニューヨーク時代の「自分」を隠して生きたのだろう…… 『愛しのマン・レイ展』では、この謎が次第に、明らかにされていくと期待したい。尚、写真下段に「Radnitsky」と印字されている。