1890年 8月27日、エマヌエル・ラディンスキー(後のマン・レイ)は、ロシア系ユダヤ人の移民の子として、フィラデルフィア(アメリカ、ペンシルバニア州)で生まれる。4人兄弟(男2人、女2人)の長男。
1897年 父親が衣服工場に職を得、一家はブルックリン(ニューヨーク)へ移る。
1898年 キューバで撃沈された軍艦「メーン」号を報道する白黒写真を模写し自由に着色する。
1903年 バルミツバアの祝祭(ユダヤ教の成人儀式)を受ける。
1904年 ボーイズ・ハイスクールに入学。自由デッサンと機械製図を熱心に学ぶ。
1906年 日本の浮世絵版画を拡大模写し油彩画に仕上げる。
1908年 アメリカで開かれた最初の展覧会の一つであるロダンの水彩とデッサンを、アルフレッド・スティーグリッツの「291」画廊で見る。
1909年 ニューヨーク大学で建築を学ぶ為の奨学金受給資格を得るが、これを放棄し自分で稼ぎ自由に絵画を描く道を選択。その後、新聞の売り子、彫版師見習い、広告デザイナー、出版社のレイアウト・マン、地図デザイナーなど様々な職業につく。簡単なブロニーカメラで自作絵画を撮影。
1910年 風景画を多く描く(画面にはERのサインが認められる)。
1911年 家族は「ラディンスキー」を省略しアイルランド風に「レイ」と改名。仕立屋という家庭環境を反映しキュビスム風のフォルムを持ったキルト『タペストリー』を制作、画布には「マン・レイ」の署名が入る。291画廊で見たセザンヌの水彩画に強く影響される。又、画廊主ステーグリッツのする近代美術と写真についての長広告に聞き惚れる。
1912年 柔軟で自由な教え方をするフェレール・センターのデッサン教室に通う。教師にはロパート・ヘンリ、ジョージ・ペローズがあたる。教室で出合った彫刻家のアドルフ・ウォルフやロシアで生まれパリで学んだサミュエル・ハルパートとの間に友情が生まれる。ウォルフの前妻アドン・ラクロワ(ドンナ)を知る。
1913年 家を出る。ウォルフのアトリエ、後にリッジ・フィールド(ニュージャージー州)の芸術家村に移り、ハルパートと共同生活。都会で働き田舎に暮らす生活を楽しむ。ペルギー生まれの詩人アドンとの情熱的な恋愛。3歳年上の彼女を通して、ボードレール、ランボー、ロートレアモン、マラルメ、アポリネールを知る。彼女の寝姿をレモン・イエローで誤って着色した油彩が300ドルで売れる。アーモリー・ショーへの出品を求められるが辞退する。しかし、同展でマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアらの作品に触れ、モダン・アートへの知識を深める。
1914年 5月3日、ドンナと結婚。第一次世界大戦の勃発を予見する結果となった油彩の大作『AD MCMXIV』を制作。戦争のため夫婦でパリに渡ることを断念。(7月第一次世界大戦始まる)
1915年 1月、ドンナの文章をマン・レイがレタリングし、デッサン、木版画で飾った『様々の書き方の本』を自費出版。5月、リトル・マガジンの『リッジフィールド・ガズーク』(1号のみ)を刊行。6月、リッジフィールドでデュシャンの訪問をうける、生涯にわたる友情の始まり。ビカビアと出合う。11月、ダニエル画廊(ニューヨーク)で初個展。30点の油彩と素描を展示。カタログ用に自作絵画を撮影する。6点の作品がアーサー・J・エディーに2,000ドルで売れる。レキシントン・アベニューに移る。
1916年 運動を色彩から色彩への移行によって表した油彩の大作『女綱渡り芸人はその影を伴う』を制作。絵筆を使わない絵画の領域に乗り出し、疑似・科学的な抽象『回転ドア』の連作を創る。12月、ダニエル画廊で2回目の個展。カタログにはドンナがテキスト執筆。
1917年 西八丁目47番地へ移る。アッサンブラージュ(寄せ集め)で『坂道』『ニューヨーク17』、クリシューベール(線刻写真画)、アエログラフィー(吹き付け絵画)の『自殺』など新しい仕事に取り組むが、制作に没頭し家庭崩壊。無審査が条件のアンデパンダン展でデュシャンの「泉」が出品拒否されたことを知り、『女綱渡り芸人はその影を伴う』の出品を取り止める。
1918年 日用品を幾つか組み合わせ、光と影が演出するシンボリックな写真『男』『女』『影』の制作。(11月第一次世界大戦終結)
1919年 ドンナとの関係は修復出来ないまま別居。アエログラフィーで『大鳥篭』の制作。11/17-12/1、ダニエル画廊で3回目の個展。
1920年 コレクターのキャサリン・ドライヤーが現代美術館を設立。マン・レイが「ソシエテ・アノニム(株式会社)」と名付ける。彼はこのフランス語を「匿名会社」の意味と勘違いしていたがデュシャンの賛成で採用される。デュシャンとチェスに熱中。「回転半球」の実験などデュシャンの仕事への写真的協力。又、デュシャンが制作中の「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」を俯瞰撮影し『埃の飼育』と名付ける。ダダ的な写真『コンパス』『イジドール・デュカスの謎』等の制作。友人・知人をモデルに肖像写真の習得。
1921年 ベレニス・アボットをとらえた「ある彫刻家の肖像」が写真コンクールで選外佳作となり10ドルの賞金を獲得する。2月16日、「ソシエテ・アノニム」で講演。4月、デュシャンが表紙デザインをし、マン・レイが編集した前衛芸術の雑誌『ニューヨーク・ダダ』(1号のみ)を刊行。表紙はマン・レイが撮影したローズ・セラヴィの肖像(女装したデュシャン)を使った香水瓶のラペルが用いられ、スティーグリッツの写真、トリスタン・ツァラの文章等が載った。デュシャンと共に映画『男爵夫人エルザ・フォン・フライター=ローリング・ホーフェンが恥毛を剃る』を撮影。フランスに戻ったデュシャンの後を追い、青春時代からの憧れであるパリへの渡航を決意、資金の工面をする。
7月14日、「パリ祭」の日の夕方にパリへ到着。デュシャンが出迎える。カフェ・セルタでダダイストに紹介される。その席にはジャック・リゴー、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ガラ・エリュアール、テオドール・フランケル、フィリップ・スーポーがいる。自身の過去から自由になったマン・レイの誕生。この後、彼は自分の生い立ち、家族、本当の名前などを謎に包む。8月、ラ・コンダ゛ミーヌ街226番地のイヴォンヌ・シャステル家の屋根裏部屋に住む。11月、ドランブル街15番地のグランド・デ・ゼコールに移る。
12月3日ー31日、パリで最初の個展をスポーの書店「リブレリ・シス」で開く。前日内示展の日に、作曲家のエリツク・サテイと知り合い彼の通訳で平型アイロン、鋲、膠を購入しダダのオブジェ『贈り物』を制作し展示に加えるが、その日の内に失われる。結局35点の油彩、アエログラフ、コラージュを展示したが1点も売れず。生活のため職業的な写真家となり、絵画作品の複写、ファッション写真などを手がける。現像中の失敗から偶然『レイヨグラフ』の方法を発見する。これは印画紙の上に物体を置き直接露光することによって三次元的な質感と明暗の階調を得るものでカメラを使わない写真とも云える。クリスマスまでにモンパルナス界隈で画家達のモデルとして有名なアリス・プラン(キキ)と出会い、ドランブル街での同棲生活が始まる。
1922年 多くの画家や作家の肖像写真を撮る。カザティ侯爵夫人を撮影した『メドウサの肖像』のおかげで上流社会にも顧客を得る。12月、ツァラの序文でレイヨグラフ集『甘美な野』を40部限定で刊行。写真がオリジナルな絵画作品として認められた最初の例。
1923年 ツァラに頼まれダダの夕べ「毛の生えた心臓」のために短い映画『理性への回帰』を制作。アボットを助手に使う(1926年まで)。11月、モンパルナスにナイト・クラブ、ジョッキー開店しキキがデビューする。12月、カンパーニュ・プリミエール街29番地のイストリア・ホテルに住む、隣室はデュシャン。
1924年 ジョルジュ・リブモン・デセーニュによる最初のマン・レイ論がガリマール書店より新しい画家業書の一冊として刊行される。雑誌「文学」(13号)にキキの裸の後ろ姿にf記号をコラージュした写真『アングルのヴァイオリン』を発表。6月、ビカビア脚本によるルネ・クレールの映画「幕間」にデュシャンと共に出演。建物の屋上でチェスをする。12月、雑誌「シュルレアリスム革命」に協力。運動の公式写真家となる。
1925年 オート・クチュールの撮影。ファッション雑誌「ヴォーグ」のフランス版、及び、アメリカ版にモード写真を発表。ジャン・コクトーの詩集「天使ウルトビーズ」をレイヨグラムで飾る。
1926年 3月26日ー4月30日、シュルレアリスム画廊(パリ)で「マン・レイの絵画と島のオブジェ」展を開催。24点を出品。アフリカの仮面とキキを対比させた写真『白と黒』を「ヴォーグ」5月号に発表。映画『エマク・バキア』を制作、初演は11月23日、ヴィス・コンビェ座。旧作『回転ドア』をカッパ版で再現しエディション・シュルレアリストより105部限定で刊行。デュシャン、マルク・アレグレと共に『アネミック・シネマ』を制作。
1927年 3月、ダニエル画廊での個展のためにキキを伴い、6年ぶりにニューヨークへ帰る。
1928年 ロベール・デスノスの詩に着想を得て映画『ひとで』を制作。封切りは5月13日ユルスリーヌ座。
1929年 ヴァル・ド・グラース街八番地にアパートを見付ける。キキの自伝「キキの思い出」に写真を提供。
ブルトンの「超現実主義と絵画」にキリコ、ビカソ、ビカビア等と共に取り上げられる。ルイ・アラゴンとバンジャマン・ペレのエロティックな詩集「1929」にハード・コア写真4点を挿入。夏、弟子になりたいとリー・ミラーが訪ねてくる。ジャック・アンリ・ボワフォールを助手にして記録映画『さいころ城の秘密』を制作。リー・ミラーとの暗室作業中誤ってリーが明かりを付けた為、ソラリゼーションを発見する。
1930年 ブルトンの雑誌「革命に奉仕するシュルレアリスム」に写真作品で協力する。ペシ・ブラン伯爵夫妻邸で開かれた「白」がテーマの舞踏会で招待客の白い衣装をスクリーンとして手彩色映画を投影する。助手はリー。師弟の関係を超えリーとの共鳴状態の中で『ガラスの涙』『観念に対する物質の優位』『祈り』等の代表的な写真作品を制作。
1931年 4月13日ー19日、ピカピアが企画した写真展をアレクサンドル・世画廊(カンヌ)で開催。カタログ序文はピカビア。ジャン・コクトーの映画「詩人の血」にリーが出演。彼女も競争相手となる。
1932年 9月「ジス・クォータ」誌創刊のシュルレアリスム特集号に、写真からリーの眼を切り抜きメトロノームの振り子にクリップで留めた『破壊すべきオブジェ』の素描を発表。リーの唇をパリの空に浮かばせ油彩『天文台の時間──恋人達』を描き始める(完成は1934年)。12月、リーはパリのアトリエをたたみニューヨークへ旅立つ。彼女への未練を断ち切れず自殺を考える。
1933年 スペインのカダケスでデュシャン、メアリー・レイノルズ達とバカンスを過ごす。メレット・オッペンハイムと親しくつき合う。
1934年 10月、ジェイムズ・スロール・ソビー(ハートフォード)より『マン・レイ写真集 1920ー1934年 パリ』が代表的写真105点を収めて刊行される。テキストはマン・レイ、ブルトン、エリュアール、ローズ・セラヴィ(デュシャン)、ツァラで、ピカソの肖像画で飾られた。
1935年 レイヨグラムと写真の個展をワーズワース・アテニウム(ハートフォード)で開く。エリュアールの詩集「ファシール」を彼の妻ニューシュのヌード写真で飾る。フォト・ポエムの真髄。ハーパース・バザー誌を中心にファッション写真を積極的に発表。11月15日ー30日、カイエダール画廊(パリ)で絵画とオブジェの個展。『天文台の時間──恋人達』を出品する。
1936年 グアドロープ島出身で若くて美しい白黒混血の踊子アドリエンヌ・フィラドン(アディ)と知り合う。ダンフェール・ロシュロール街40番地に移る。サン=ジェルマン・アン=レイに小さな家を買う。シャルル・ラットン画廊(パリ)で開かれた「シュルレアリスムのオブジェ」展に『我々すべてに欠けているもの』『』『』を出品。ニューバーリントン画廊(ロンドン)で開催されたシュルレアリスム国際展にレイヨグラムや写真の他に重要な作品『女綱渡り芸人はその影を伴う』『天文台の時間──恋人達』等を出品。夏のバカンスをムージャン(南フランス)で過ごす。グループはそれぞれカップルで、エリュアールとヌーシュ、ローランド・ペンローズとりー・ミラー、ピカソとドラ・マール、マン・レイとアディ。(リーはエジプト人の夫と離婚しヨーロッパに戻って来ていた。)、休息もしたが、マン・レイは夢の情景をデッサンしエリュアールがこれに詩を付けた。年末から3カ月間モード雑誌の仕事でニューヨークへ行く。ヴァレンタイン画廊(ニューヨーク)で素描の個展を開く、カタログ序文はエリュアール。ニューヨーク近代美術館の「幻想芸術・ダダ・シュルレアリスム」展に『天文台の時間──恋人達』を出品。アドン・ラクロワと正式に離婚。
1937年 ジャンヌ・ビュッシュ画廊(パリ)で素描を中心とした個展。同画廊より675部限定でエリュアールと詩画集『自由な手』を刊行。ブルトンの序文で12枚の写真シートを纏めた小冊子『写真は芸術に否らず』を刊行。12月、パレ・デ・ボザール(ブリュッセル)で開かれたシュルレアリスム三人展にマグリット、タンギーと共に参加。アンティーブ近郊でピカソ、エリュアールらと最後となる映画(カラー)を撮影。絵画に専念するためアンティーブにアパートを借りる。
1938年 1月ー2月、ボ・ザール画廊(パリ)でのシュルレアリスム国際展で組織委員の一人となり、光の巨匠として照明を担当。他の画家と共にシュルレアリスム風のマネキンを構成。同展を機にブルトン、エリュアールが編集した「シュルレアリスム簡約辞典」にマン・レイは「彼は愛される為に描く」と紹介される。完全自由への情熱を賛美し油彩『D・A・F・ド・サドの創造的肖像』を制作。絵の下にはサドの遺言の一節を引用し「……余の墓の跡が地表から見えなくなるようにしてほしい。人々の心から余の記憶が消し去られることを願うが故に」と書き入れる。マン・レイの愛読書は「ソドムの120日」。
1939年 3月15日ー30日、ボーヌ画廊(パリ)で絵画の近作展を開く。カタログにはサド伯爵のイメージに関する文章とサドの廃屋を描いたデッサンを載せる。迫りくる戦争への不安を反映し油彩の大作『晴天』を描く。ドイツの宣戦布告から3日後、車で600マイル離れたアンティーブへ駆けつけ自作の絵を持ち帰り、サンジェルマン・アン・レイに保管する。(9月英独戦争始まる)
1940年 ドイツ軍のパリ侵入に、アデイと車で南フランスへ脱出するが、休戦条約締結にともないダンフェル・ルシュール街の自宅に戻る。パリにとどまる決心をしたアディと別れ、単身スペイン国境を越えリスボンへ、やっとのことでニューヨーク行きの船のキップを手に入れ、8月6日出航。16日にニューヨークのホーポーケン波止場に上陸。10月、ユダヤ系外国人の収容と、フランス国内でのユダヤ人の特別収容所設立を認めるヴィシー法成立。ニューヨークでの短い滞在。「あとに残してきたものを忘れる為」ネクタイの巡回セールスマン(ハリー・カンター)と共にアメリカ大陸を横断して西海岸へ。10月13日ハリウツド到着。「山羊のような顔立ちで、目尻の上がったどことなく異国的な」ジュリエット・ブラウナーと知り合う。23歳年下の彼女はモダン・ダンスを勉強した踊り子で、ウイリアム・デクーニングとつき合っていたこともあり、マン・レイの名前を知っていた。シャトー・デ・フルール(長期滞在向けのホテル)に部屋を借りる。
1941年 ヴァイン・ストリート1245番地の大きなアトリエに引っ越す。車を買う。パリに置いてきた絵を思い出し自作の再制作にとりかかる。『回転ドア』『サドの想像的な肖像画』『女と彼女の魚』『運』。ニュージャージの実家から絵画、水彩、素描、写真、画材等を取り寄せる。3月1日ー26日、フランク・パーレス画廊(ハリウッド)で帰国後最初の個展。しかし、作品は一点も売れず。ハリウッドでラジオのインタビューに応える。ヘンリー・ミラーと交流する。(6月独ソ戦争始まる 12月太平洋戦争始まる)
1943年 サンタバーバラ美術館(カリフォルニア)で絵画、素描、レイヨグラムの展覧会。チャールズ・ヘンリー・フォードの雑誌「ヴュー」に協力。1号に「写真は芸術に否らず」、2号では表紙の写真等で、エツセイ、テキスト、写真。お気に入りの写真10点についての連載を載せる。
1944年 9月19日ー10月20日、パサデナ美術研究所(ハリウツド)で最初の大回顧展。1913年ー1944年までの素描、水彩、写真。ハンス・リヒターの映画「金で買える夢」に協力。『ルス・バラ・リボルバー』と題した台本を送る。
1945年 4月、ジュリアン・レビュー画廊(ニューヨーク)で『我が愛しのオブジェ』と題した個展。カタロクの表紙デザインはデュシャン。カウンティ博物館(ロサンジェルス)で1913年ー1945年までの絵画、素描、写真、レイヨグラムの展覧会。(5月独逸降伏 8月日本降伏)
1946年 春から夏にかけて、チェスの制作に没頭。家内興行的に量産し西海岸のデパートでも発売。ホイットニー美術館(ニューヨーク)の「モダン・アートの先駆者たち」展に参加し、シュルレアリスムに関する講演。シュルレアリスムの例としてくじ引きをしオブジェを聴衆の一人に贈る。10月24日、ビヴァリー・ヒルズで2組の合同結婚式。マン・レイとジュリエット、マックス・エルンストとドロティア・タニング。
1947年 ジュリエットと共に飛行機で短いパリへの旅行。ルフェーブル・フォワネ宅を訪ね、自作の油彩、オブジェ、ネガ、写真、デッサン等を選り分けカリフォルニアへ送る。
1948年 パリから持ち帰った数学的機能のオブジェを写した写真を基に『シェークスピア風方程式』の連作を描く。12月14日ー1949年1月9日、コプリー画廊(ビバリーヒルズ)で個展。自身の装幀でカタログ『告示なしにあり続けるために』を制作。展示品の中には油彩『天文台の時間──恋人達』が含まれていたが、画廊主のコプリーがこれを購入。同画廊から『大人のためのアルファベツト』を500部限定で刊行。
1951年 3月、ジュリエットと共にハリウッドを離れ、ニューヨーク経由でパリへ戻る。別れ際デュシャンからエロティックなオブシェ「雌のいちじくの葉」を贈られる、深い友情の証。6月、サンジェルマン・デ・プレの喧噪を離れた静かな道り、フェルー街2番地乙にアトリエを見付け、以後の住まいとする。ベルグレン画廊(パリ)でバリに戻ってからの最初の個展。カラー写真の研究を行う。キキが世を去る。
1952年 仮面に彩色を施し楽しむ。印象派風であるが何処か謎めいた油彩『フェルー街』を制作。
1953年 アッサンブラージュ『皮の影』を制作。11月、ポール・エリュアール死去。
1954年 フェルスタインベルグ画廊(パリ)で個展。シェイクスビア風方程式を出品。
1956年 ブルトンの封印された星画廊で「非抽象」と題する個展。カタログにはブルトンの詩を掲載。『現代の神話』シリーズを手掛ける。
1957年 アメリカでの作品管理を行ってくれていた妹エルシーの急死。以後この仕事は姪のナオミが引き継ぐ。ランスティチェ画廊(パリ)でのダダ展に参加。展示品の『坂道』『破壊すべきオブジェ』が無政府主義者グループの若者達によって破損する。しかし、画廊のかけていた保険によってメトロノームを多数購入し『破壊されざるオブジェ』として量産し、作品に新たな生命を吹き込む。
1958年 アムステルダム市立美術館とデュッセルドルフ文化会館で開催されたダダの回顧展に参加。後者のカタログに重要なテキスト『ダダメイド』を発表。油彩によるデカルコマニーといった手法の『自然絵画』を始める。オブジェ『塗られたパン』『スプリングタイム』を制作。
1959年 3月、ロンドンの現代美術研究所で特別展。カタログ序文にデュシャンは「マン・レイ、男性名詞、喜び、遊ぶこと、享受することと同義。」と書く。12月、ダニエル・コルディ画廊(パリ)のシュルレアリスム国際展(EROS展)にテキスト『女の頭の財産目録』を発表。吸取紙の作品を作り始める。
1961年 「私の伝説」として自伝の執筆を始める。ヴェニスの写真ビエンナーレで金賞受賞。肉体の衰えが忍び寄る(アトリエの悪環境のせいか腰痛の発作にみまわれ、最晩年には脊柱側湾症に悩まされる)。リュシュアン・トレイヤールの助けをかりて版画やオブジェ等の複製品を作り始める。
1962年 パリの国立図書館で写真とレイヨグラムの個展。
1963年 3月、プリンストン大学美術館で個展。絵画、素描、レイヨグラフ、オブジェ、チェスセツト、本を展示。4月、自伝『セルフ・ホートレイト』をボストンのリトル・ブラウン社より刊行。コルデイエ&エクストローム画廊(ニューヨーク)で1950年以降の絵画、素描、水彩による個展。カタログにデュシャンは詩「ラ・ヴィ・アン・オーズ(大胆不敵な人生)」を寄せた。シュットガルト(西ドイツ)で1929年以降のレイヨグラムの展覧会。豪華限定版の『レイヨグラム』集を刊行。ミラノのアルトゥロー・シュワルツ画廊が失われたオブジェ『贈り物』の複製品を制作する。
1964年 3月、シュワルツ画廊(ミラノ)で『31の我が愛しのオブジェ』展。これはイタリアで最初の個展。5月、シュワルツの詩集「絶対的な現実」をデュシャンと共に飾る。
1965年 10月、コルデイエ&エクストローム画廊(ニューヨーク)で『我が愛しのオブジェ』展。
1966年 ロサンジェルスのカウンティー博物館で最大規模の回顧展。しかし、300点の出品作油彩、コラージュ、彫刻、オブシェ、のなかに写真は含めていない。カタログにテキスト『わたしはけっして近作を描かない』を発表。ジャンペティトリーが1938年のシュルレアリスム展の折に残された写真からオリジナル・プリントで限定版『マネキン』を出版。マルセル・ゼルブがエディション・マットの名前で『破壊されざるオブジェ』『ランプシェード』等を複数制作。
1967年 パリのアメリカン・センターで「マン・レイへの挨拶」展。短い講演を行う。
1968年 5月、バリは五月革命。10月、盟友デュシャン死去。その日、マン・レイ、デュシャン、ロペール・ルベルの3組の夫婦は揃って「陽気な不気味さ」の中で夕食を楽しんだ。『13のクリシュベール』を刊行。
1969年 4月、アルフォンス・シャーブ画廊(ヴェンス)で「非売品」と題した個展。ハーノーバー画廊(ロンドン)で個展。オブジェ『ペシャージュ』制作。
1970年 1月、コルデイエ&エクストローム画廊(ニューヨーク)で『女綱渡り芸人はその影を伴う』『天文台の時間──恋人達』『フェルー街』を集め「選ばれた油彩」と題した個展。ドンナ、キキ、ジュリエット等思い出深い女達のデツサンを彩色し版画集『時間の外にいる女達のバラード』を20世紀画廊より刊行。テキストはブルトンが1934年の写真集に寄せたものを再録。カリフォルニア時代に撮ったエロテックなポーズをする人形達のオリジナル写真を『ウッドマン夫妻』として限定版で刊行。フランス語バージョンの『大人のためのアルファベット』を刊行。パオロ・フォサッテのテキストを付けたオブジェのレゾネ『我が愛しのオブジェ』を刊行。
1971年 6月、シュワルツ画廊等ミラノの3会場を使って「マン・レイ──自由の60年」が開かれる。1912年から1971年までの作品220点。9月、ボイスマンス美術館(ロツテルダム)で初期から1971年までの作品278点を展示する大回顧展。カタログにテキスト『告示』を発表。同展はデンマーク、パリにも巡回。トリノのイル・フォーノ画廊とマルターノ画廊が共同で、見る角度によって眼が開いたり閉じたりする写真を振り子に留めたメトロノームで『永遠のモチーフ』を制作。
1972年 イル・ファノ画廊が旧作を3つのバージョンとして再制作。1937年刊行の素描集『自由な手』を基にした10点のブロンズ彫刻。ニューヨーク時代のダダ的な写真を纏め『ファースト・ステツプ・イン・1920』。『回転ドア』のシリーズをシルクスクリーンで再生。ピエール・ブルジャッドのインタビューに答え創造の秘密を明かし『おやすみマン・レイ』として出版。3月、カトル・ムーブマン画廊(パリ)で1921年から30年のレイヨグラムを中心にした個展。4月、ガレリア・リベーリア・ピクトグラム(ローマ)で1912年から1959年までの68点の作品を展示。
1973年 2月、ミルオーキーのアート・センターでアーノルド・H・クレインによる纏まった写真の展覧会。9月、南天子画廊(東京)で日本に於ける最初の個展。12月、ミュンヘンの市立美術館で開催された、デュシャン、ビカビア、マン・レイを中心とした「ニューヨーク・ダダ」展に参加し、企画者のアルトゥーロ・シュワルツのインタビューに応える。版画のカタログ・レゾネ『オペラ・グラフイカ』がイルフォーノ画廊によって刊行される。
1974年 4月、イルフォーノ画廊で写真の展覧会、同展はニューヨーク、パリにも巡回。イルフォーノ画廊が写真集『銀河』を刊行。12月、ニューヨーク文化センターがローランド・ペンローズとマリオ・アマヤの企画によって個展「マン・レイ──発明家、画家、詩人」展を開催。同展はロンドン現代美術研究所、ローマの陳列館にも巡回される。明暗法にとりつかれ影を主題としたデッサンの連作に熱中する。
1975年 トウルケット画廊(ナポリ)で個展。イオラス画廊(アテネ)で個展。ローランド・ペンローズが評伝「マン・レイ」をテムズ・アンド・ハドソン社から刊行。フェルー街のアトリエの写真とカルミーヌ・ベニカツサとロベルト・マリア・シエナのテキストによる「幸福の時間」刊行。5月、リー・ミラーがマリオ・アマヤのインタビユーに応え雑誌「アート・イン・アメリカ」でマン・レイとの思い出を語る。
1976年 7月、ヴェネツィア・ビエンナーレでヤヌス企画による回顧展。「写真による証言」展が開催される。11月18日昼頃、パリの自宅で死去。享年86歳。葬儀は内輪だけでひっそりと行われ、モンバルナス墓地第七区画に埋葬された。
1986年 未亡人となったジュリエットは、故人が「ダチョウの卵は自然界で最も完璧な形といって作った」オブジェ『平面卵』を墓石に選び、その表面に「のんきにしているけれど、無関心ではいられない」というエマニュエルの言葉を書き入れた。