秋田おばこのバレエシューズ

ときの忘れもの(東京・駒込)のブログに『秋田おばこと京おんな』と題して何必館で開催中のライカ使いの名手・木村伊兵衛の写真展について寄稿させていただいた(5月23日(日)迄)。

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 この展覧会は同館コレクションから50余点の大判サイン入りプリントを厳選して、5つのテーマ「戦前・戦後(写真の本道)、庶民の町(人間のふれあい)、秋田の民俗(現実の縮図)、日本列島(自分の仕事)、ポートレイト(手の表情)」に分け、わたしたちが失った昭和の時代を写真をとおして、見事に思い出させてくれている。

 

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祇園・権兵衛

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 わたしは、カメラ雑誌の月例コンテスト的写真とは別の道を歩んで、この歳となったので、木村写真の魅力には疎く、のら社から刊行された『木村伊兵衛写真集・パリ』(1974年)を古書店で入手するまでは、ノーマークの状態だった。それが、銭湯のお湯に濡れる日本女性の肌を捉えた写真と出会って、「女性写真」は素晴らしいと開眼させられた。マン・レイは肖像写真を撮る時に、女性はたやすく、男性は難しいと述べているが、木村は男性は最初の一瞬で決められる、女性はじっくり構え、最後にならないと良さが引き出せない、「時間がたつにつれて、だんだん色っぽくなってきますね。顔でもなんでもあぶらぎってきたり、上気してきたり、きれいになるんです。着物が多少くずれてきたり、シワがでてきたりね。そういうところが出てくるのに、相当時間がかかります」(『週刊朝日』1953年)と語っている。

 この歳になると、そんな写真を撮ってみたい。

 何必館での写真展を拝見したいと思ったのは、菅笠を被った美しい女性が、四条通に面して大きく掲げられていたからだった。それで、この人や撮影の様子などをいろいろ調べてみた。ときの忘れものでの拙稿に、反映したいとも思ったが割愛。それでも備忘録として「マン・レイと余白で」に記しておきたい。

 

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 操作性に優れた小型カメラの作例なので、スナップショットと早合点していたが、秋田美人は、田植えに従事する農家の娘さんではなくて、「おばこコンクール」で入賞した写真のモデルを務めた地元で評判の高校三年生、柴田洋子さん。審査員だった木村が頼んでモデルを依頼されたと云う。したがって、意図するイメージに仕立て上げられた「秋田おばこ」なのだが、美しい、美しい人だからしかたがない。ドアーノでもキャパでも、スナップとされながらのモデル疑惑の作例は多い。

 

 何必館の梶川芳友が紹介するように「『居合抜き』とも称され、出会い頭に『パチリ』であった」木村の写真のなかで、本作のコンタクトには28カットが残されている。顔の表情を追う木村のカメラの中で時をさかのぼり、女性が凛とした一瞬、山の頂へ登るように、しだいに被写体と通じ合い(19コマ)、決定的なひとコマが押された後、田んぼでの全身像に移っていく(8コマ)。名人・木村伊兵衛の鼓動が伝わるコンタクト28カットである。

 顔の表情だけなのに、スタイルの良さが現れ、知的な様子がかもしだされているのはどうしてだろう、モデルの人柄を知りたいと願うのは、当然ではないか。上段にリンクを貼った記事によると、彼女は7歳からバレエを習っていて、高校を卒業すると地元の子供たちに教えたと云う。1959年6月に開いた「柴田バレエ研究会」の挨拶文「やっと三才になりました」を読むと、彼女の慈愛にみちた信念の深みを知ることができる──「汗とほこりにまみれたバレエシューズが幾足もはきかえられて、私達の研究会もやっとかぞえ年三ツになりました」と文章もうまい。美人で賢く姿勢が良い、もう最高ではありませんか。

 リンクの情報によると「2010年に76歳で亡くなられた」その人生は、「けがをされてバレエをやめ、代議士秘書になって東京に」行かれた後、「日系米国人と結婚してロサンゼルスに渡り」「趣味で油絵を描き」「毎年桜の頃に大曲に帰省」された幸せな人生だったという。

 木村伊兵衛の撮った19歳の女性の表情、たたずまいに、昭和日本の良い戦後を教えていただいた訳である。