小説『アディ、黒い太陽』by ジゼル・ピノ

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Ady, soleil noir 22×14.6cm 304pp. Éditions Philippe Rey 2021.

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 リー・ミラーに捨てられた(?)痛手を、油彩『天文台の時刻に──恋人たち』を描く事で乗り切った頃、マン・レイは25歳も若い混血の踊り子アドリエンヌ(アディ)・フィドランと出会う。彼女はカリブ海のフランス領クアドループ島出身、裕福な家庭で育ったが1928年のハリケーンで母親を失い(13歳だった)、ついで父親も他界し、孤児となってパリに渡り、ジョセフィン・ベイカーのような成功を夢見、バル・コロニアル(植民地ホール)で踊り子になっていたと云う。二人は一目惚れだとも。

 著名な芸術家であるマン・レイは友人たちにアディを紹介し、南仏のムージャンで「性的にも知的にも比類のない時を過ごす」。マン・レイは油彩やデッサンに描き、写真を撮り、エリュアールは詩を寄せ、ピカソもまた油彩に描いた。彼女の「若く生き生きした様子」を、同じクアドループ島出身のジゼル・ピノが小説風伝記に仕立て「幸せな時間」として活写する。

 マン・レイの自伝や残された写真から、わたしもアディについては知っていたが伝記的な事柄の詳細は不明だった。それが、没後17年を経て「有色人種の切り捨てに関与してきた美術史」が、ブラック・ライブズ・マターなどの抗議運動と連動するかのように見直され、幾人かの研究者によってアディの物語が浮かび上がってきた。エリュアールの夫人ヌーシュと共に裸体をさらし、解放を求める若い女性たちの尖端となって「生まれつつある自由なモラル」を実現させたアディ。

 

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Harper's BAZAAR September 15th 1937

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 アディはアメリカの主要なファッション雑誌に登場した最初期のモデルと指摘されている。架蔵する雑誌の頁を広げるとマン・レイ撮影によるコンゴの頭飾りを被った白人女性が縦に三人並ぶ対向頁で、大きくアディが原始的な装身具を身に着け、頭には可愛い帽子、民族の特徴をそなえた顔で写し出されている。そして、テキストは「裸になることは、豪華な衣裳を着ることよりもはずかしくない」とポール・エリュアール。最後に詩人は「女性の帽子ほどインスピレーションと大胆さを要求するものはない、すべての頭が王冠を被る勇気を持つべきだ」と結ぶ。

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pp.106-107

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 アディもキキのように、幾つもの顔をマン・レイに示した。ハッとするほど知的なアディ、幼さの残る優しいアディ、そして、民族的なアディ。キキと付き合っていた時代と違い、写真から遠ざかっていたので、彼女をモデルにした代表作に恵まれなかった為か、アディ個人が追跡される事にはならなかった。もちろん、『自由な手』のデッサンシリーズや油彩に登場するが、そこから、生身のアディへの距離は遠かったと言わざる負えない。

 

 アディの物語は、いずれ日本語で出版されると思う(それほど重要でタイムリー)。その時まで、物語の詳細を知るのは難しい(フランス語です)が、ドイツ軍がパリを占領した為、帰国に追い込まれたマン・レイは、自伝(日本語版)の319頁で「土壇場になって彼女は家族と一緒にパリに残ると言い出した」と語る。アメリカの黒人ダンサーと付き合っていたアディは、南部の人種差別を恐れ、マン・レイに付いて海を渡る事をためらったのではないだろうかと云う。人の人生は複雑である、アディがパリに残ってくれたおかげで、マン・レイは作品を守ることが出来たのである。アディ旧蔵の品物が拙宅にあるものだから、不思議なリアリテイが、『アディ、黒い太陽』から立ち昇るのである。

 

 現在 Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の『マン・レイと女性たち』展では、彼女にひとつの章(Ⅱ-12)が当てられている。そこには日本でこれまでもよく紹介されている油彩『夢の笑い』(165番)や、前述したコンゴの頭飾りを着けた写真なども展示されている。尚、カタログ166番は、ハーパース・バザー誌掲載とは別バージョンである。