月がついてくるように

2017.10.31-11.5 at 同時代ギャラリー 夏池風冴個展

夏池風冴は1984静岡県の生まれ。個展会場の同時代ギャラリーがこの人の意識そのもののように設えられている。暗幕をすり抜けて入った壁面に映し出された風景(見間違えた風景だそうだけど)に風がそよいでいる。足元には銀色のオブジェ、映像を観るわたしを「石の作品」が仮託してくれて、微妙な距離感に居場所を与えてくれる。上手い、観せ方が上手いというだけではなくて、観せるモノにいたる意識のあり方が、幾層にも吟味され、自身の物語を作っている。力のある作家だと思う。

個別のまぼろし (映像作品4分50秒 ed.20)

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消失点の線(写真作品) 月がついてくるように(石の作品) 



 京都西山の物語を抜け、次室に移ると草原が拡がって、さらに驚いた。それで知的で美しい作者に話を聞いた。モンゴルの草原で取材されたそうだけど、地平線に歴史が刻印されている。前室の暗闇との見事な対比で、夢の中でのハレーションのようだ。写真を観ていて「月がついてくるように」と云う個展タイトルが理解できた。水平線だけがあるような杉本博司の作品とは異なる視点のあり方、歩いていって撮る、歩きながら撮る、どこまで歩いても風景が変わらない、消失点の中に自分が入ってしまうような、奇妙な感覚。足元の枯れ草が、まとわりつき、風にふかれて写真から転げ落ちて固まり、「石の作品」になったような、画廊の木の床からも繋がっているような、臨場感にあふれている。これは、夢の物語、幾通りもの読み方が可能な、開かれた読書、消失点に向かって歩く若さが羨ましい。以下に彼女のコメントを転記する。

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映像は私が京都の家の近くで見た見間違いをもとにしている。見間違いを辿ると、自分の一部と化した価値判断を作る歴史が見えてくる。
自分の属する文化様式やその景観とは異なる国、移動する人々、耕さない人々の土地であるモンゴルに行き、消失点と重なるほどに遠い地平線を見る。目線の高さの線は、当然ではあるが常に自分の目の先にある。
歴史と地平線は距離の測り方が違うけれど、遠すぎるものからは離れる事ができない。月がついてくるように。