ランバルディアンの写真

ランボー研究家を「ランバルディアン」と呼ぶと知った---鈴村和成の『ランボーとアフリカの8枚の写真』(河出書房新社、2008年刊)読了。巻頭に置かれたエチオピアの地図を参照しながらの通勤の友だった。これまで語り尽くされた「詩人」ランボーには近寄らなかったのだが、この本のテーマには興味ひかれた。19世紀末にフランスからアフリカまで写真器材を取り寄せ撮ったランボーの「セルフ・ポートレイト」、これを「私自身による私自身の写真」とことわっているあたりが気になる---『地獄の季節』や『イリュミナシオン』を性的に解釈し、アフリカ時代の書簡類に注目する作者のランボー感は、ページの余白を遊牧民と共に歩く気分で、楽しく読めた。ただ、ランボー論やランボー紀行として接するには申し分ないが、小説の部分、友人の妻に対する感情やセックスの描写には消化不良を感じた。夢と現実を扱う書物の構造を詳しく説明したくなるのは(後記--幻のアフリカ)作者の意図に無理があるのだろうな。


「あれも、あの騎馬像も、なかなかいい写真なんだが、なかなかいい写真なんて、いくらあったってしょうがないんだよ。これはそんなものじゃない。ランボーでなくては撮ることのできない"絶対の写真"なんだよ」(258頁)