哀悼 杉山茂太


杉山茂太氏 1971

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中部学生写真連盟高校の部で活躍された杉山茂太氏が2月21日(土)に亡くなられた(享年66)。近しい方の話しでは---しばらく前から体調のすぐれない訳については、よく理解されていたご様子だったが、それは御本人の内に秘め、穏やかに日々を過ごされていたところ、2月の初めから急激に弱られ「桜の花が咲くころまでは、話しができるよ」と言っておられたのにもかかわらず、旅発たれてしまったと言う。
  わたしが杉山氏から受けた影響については、『指先の写真集』(銀紙書房、2003年刊)で詳しく報告しているが、高校2年生の時に氏と出会う事がなかったら、今日の「マン・レイ狂い」は存在しなかったので、氏の訃報にせっして動揺している。晩年になってからは氏と交流する機会がかぎられてしまったので、名古屋時代の友人から、詳しいお別れの様子を聞いた。もう、わたしも、こうした別れをむかえる歳になってしまった。---お会いして、謝らねばならない事柄も沢山あったのにと、後悔している。「先輩、御免なさい」。


中部学生写真連盟高校の部機関誌 PHOTO OPINION No.1 (1967年2月発行) No.2 (1967年10月発行)

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機関誌No.1には、連盟顧問をされた山本悍右氏のエッセイ「高校生写真のこと ---技術は君たちにとって何か?---」と杉山茂太氏の「<写真の方法>を考えるために」が掲載されている。杉山氏は1965年度の連盟委員長を務め、当時は東京に引っ越しされた関係で明治学院付属高校3年に在学中だった。今、読み直しても写真表現の歴史を俯瞰しながら、作家や作品に焦点をあて、導入部から結語まで読者を引き込む文章のうまさが引き立っているように思う。機関誌No.1の表紙を撮影したのが高校3年生というのは、驚きだが、同号に書かれた「表紙の制作」の、連盟スタッフから急に表紙撮影を頼まれた杉山氏の生活の様子を転記しておきたい。---わたしは、氏のこうしたライフスタイルに憧れたのです。

 家に帰り翌日の撮影のために自室をスタジオに改装、2時になってやっとそれを終えラフ・スケッチを描き始めた。なかなか良いものができず、本をパラパラやったり、モダン・ジャズを聞いてみたりした、朝刊を配る音が聞える5時頃、<一般の白の階調の上のクリアーな白>があることに気がつき7時頃ラフ・スケッチを完成させた。
 機関誌No.2の表紙写真のモデルになったのは、杉山茂太氏だった(撮影: 川口公庸氏)、ネクタイピンに連盟バッチを使ったのは杉山氏のアイデアだったと思う。また、同号には「写真展のために」と題したエッセイをよせられている。


連盟現役とのミーテイング、1971 at 木野明宅

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杉山氏の愛車はホンダのS6クーペ、車の調子を気にされながらも、いつもご機嫌だった。氏は才能豊かな写真家であり、身の回りの事柄すべてに一家言を持っておられた。アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を教えられたのも、画廊へ出入りする糸口を与えてくれたのも、珈琲もジャズも、わたしのライフスタイルの総てが氏の影響のもとで出発した。昨夜、電話をくれた名古屋時代の別の友人は「Motaは石原の原点だから」と、はっきり指摘していた。---杉山茂太氏が作られた印画紙を貼り合わせた写真集『SUD』と『南への系譜』を、改めて拝見したい、そこに、わたしの青春が残されていると思うのだ。
「杉山茂太さん、有難うございました。」