ロサンジェルス・カウンティ美術館 1966年

愛しのマン・レイ展 出品: 258, 260, 259

 マン・レイ再評価の機運が熟したのは1960年代中頃。評伝を著したニール・ボルドウィンによると「マン・レイの回顧展がこれほどの規模で開かれるのは初めてて、準備には二年半を要した」(480頁)という。企画をしたジュルス・ラングスナーはニューヨーク生まれのカリフォルニア育ち、美術批評家、精神科医、『アート・ニュース』誌の作家。展覧会のために特別に雇われた学芸員。1966年10月25日〜1967年1月1日まで開催された展覧会には、写真を除く油彩、コラージュ、自然絵画、彫刻、オブジェ、素描、レイヨグラフ、チェスセット、書籍など凡そ300点が出品された。
 マン・レイは会期中に館内の講堂で行われた講演で、

 わたしはこれまでこれほど沢山の聴衆にあったことはありません。しかし、人数によって左右されないと云うわたしの原則には変わりありません。ただお一人とだけ話ているように、お話いたします。…… この年になって気付いたものは、言葉を伴うことなく公開された芸術作品と云うのは皆無という事でした。新聞紙面では最もつまらない写真にさえ説明文が付いています。絵画だけでは話が出来ないのです。わたしたちは言葉を必要とし、これは、とても重要な事です。それで、わたしは実感し、描く時には同じように発言することに同意したのです」(『眠り姫物語』筆者編「マン・レイによるマン・レイ」銀紙書房 2019年 51−52頁)

と発言している。小生も「トーク・トセッション」をひかえているので引用させていただいた。尚、上掲した雑誌『カリフォルニア・リビング』の表紙に写る女性は美術館の学芸員。また、下掲のカタログ中扉にシュルレアリストのジュゼ・ピエール宛のマン・レイのサインが認められる。ジョゼは1952年〜69年までシュルレアリスム運動に参加した批評家、美術史家で『エロス展』(59年)や『絶対の隔離展』(65年)の活躍で知られる。筆者はジョゼへの献辞が入ったカタログを見付けた時、71歳でパリで亡くなった(1999年4月)氏の美術コレクションが、2011年に「劣悪な状態で分散した」という記事を読んでいたので複雑な感情を持った。

* 会場撮影は関係者の許可をいただきました。感謝申し上げます。