『マン・レイ 紙の上の魔術師、そして、オブジェの魔術』展 at イエズス会美術館

渋谷・Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中(9月6日迄)の『マン・レイと女性たち』展の、欧州側の監修者マリオン・メイエさんのサイトを見ていたら、ドイツの展覧会にも協力されているとあったので、展覧会のカタログを取り寄せた(7月30日着)。

 

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21.5×15.5cm 160pp. Edition KERBER

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 展覧会は7月3日(土)〜10月24日(日)の会期で、フランクフルト アム・マインの南東部にある人口約7万人の小さな町アシャッフェンブルクで催されている。会場は旧礼拝堂。カタログリストによれば154点の出品でマリオン・メイエは50点以上を提供、他にハンブルグのレビー画廊17点と匿名の貸出先などのものから構成されている。
 写真プリントの詳細については不明であるが、素描も多く展示され、オブジェの確認も必要かと思った。カタログで1958年に描かれた個人蔵の油彩絵柄と、昔、オークション・カタログで入札を検討するもパスした紙の作品『ハープの灯台』がレビュー画廊のコレクションとなっているのを知った。凡夫は作品の動向が気になるんですな。

 

 展覧会ではレイヨグラフに焦点が与えられているようだが、「あらゆるメディアで活躍した魔術師」として、広範囲な作例を使い「印象的なアイデア、再構築され増幅された偶然性、遊び心あふれるコンセプト」を紹介している。そして、テキストには「生涯にわたって目指したのは、唯一無二の作品を、ありふれた大量生産の素材を使ったレプリカで再現することであった」との指摘。このあたりは、別の機会に言及したい。


 展示準備の様子がFBにあがり、楽しく会場を想像していたところ、7月中旬にドイツ西部は大規模な水害に見舞われたと報道された。彼の地は遠く離れていると思うが心配している。

 

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FBの投稿から引用

『スポーツのある風景』by Elliott Erwitt

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14.8×21cm 4pp. at Leica Gallery Kyoto 2021.6.2(Wed.)〜8.26(Thu.) 11:00-19:00

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イカギャラリー京都で良い時代の眼差しを拝見。

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ロシア、1957年 10月革命40周年祈念

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 2021年の東京オリンピックが終わりました。金27,銀14、銅17の好成績。今回は平均台の新しい技に見とれましたな。柔道もルールが変更になり攻撃的で良かった。ビールグビグビのテレビ観戦を楽しみましたが、ほとんどの会場で無観客開催。新競技での10代の活躍、強化策が実った種目の一方で前評判の高い競技やゴタゴタが続いた種目ではメダルが取れません。旧体制がはびこる既得権益にまみれたものは、いけませんな。

 

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東京、1977年

ブリキの箱根登山鉄道

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Mご夫妻からHOゲージの組立式鉄道模型を頂戴した。ブリキ製の本格仕様で箱根登山鉄道、箱根湯本〜強羅開通80周年記念の品と云う。わたくし18歳の春に撮影旅行をして、模型の現車108号を写真におさめておりました。紫陽花電車とも称される同線を再訪し、温泉で一杯と思っておりましたが、2019年10月の台風19号による大被害で約9ヶ月運転を見合わせることになった同線がやっと回復したところ、拙宅に模型となって到着した訳です。Mさんありがとうございます。

 昔からHOの鉄道模型欲しかったのであります。線路の図面はよく書いておりました。

 

 

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 部品も多く、ツメが固くて大変な作業、初体験ですな。説明書には「プライヤーではさんでねじっても可」と書いてあります。その通り、これで、手が痛くて車体が変形しそうなのが解決。 パンタグラフには手こずりました。

 

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  箱根登山鉄道108号は、1927年電装品をスイス、ブラン・ボベリー社、木造車体を日本車両製造で製造する両運転台車のチキ2形が原型。その後、走行系機器と新製車体を組み合わせ改造、モハ108号は1956年に鋼製車体となっている。同線での塗装は2000系登場までは歴代小田急ロマンスカーと同じであったが、模型となった塗装は、昭和初期の登場に準ずる。以下の写真は1970年4月9日のパチリ

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ザッハトルテ by 菓子職人

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「 アーモンドプードルをたっぷり使った口どけのよいチョコケーキです。」税込み400円。店のブログによると、菓子職人は1983年創業、90年代後半から百貨店などに出品、08年頃には糖質OFFスィーツの開発を行った人気店。そして、オーナーの還暦前(17年)には百貨店から全面撤退し本店1店舗とオンライン販売のみに限定し、商品の品質向上、季節商品、新製品など従来路線をさらにアップさせ顧客満足に答えている。ケーキの大きさも小ぶりでシニア世代にもありがたい。美味しおすえ。

小説『アディ、黒い太陽』by ジゼル・ピノ

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Ady, soleil noir 22×14.6cm 304pp. Éditions Philippe Rey 2021.

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 リー・ミラーに捨てられた(?)痛手を、油彩『天文台の時刻に──恋人たち』を描く事で乗り切った頃、マン・レイは25歳も若い混血の踊り子アドリエンヌ(アディ)・フィドランと出会う。彼女はカリブ海のフランス領クアドループ島出身、裕福な家庭で育ったが1928年のハリケーンで母親を失い(13歳だった)、ついで父親も他界し、孤児となってパリに渡り、ジョセフィン・ベイカーのような成功を夢見、バル・コロニアル(植民地ホール)で踊り子になっていたと云う。二人は一目惚れだとも。

 著名な芸術家であるマン・レイは友人たちにアディを紹介し、南仏のムージャンで「性的にも知的にも比類のない時を過ごす」。マン・レイは油彩やデッサンに描き、写真を撮り、エリュアールは詩を寄せ、ピカソもまた油彩に描いた。彼女の「若く生き生きした様子」を、同じクアドループ島出身のジゼル・ピノが小説風伝記に仕立て「幸せな時間」として活写する。

 マン・レイの自伝や残された写真から、わたしもアディについては知っていたが伝記的な事柄の詳細は不明だった。それが、没後17年を経て「有色人種の切り捨てに関与してきた美術史」が、ブラック・ライブズ・マターなどの抗議運動と連動するかのように見直され、幾人かの研究者によってアディの物語が浮かび上がってきた。エリュアールの夫人ヌーシュと共に裸体をさらし、解放を求める若い女性たちの尖端となって「生まれつつある自由なモラル」を実現させたアディ。

 

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Harper's BAZAAR September 15th 1937

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 アディはアメリカの主要なファッション雑誌に登場した最初期のモデルと指摘されている。架蔵する雑誌の頁を広げるとマン・レイ撮影によるコンゴの頭飾りを被った白人女性が縦に三人並ぶ対向頁で、大きくアディが原始的な装身具を身に着け、頭には可愛い帽子、民族の特徴をそなえた顔で写し出されている。そして、テキストは「裸になることは、豪華な衣裳を着ることよりもはずかしくない」とポール・エリュアール。最後に詩人は「女性の帽子ほどインスピレーションと大胆さを要求するものはない、すべての頭が王冠を被る勇気を持つべきだ」と結ぶ。

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pp.106-107

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 アディもキキのように、幾つもの顔をマン・レイに示した。ハッとするほど知的なアディ、幼さの残る優しいアディ、そして、民族的なアディ。キキと付き合っていた時代と違い、写真から遠ざかっていたので、彼女をモデルにした代表作に恵まれなかった為か、アディ個人が追跡される事にはならなかった。もちろん、『自由な手』のデッサンシリーズや油彩に登場するが、そこから、生身のアディへの距離は遠かったと言わざる負えない。

 

 アディの物語は、いずれ日本語で出版されると思う(それほど重要でタイムリー)。その時まで、物語の詳細を知るのは難しい(フランス語です)が、ドイツ軍がパリを占領した為、帰国に追い込まれたマン・レイは、自伝(日本語版)の319頁で「土壇場になって彼女は家族と一緒にパリに残ると言い出した」と語る。アメリカの黒人ダンサーと付き合っていたアディは、南部の人種差別を恐れ、マン・レイに付いて海を渡る事をためらったのではないだろうかと云う。人の人生は複雑である、アディがパリに残ってくれたおかげで、マン・レイは作品を守ることが出来たのである。アディ旧蔵の品物が拙宅にあるものだから、不思議なリアリテイが、『アディ、黒い太陽』から立ち昇るのである。

 

 現在 Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中の『マン・レイと女性たち』展では、彼女にひとつの章(Ⅱ-12)が当てられている。そこには日本でこれまでもよく紹介されている油彩『夢の笑い』(165番)や、前述したコンゴの頭飾りを着けた写真なども展示されている。尚、カタログ166番は、ハーパース・バザー誌掲載とは別バージョンである。

スパークリング

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オリンピックでテレビ応援をしながら、ナッツとチーズとラザニア、冷房を効かせてスパークリング。良い塩梅ですな。拙宅の壁面、国立国際美術館での『ルーカス・クラーナハ』展のチラシが落ち着きます。外は酷暑の京都で現実は汗まみれ。昼呑みはよろしおすな。前半は松本薫さんの人形を使った技の解説、一昨日は体操女子ゆかの村上茉愛さんに惚れ惚れ、そして、1500メートル予選で転倒するもごぼう抜きで一着通過したシファン・ハッサン(午後の5000メートルで優勝とは、驚異的)、お母さんになって戻ってきたアリソン・フェリックス。陸上の美しいアスリートたちの活躍に元気をもらう毎日、感謝です。

 

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スペインから所要20日

物流が改善されてきた印象、海外からマン・レイ資料を取り寄せる。今回はスペイン北部ビスケー湾に面したサンタンデール7月1日投函、4日マドリードから日本へ。17日神奈川着、18日通関を経て発送、20日京都で受領。ソラリゼしたマン・レイの自写像片面刷り、年記がわかりにくいのでルーペで判読、これは1983年ですな。

 

f:id:manrayist:20210720151232j:plainカルデナル・シスネロス通り 前方にアシジ聖フランシスコ教会 画面右端にカルメンアロンソ書店。  画像はグーグルより引用。

 

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マン・レイエフェメラ有りまっせ。

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マン・レイ写真展 開会式案内状 1983年12月20日
セルビア、ファン・アイスブル画廊

 

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22.3 × 16cm

 

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セビリア、カナレハス通り10番地    画像はグーグルから引用。

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 グーグルでスペイン南部のセビリアにあった画廊の住所から現在の様子を拝見。右側の建物と推測される。ここは、アンダルシアの現代美術を牽引した伝説の画廊で、開設は1970年。画廊主のファン・ドミンゲスは1933年生まれのスペインの芸術家、現代美術収集家。 マドリードに画廊を展開したのは1983年(後にセビリアの画廊は移転)と聞く。

京都市電5系統

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1970年代中頃に河原町通りの四条河原町新京極電停からパチリしたのだろうか。当時の京都市電5系統は「京都駅前-塩小路高倉-洛北高校前-烏丸車庫前-千本北大路-四条大宮-九条大宮」を結んだ、路線廃止が進行したタイミングなので「烏丸車庫前-金閣寺道-西大路四条」と短縮していた可能性もある。これだと小生も通勤などで乗っていたかもしれない。残念ながら京都市電は1978年に全廃。

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 1924号(1900形)。同車は1955年に製造された900形からの改造で1970年製造、京都市電が全廃された後、広島電鉄に譲渡(車番1908号)された。現在も京都カラーで活躍中と聞く。

 

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 45年程度が経ち通りの雰囲気は様変わり。施設は撤去され河原町通りの御洒落感は地盤沈下、店舗は写真でのみ残されるありさまとなった。角地の化粧品を扱うKANEBOはコトクロス阪急河原町に建て変わって、阪急ビルは建物はあるものの京都マルイからエディオンへ転身(まだ、探索しておりませんが)。 

あんころ by 仙太郎

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 あんこは美味しおす。仙太郎さんの摺物に土用入の日(今年は20日)に餅を搗いて食すと「暑気あたりを免れる」とある。ビールの飲み過ぎで胃が疲れていますかな(今年は違う キッパリ)。「搗いた餅でなければ力はつかない」そうで 医食同源。「あんの上に餅を転ばせたから『あんころばし』と称した」とか「後に『あんころ』」。明日から8月、元気に乗り切って行きましょう。わたしはこしあんが好きえ---(ハハ)


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あんころ

 

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EXPOSITION MAN RAY

 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで7月13日から始まった『マン・レイと女性たち』展(9月6日迄)は、コロナ禍対策に影響され[全日程日時予約制]で行われている。株式会社OHANA内に設けられた広報事務局の頑張りで、ファッション系、イベント系を中心に雑誌やSNSでの露出度は高い。移動を自粛する者には意味がないけど、前売入場券、株主優待券のネットオークション出品も多く、イベント仕掛人の戦略をあれこれ推測してしまった。わたしとしては、インスタグラムなどで会場展示の様子を拝見するのが、せめてもの参加方式。昨今注目されるバーチャル・ツァーがあればと思う。内覧会などでの会場パチリをSNSにアップされているのは『美術の窓』『月刊アートコレクターズ』『美術手帖』『OBIKAKE 公式(美術館情報サイト)』『美術展ナビ』『ぴあ』『BAYCREW'S STORE』等や個人の発信者の方々。展示構成、作品とカタログの精査など気になる事柄が多く、ホント、東京に出掛けられないのが癪に障る。コロナ退散を願う。

 

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24.6 × 15.5cm 片面刷

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 そんな、わたしの嘆きに同情してくれたのか、東京の友人が展覧会のアイテムをいろいろ送ってくれた(深謝)。そうした中で琴線にふれたのは、上に掲げた片面刷りの封筒。白いチープな封筒にゴム印かと間違えそうな印刷。「EXPOSITION MAN RAY DU 13 JUIL. AU 6 SEPT. 2021」とは、嬉しいではありませんか。会場売店でグッズを入れる袋との事。嬉しいですね。過剰な物販戦略に一時のそよ風と思いませんか。
 さらに、会場で購入されたカタログに挟み込むこまれた「正誤表」。京都の書店で確認したが、平凡社から一般書籍として販売されたものには、入っていなかった。--- と思うので、参考までに画像をあげておく。

 

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10.6 × 9.8cm 片面刷 

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 さて、半世紀の間マン・レイを追いかけてきた者として、今回の展覧会について報告するのは、使命であるように思う。いずれ、巡回するどこかの会場で実見し纏め発表する予定にしているが、現時点では巌谷國士氏によるカタログを拝読した感想などをメモしておきたい。

 巌谷氏とマリオン・メイエ氏が2004年に監修し全国5会場を巡回させた『マン・レイ展 「わたしは謎だ。」』が、マン・レイの若い友人故ロザリンド・ジェイコブス所蔵の油彩や写真の重要作『アングルのヴァイオリン』などを招来させ、故宮脇愛子蔵のカラー写真『天文台の時刻に── 恋人たち』で迎える充実した内容だったので、今回はどんな作品が招来されるかと、期待したのだった。そして、カタログの頁を開いた。図版を見た。あれあれ、と思うものが多い。正誤表に記した以外にも逆版が含まれているようだ。友人が同封してくれた260アイテム枝番調整後265からなる展示リスト(マン・レイ以外の作者等42)を、前回2004年と見比べると初来日は極めて少ない(凡そ105点のイメージが再来日)。写真などはメイエ氏による別の展覧会でも見ているから、わたしが未見であるのは、どれかと記憶を遡る(写真集などに掲載されているからね)。おそらく178番『ジュリエット・ブラウナー』鉛筆・紙、181番『イーゼル絵画』インク、木炭、紙、191番『花-女性』インク、紙の3点だろうか。

 

 SNSの書き込みから展覧会でマン・レイの作品に親しまれた方々の感想を知る。20代までに出会い、眼が記憶したマン・レイが、心に住み着く。10年単位と考えて良いかと思うが、どの時点でどんな展覧会と出会うか、これが重要で今回の展示で知った若い人たちにとってのマン・レイって、どんな人なんだろうか。巌谷氏の解説でも「彼女たちと対等に接していた」良い人と云う論調が前面に出ている気がする。これは建前主義ですな。17年が経過してマン・レイが商業主義に取り込まれた感を強くする。 

 

 展覧会に行かれた方に教えてもらいたい。── カタログの作品リスト(256-267頁)に、「後刷のプリントには、マン・レイによるヴィンテージ・プリントのほか、1951年から現像技術師として仕えたセルジェ・ベギュイエによるもの、1970年代の制作活動を支えたビエール・ガスマン、写真集や展覧会図録の制作を手伝った出版者たちによるものがある」(256頁)と書かれているのだが、これ分かりにくい(特に赤字で示した部分)。1976年にマン・レイが亡くなった後にプリントされた写真の扱いが不明なのです。もう、オリジナルネガの概念は無いですな。ヴインテージ・プリントを複写してカタログや写真集に使用される近年の事例を考慮すると、「後刷」と記載するのはインクジェットプリントのことだろうか。わたしの世代では「後焼」とは呼んだけど「後刷」なんて、誰も言わなかったと記憶する。イメージ上に残るマン・レイのサインに、違和感を持つのよね。

 インクジェットと銀塩プリントの違い、眼がチカチカする違和感を、若い人たちの視覚もキャッチ出来るのか。Bunkamura ザ・ミュージアムでの展示を拝見していないので憶測としても、画素数の増大、プリント技術の進歩、数年前の「チカチカ感」が技術の進歩によって隠され、加えて老眼の進行で万事休す。写真の価格だけが高騰しますな。展覧会や出版用のプリントは拙宅に沢山あります。これを展覧会に出品する日が来たのかしら----  

あちらからの国際郵便

 6月6日の本ブログで「輸入取止め・国際郵便」と題しパリに送ったカタログの受難について報告したところ、多くの方々の検索キーワードに当たったようです。不運の対処方法がEMSなのか、「あきらめないで、到着を待つ」なのか、運次第なのか、わからないのが困りもの。あのお国は自由主義ですからね。このブログ情報がみなさまへの援護射撃になっていれば、嬉しく思います。

 

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 さて、ここでは「あちらから荷物を送ってもらう時はどうでしょう」について、報告します。── 6月8日に郵便局へ持ち込まれた荷物は「国際eパケットライト」扱い。15日に川崎東郵便局 第一国際郵便部に到着した後、通関を済ませ17日京都送り、18日受領。さて、ビニール袋に入った荷物を観て驚きました。貼り付けたメモには以下の文言「この郵便物は、外装が破損したものを差出国で補修した状態で当局に到着しました。お客さまの大切な郵便物をこのような状態でお送りいたしますことを深くお詫び申し上げます」
 ダメージに怯えつつ取り出した荷物は、1991年にパリで催されたマン・レイ展のプレス資料。ファイルにシート15枚と1981年のマン・レイリーフレットが収められている。ダメージが内側まで達していなかったので、良かった。

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30.5×22cm GALERIE THORIGNY ・ MAN RAY