「宇宙御絵図」展

 8時前に家を出て豊田市へ向かった。

これで「うちゅうみえず」と読む。豊田市美術館で開催中(9月24日迄)のこの展覧会は不思議だ。2004年に「イン・ベッド」展を観て感じた事の続きと云うか、やはり考えさせてくれる空間となっていた。この展示の前では、同時開催のエルンストやタンギーやダリやマッソン等の一級品を並べた「シュルレアリスムと美術」展(注)が過去の物といった印象になった。なぜだろう、ニューヨーク近代美術館コレクションの記念碑的大作「女、老人と花」(エルンスト)を、古く感じてしまったのだ。

 宇宙御絵図の企画者は展覧会のタイトルには「マクロへもミクロへも、あるいは過去へも未来へも果てしなくイメージされる<見えない世界>への思いが込められてます」と展示の最初に書いている。展示室1のしつらえからして尋常ではなかった。天井近くに掛けられた額の中の文字、最初「この七つの文字」かと思ったけど、わたしのギャラリー・スコープでは解読できない。そもそも読ませたいと思ったのだろうか、言葉として理解することの間違いに直ぐ気が付いた。宇宙に出て行く光景だね、その時間が河原温の中にあるのかな、でも怖い感じ。佐倉密の「あたたかい手」と出会ってホットした。この作家のユーモアには孤独と悲しみがある、玩具で止まらず芸術となっているのは、悲しみのせいだろうな。マン・レイも同じだが無国籍者の孤独かな、作品が動いていくのよね。

 回廊風の展示空間が第一室を俯瞰する位置で広がる。そこには双眼鏡が置いてあって、覗いて見るわけ。視覚だけの世界に吸い込まれると、飛び出し落下しそうだ。作品を探しメッセージを受信せよと云う企画者の指示の下に赤く書き込まれた「* 注意 たいへん危険ですので、身を乗り出さないでください」がリアリティがあって面白い。

 旅行は出発点に戻るものだし、スタートレック風の空間感覚は遊園地風のはずだが、観ることに疑問を持たなくなったわたし達は、見ないことと見えないことの間、宇宙の果てが後頭部に迫ると云うレトリックを抱え込んでしまっている。だから、悲しい展示なんだよね。不安感が身体を包んでいくのだよね。

 野村仁、北山善夫、松澤宥と共振している。

 この夜は、名古屋港の花火大会なので楽しみにして帰名したのだが、曇天で音はすれども姿は見えない状態だった。そこにあるのに、見えない事が、生活の場で具体的に現れていた。

(注)宇都宮美術館からスタートし、豊田市美では9月17日迄、その後、横浜美術館に移動し9月29日から12月9日まで開催される。国内収集品をメインにしているが、海外からも重要作がやって来ている。マックス・エルンストルネ・マグリットイヴ・タンギーが特に充実しているように思われた。およそ130点の展示、マン・レイに関してはオブジェと写真の国内所蔵品の展示だった。