狩野永徳初回顧展

manrayist2007-10-27

 予定より遅れて京都国立博物館へ。正門に20分待ちとあったが1時間以上並んで会場へ。狩野永徳の初回顧展は美術ファンが全国から参集して盛況に開催されている。いつものように会場を一巡(唐獅子図屏風の位置を確認)したのち1号室右手の「琴棋書画図襖」から鑑賞。ゆっくり近づいて細密ぶりを楽しむ、巧い。のっぺりとした日本画ではなくて量感がある。わたしには画題との親密性がないので理解に無理があり、眼と脳が微妙にずれる。しかし、反対側のケースに入っている紙本墨画「花鳥図襖」にうなった。左から3面に描かれた鶴。嘴から頭部にかけての生気がすごい。そして立体感。丸い実体があるんだよね。鶴の左足の爪がぼかされているけど、こいつが臨場感、精気のみなもとだね。水と空気の国に、西洋画の知性、遠近法が降り立ったような感じがする。視線を右に進んでいくと梅の老木。幹の下段に小さな文字(眼をこらすが読み取ることが出来ない)。聚光院方丈の空間、柱や天井、庭と光の入り具合を予測しないと永徳の個性、狙いについては判らないな、北東面の角で空間がどう影響するのか、前述の鶴の面は直ぐ左側が柱だったはずで、近づいてフラットで観ている細密が、きっと躍動感あふれる全体構成へとつながっていくのだろうね。この「花鳥図襖」の圧倒的な力によって展覧会は格調高いものになっている訳だが、祖父や父、一問の描き手達の絵図の緩やかさは、ぎこちなさが顔を出していて、楽しめない部分が多い、ぼてっとした鴨や必然性のない孔雀の尾羽根に、緊張感の空白を見てしまった。

 この特別展の目玉は、「洛中洛外図屏風」だが、観客の動線が二つ用意されていた。「最前列観覧 希望者」の表示板をもった係員が3号室の辺りまで誘導している。当然、わたしも並んだが、観るまでに30分以上並ぶ事となった。右隻から、地図でもあるので位置関係から細部に眼は至る。祇園祭の神輿や山鉾巡行列。鶏鉾の竹真木のしなり具合なんて、風があって良いな。その先を行くのは函谷鉾だろうか、蟷螂山を見つけ「あるある、ここに」と微笑ましい。同じ顔は描かないぞといった気迫のみなぎる細密さ、ギャラリースコープで見ていくと、博物館の展示ケースの中であっても440年は時空を遡る。天下人がこの屏風を背にして交わした話題とは---。
 次いで6号室に入ると大徳寺蔵の「織田信長像」。様式化された脇差が素敵だ、遺像の表情には諸説あるが、神経質な面を多く感じた。でも、こんな背景色って他にあったかな。

 じっくり鑑賞して館内を巡ったので、眼の緊張が途切れてしまい、以後の金碧障屏画は流して観る結果となった。金箔、濃彩は装飾すぎてわたしには合わない。眼の喜び、筆先の楽しみとは別の、光輝く背景物、天下人の衣装のようなものなんだ。それで「唐獅子図屏風」も迫力はあるが紋切り型すぎると感じる、神社の奉納画だよな。会場を一巡した最初の印象を修正することになったのは、どうしてだろう、対面に置かれた奇々怪々の「檜図屏風」のすさまじさに感動させられたからなんだろうな。

 
 途中、食事に出たが、博物館滞在6時間となった。常設の階段から見ると西の空があかね色で素晴らしく、正門からブラブラと宮川町の辺りまで歩きながら、感動したのが国宝や旧御物ばかりだったのはイヤだなと思った。でも、永徳はぬきんでた天才、平凡な画工達の指先には、生活や体温がチョロチョロしている。緊張感の持続はある種の狂気だな。

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 メタボ気味のコレクター氏と美形のギャラリストと待ち合わせ夕食。赤ワインに焼き鳥、永徳の話も含め楽しい時間を過ごした。「直線で2年、円で3年の修行」「基礎をしっかりやらなくちゃいけない、直ぐに判るのよ」「シュルレアリスムの画家は素人で」「エルンストの画法は素朴な面があるけど、プロのやり方だよね」などと