ワシントン・ナショナルギャラリー展


京都市美術館
秋晴れの三連休初日。家人と連れだって京都市美術館へ行った。長蛇の列にたじろいだが「フェルメールからのラブレター展」(10月16日迄)に並ぶ人達(40分待ちとか)だったので、ホッ。予定した「ワシントン・ナショナルギャラリー展」(11月27日迄)の方は、そのまま入場。会場の観客は多いもののなんとか我慢できる状態だった。単純な感想だけどコローやドービニーといった19世紀の風景画は眼に優しく遠近法の魔法にかけられるのは幸せ。マネは写真だね、それまでにはなかった視点が、写真の登場によって後に開花したのだろうな、画家の関心、個人の関心の時代が20世紀に向かって開かれていく気分。いつも思うけど印象派の絵画は光と風からなっている、モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」や「ヴェトゥイュの画家の庭」「太鼓橋」なんて、その典型作で、斜めからの光が画布に止められているのはすごい、そんな眼で見るとルノワールの「ポン・ヌフ、パリ」は光が当たって繊維が膨らんだ感じだ、石造りの街であるのにね。今展のみどころは「ポスト印象派以降」としたセザンヌの部屋(6点)だろうか。彼の初期肖像画を初めて観た訳で、暗い色づかいとパレットナイフによる荒々しさが、ちょっとすごい。そして、初来日の「赤いチョッキの少年」はキュビズムへの道を思わせる。最後の部屋にあるゴッホの「プロヴァンスの農園」など熱い光が固まっているみたいで、土地と結びついた絵画。初来日の「自画像」にはくるくると視線が回って釘付けにされるが、近代の失われた自我といった恐れを感じた。今展では再会した名作も多く、懐かしい気分になって楽しめた---絵画は網膜の喜びだな。京都市美術館1階の半分のスペースに83点(出品目録による)、壁を隔ててフェルメールの3点が掛けられていると云うのも不思議な感覚である。展覧会をハシゴするファンも多いだろうな。

買い求めた絵葉書はセザンヌの3枚。左--「「レヴェヌマン」紙を読む画家の父」1866年、右「赤いチョッキの少年」1888-1890年

「水浴の男たち」(カラー・リトグラフ)1897年

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美術館から白川に沿って枡富へ、気持ちのよい空気と水の流れをブラブラ、座敷に上がって「鴨せいろ」を頼み、地酒・金瓢を冷やで一合。食後、家人が隣りの祇園饅頭・工場で栗饅頭としんこ(2種)を求める---眼の喜びの後は喉と胃袋の楽しみをしなくては。古川町商店街から新門前を抜け祇園何必館・京都現代美術館に回ってエリオット・アーウィット展を観覧。ユーモアの写真家と思ったが、どうしてジャーナリストだ。カンボジアの海なんて素晴らしい、写真の魅力に開眼した気分。四条通りを渡ると祇園街の綺麗どころとすれ違う、粋な着物姿だ。百貨店で買い物をし帰宅すると日本年金機構から書類が届いていた---還暦とは恐ろしい。


三條通り白川西詰上がる、手前に祇園饅頭・工場、左に蕎麦処枡富、道の突き当たりにはギャラリー16。

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何必館5階の「光庭」に連なる壁面には、エリオットが捉えた館長梶川芳友の肖像(2008年5月)が掛けられている。

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今日は四条大橋から右手の東華菜館をパチリ、逆光が強く汗ばむ午後だった。