ノン=オイディプスの戦略

マン・レイの対談を銀紙書房と共同出版した東京の水声社が、刊行を続ける「シュルレアリスムの25時」シリーズは、よくぞ日本でというか、日本ならばこそというか、シュルレアリスムに関心を寄せる者にとっての画期的な企画である。全10巻のうちの初回配本の一冊が鈴木雅雄による「ゲラシム・ルカ---ノン=オイディプスの戦略」(2009年12月刊、256頁、本体価格2500円)だった。その「あとがき」で鈴木は「この書物の目的はあくまで、ゲラシム・ルカという明晰かつ痙攣的な精神が、いかにしてシュルレアリスムと出会い、いかにしてそれを生きなおし作り変えたかを記述することである。」(247-248頁)と述べている。図版での補足説明もありキュボマニーと云う手法についての概略も知ることができた(感謝)。

阪急電車西院駅に現れた不思議な書物

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気になったところを引き写してみた:

 こんなふうに考えてみてはどうだろう。シュルレアリスムとはもともと雑多な誘惑の集合にすぎないのだと。(18頁)
 彼らはブルトンと同世代のシュルレアリストたちよりずっと無防備に、客観的偶然といういささか危険な理論の誘惑を受け入れたのであり、またその無防備さゆえに、それを自らの想像世界のあり方に合わせて作り変えることができたのかもしれない。21頁モダニズムに疑念を抱きつつ、しかし後戻りもできないと感じるようなものたちのための受け皿としてシュルレアリスムが機能する事態が、そこにはたしかに存在したはずだ。(28頁)
 たとえばマン・レイといった、全体が一つのまとまりをなすことが一見して明らかな命名ではなく、姓と名のように取れる文字列でもありながら、近くから見るならばそのような分節化を受け入れず、しかし全体を一つの姓として受け取るのも何か不自然であるといったあり方自体が、望まれたものであろうか。(35頁)
 「ユダヤ異邦人」と称したゲラシム・ルカにおいて、ユダヤ性という問題が一定の存在感を持っていたことは、皮肉な事実というよりは、複雑な回路を前提としなかせらも、必然的な成り行きだったのかもしれない。(38頁)
 テクストを「作品」の匿名的な空間に放置するのではなく、特定の誰かに差し向ける身振りは彼にとって本質的なものであり、この態度の延長上に「客観的に贈与されたオブジェ」の発明も位置づけられるに違いない。(42-43頁)
 愛するとは、あれやそれでなくこれを愛することである以上、なぜこれなのか、これであることにはいかなる必然性があるのかという問いが生まれるのは避けがたいからだ。(75頁)
 おそらくシュルレアリスムには本質的に、強い力を持って迫ってくる思想(たとえばフロイトヘーゲル)に対し、追随するのでも否定するのでもなく、過度に反復することでそれを作り変えてしまうという身振りが備わっている。(80頁)
 道端やゴミ捨て場で、海辺や蚤の市で見つけた事物、あるいは手元にあった日用品を組み合わせて(場合によってはほとんど手を加えずに)「オブジェ」として提出する行為は、たしかに自らの欲望を認識することにつながるかもしれないが、その認識は「自慰」によるものだとゲラシム・ルカはいう。人はそこに、もともと見つけ出したかったものを見つけ出すにすぎない。だがもしそのオブジェを、特定の誰かに贈与しようという意識を持ちながら制作するなら、贈与する相手に対して作り手が抱いている愛情や敵意が、宛先のないオブジェを作っていたときには考えもしなかった事物に注目させ、そのことが多くの驚異的な出来事、つまりは客観的偶然を生み出すというのである。出来事がやって来て意味づけを与えてくれるのを受動的に待つだけのオブジェではなく、どんな出来事にも反応できるような意味の網の目を張りめぐらし、いわば出来事を召喚するようなオブジェ。たしかにそりはゲラシム・ルカがいうように、「自慰」でなく「持続的勃起」を実現するのかもしれない。(94頁)
 スフィンクスオイディプス、それは問いかけと答えである。答えは悲壮な叫びとなり、偉大さを作り出す。だが、ノン=オイディプスは問いと答えの忘却であり、愚かさである。その声が送り届けられるとき、宛先は必ず間違っている。そしてあなたに届けられる、差し出し人のわからない、慌てふためいた、どもった言葉、それこそがあなた自身にも取り乱した反復を命じ続ける、ノン=オイディプスの誘惑である。(190頁)