南観音山

南観音山は御神体楊柳観音、脇侍を善財童子とする曳山。下り観音山とも称し、文和二年(1353)にはあったとされる。江戸時代までは北観音山と隔年交換で巡行。

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7月18日(日)

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7月19日(月) 松建て

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7月21日(水)

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下水引一番: 加山又造原画飛天奏楽図 二番: 猩々緋剣倒巴文金糸伏縫  三番: 紺繻子地小真向龍刺繍。 前掛: 伝異无須織ペルシャ絹緞通 胴掛: ペルシャ花文緞通 。

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 7月23日(木)

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破風正面鱗板部: 塩川文麟下絵太真王夫人、王母、少女玉卮等木彫、幸野楳嶺・山母雙竹彩色。屋根裏金箔押。

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破風後面鱗板部: 塩川文麟下絵天夫人、雲、龍等木彫、幸野楳嶺・山母雙竹彩色。屋根裏金箔押。

 

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真松: 下二の枝鳩木彫 

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7月24日(土) コンチキチン

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24日は巡行用天水引緋羅紗地鳳凰麒麟・四神肉入刺繍に変更。

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凱旋船鉾

7月2日(金)

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 凱旋船鉾(大船鉾)は禁門の変(1864年)で消失、2014年復興。四条町大船鉾保存会によると「居祭りとなったころから町内では凱旋船鉾と称したと云うが、昭和59年(1984年)の伝統工芸博覧会において凱旋船鉾の復元展示が行なわれた折、韓国の全斗煥大統領が、第二次大戦以後韓国の大統領としては初めて訪日され、さらに上洛されるということで、国際情勢に鑑み四条町が名称を変更することになった。その際、『祇園社記』に記述されている『大船』の呼称をもとに、『大船鉾』と称することとしました。 町内には前の祭の船鉾より大きかったという伝承もありますが、同時に巡行したことがありませんので、真偽の程は不明です」との事。わたしは凱旋船鉾と称されていた頃より居祭りで拝見した記憶があり、前祭の出陣の船鉾、後祭の凱旋の船鉾として一対、大船鉾と呼ぶには抵抗を感じる。松田元氏の『祇園祭細見』では、消失するまで二つの町内が互隔年に受け持って凱旋船鉾の巡行をおこなったと云い舳先の大金幣は南四条町、龍頭は北四条町の当番となる故。

 

7月18日(日)

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7月19日(月)

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7月21日(水)

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2021年 龍頭金箔張り

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2021年艫飾新調: 桧製木彫極彩色霊獣 左舷海馬、正面鳥龍一対、右舷犀。東山区瀧尾神社寄贈。

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 毎年懸装品が整えられていくのを楽しみに拝見する。名古屋生まれなので昭和の菊水鉾には立ち会えなかったが、平成の凱旋船鉾など多くの復興に立ち会え、来年は鷹山の勇姿にも出会えると思うと幸せ。コロナ禍の終焉を願う。

 

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7月24日(土) コンチキチン

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 四条通まで移動

水ようかん by 仙太郎

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祇園梛神社

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 氏神様のこと、今日も暑そうですな。

 

 主神: 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、配祀: 宇賀御魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、誉田別命尊(ほんだわけのみこと)

 

「社伝によれば、 梛神社(元祇園社)は、貞観11年(876)京都に疫病が流行した時、牛頭天王(ごずてんのう)(素戔鳴尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行なったが、このときその神輿を椰の林中に置いて祀ったことがこの神社の始まりであると言う。
 その後、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社(八坂神社)を創建する際、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、鉾を振って楽を奏しながら神輿を八坂に送ったといい、これが祇園会傘鉾の起源であるとしている。また、このことから梛神社は「元祇園社」と呼ばれるという。
 明治までは小祠であったが、明治7年(1874年)と昭和4年(1929年)の復興により現在の形が整えられたという。」

 

 播磨国広峰は現在の姫路市北部西播丘陵県立自然公園にあたり、素盞嗚尊と五十猛命を主神とする広峰神社が山頂にある。同社は八坂神社と同様に牛頭天王総本宮と称する。

 

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御供石(ごくいし)

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 梛神社の境内には、「祇園祭山鉾巡行のとき、この石の上に神饌をおき神にそなえたたもので、もとは下京区御供石町(万寿寺通烏丸西入)にあったが昭和7年に町内の役員・若者により」この地に移された。

 

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 水ようかん

 

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仙太郎本店

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 19日から土用の入りなので「あんころ」、これについては改めて紹介します。

 

 涼しい間にネット回遊--- ときの忘れものの7月21日ブログで鏑木あづささんが連載されている「関根伸夫資料をめぐって」の最終回を拝読した。資料好きのわたしとしては、手許資料の行末を考える。広く利用されるべきだが、紙もの・資料は破損と紛失の危機を常にはらむ。デジタル化させて紙面を判読するのがベストなのか、これでオリジナルの持つ訴求力は伝わるか? ケースに入れられたカタログ類を観る度に、心が痛む。鏑木さんの記述は以下。 

 

 「資料は資料であって、それ以上でもそれ以下でもない。だが、これが美術館に収まると、作品の従属的な存在とみなされることもあれば、ときに“作品以上の貴重品”として扱われ、所管する者が特権的に振る舞うこともある。そして彼らがそのことに充足するだけで、利活用しきれないまま存在そのものが可視化されなくなってしまう、という事態に陥ることさえある。しかし資料と作品は、このような関係でとらえるべきものではない。今後はどのような施設・機関であっても、資料を預かることによって生じる社会的責任と、その公共性が問われていくはずである。」

 

 彼女は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイブにも参加されいる司書、アーキビスト。ときの忘れもののブログでは、以下の発表も紹介されている。

放下鉾

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12日 15:38 新町通四条上ル

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鉾建ては一日遅れの十一日から。

 

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12日 15:38

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13日 12:46

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13日 12:47

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15日 16:09

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ゲリラ豪雨が続きましたな。

 

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16日 16:10 宵山

天水引: 金地彩糸丸龍 金幣

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18日 10:56

鉾の片付けにはクレーン車が使われる。

 

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18日 11:02

 放下鉾鉾頭 後方図 鉾頭: 桧製州浜形金箔押 榊: 桧扇型。 松本元氏は鉾頭の意味について「日月星三光を象徴し、二本の棒は光茫」説と「放火師と鞠とこきりこ」説の他に「州浜紋のめでたさ、あるいは茶目っ気のある団子形」を指摘されている。

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 来年は山鉾巡行が執り行われるのを願う。無病息災、疫病退散。 

破風

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長刀鉾 後部蟇股彫刻: 小鍛冶宗近神剣鍛造像 背景鱗板: 金無地 破風裏: 孔雀

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 祇園祭は昨年に続いて山鉾巡行や神輿渡御などを中止としたものの、組み立て技術の継承や懸装品保全の観点から一部で山鉾を建て、祇園囃子も演奏された。 

 観覧自粛が呼びかけられているので、早い時間に健康散歩をかねてパチリ。例年ではこの光と角度の写真を残していないので、懸装品好きには良い記録となった。

 

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鶏鉾 屋根裏: 金無地 正面妻部: 大瓶束を挟んで鶏雌雄と雛

 

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月鉾 前部蟇股彫刻: 金波白兎像伝左甚五郎作 軒廻り: 応挙草木図

 

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函谷鉾 正面鱗板: 金地に林和靖と童、鶴と白梅 軒裏: 金地に極彩色雌雄鶏

 

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放下鉾 正面鱗板:駒井源琦下絵三羽丹頂鶴高浮彫 

於菟麿

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於菟麿(おとまろ) 月鉾稚児人形

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 松田元氏の『祇園祭細見 山鉾編』(1977年)によると、於菟麿は「三代目伊藤久重作近代的写実美少年人形。頭: 桧胡粉菜色、艶出、描眉口玉眼入、頭髪植毛茶筅結。身長一三〇糎。宝冠: 鳳凰雲揺珞付着彩金色。巴紋金羯鼓」。明治末に生稚児から人形に変わったと云いブログ「京のお人形」には「モデルは最後の生き稚児と伝えられている。」とあり「女性から人気の高いイケメン」さんだと云う。

 

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コンチキチン

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月鉾鉾頭 後方図

田辺勇蔵氏寄進(昭和56年)18金製新月型(みかづき)鉾頭 

エア・山鉾巡行

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大丸百貨店 長刀鉾模型 

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 昨年の当ブログでは「エア・祇園祭り」と題して一ヶ月、過去の映像を眺め祭りを楽しんだ。今年は巡行が中止となったものの、一部の山鉾は建てられたので、健康散歩の折にこっそり見学(コースを変えております)。懸装品を拝見するのは良いものですな。今日は前祭の山鉾巡行の日、梅雨が明ければ蘇民将来の粽を軒先に飾りたい。無病息災、疫病退散。

 

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厄除けの粽は郵便で届きました。

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四条烏丸角  7月9日(金) 健康散歩 8,222歩

宵々山

7月15日 健康散歩 6,298歩

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霰天神山  (錦小路通室町西入ル)         16:13

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 昨日は雨雲・雷の両レーダーを確認しつつ帰宅できるつもりだったのですが、黒雲にさえぎられ、しばらく雨宿り。ゲリラ豪雨と言うのでしょうか。「夕立三日」ならぬ「ゲリラ豪雨三日」+ 巡行で梅雨明けとなるのが京都---と家人の言。天気予報より当たりますな。山も鉾も懸装品にビニールが掛けられ、密をさけての静かな街歩き。小生、それでもパチリをすると気持ち、昂ぶるのです。今宵は宵山、コンチキチンが聴きたいので19時までにこっそり健康散歩、したいけど。出来ませんな。

 

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蟷螂山 (西洞院通四条上ル) 16:25

『マン・レイと女性たち』展 ─ 初日から。

f:id:manrayist:20210714170621p:plain渋谷文化村通り 7月13日(火)  写真も送ってくれた。

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 コロナ禍の緊急事態宣言発出中の渋谷・Bunkamuraで表題の展覧会が昨日(13日)から始まった。オリンピック開催もひかえ、人流が変化する前に東京へ出掛けたいところなのだが、諸般の事情で躊躇。そんな事情を察してくれた友人が、初日朝に観覧しすぐにカタログや資料を送ってくれた(深謝)。

 年初から気になっていた展覧会については6月22日の本ブログで紹介したように、2004年に催された『マン・レイ「私は謎だ!」』展の監修者である巌谷國士さんとマリオン・メイエ女子のコンビが再びマン・レイ芸術を開陳するもので、今回は「20世紀という変動の時代を美しく積極的に生き、それぞれの個性を発揮していた自由な女性たち」と云う視点で、美しく刺激的に紹介されるらしい。わたしは会場を観ていないので、明るく楽しい様子を共有することは出来ないが、今朝方、受領したカタログや展覧会資料を広げながら、展覧会の魅力を想像している。

 

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 巌谷氏の監修された書籍は、カタログと云うより単書の位置づけなので、展覧会の一次資料好きにとっては、上に掲げた「展示品リスト」が心躍る品物。

 

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 書籍のカバーを外した状態、デザインは中村香織さん。背の模様はシュルレアリスム画廊案内状(1928年)からの引用で、表紙にはレイヨグラフ(1927年)が使われている。『青樹』で天野隆一が紹介した絵柄なので個人的に嬉しい。ただ、240頁から続く欧文の「参考文献」などは小さすぎ、虫眼鏡を用いてもシニア組には苦行。読むための資料じゃなくて、デザインなのかしら。

 

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204-205頁 掲載された8点の案内状等の内、未収集は3点、頑張らなくちゃ(笑)

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 これから、巌谷さんのテキストに突撃し、勉強したいと思う。

『日本の前衛絵画 その反抗と挫折── Kの場合』

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中村義一『日本の前衛絵画 その反抗と挫折── Kの場合』美術出版社 1968年

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 愚稿では「名古屋時代に本書を読んで惹かれ、わたしの中に北脇が住んでいた時期」と書いた。表紙に使われた『眠られぬ夜のために』を京都市美術館で観た折の光景を思い出しながら、言葉を選んだ。改めて本書を読み直したが、瀧口修造が寄せた序文にある「とりわけ同時代の人間にとっては、絶えず念頭にありながら、自分からは手の着けにくい主題なのである」には、「一人の画家の屈折多い歩みを検討」する難しさ、美術家の「多少とも個人の営為に比重のかかった立場」の社会との複雑なかかわり合いにふれられている。また、著者の中村が北脇の出自に関する恵まれた生活の他方に「拒みえない重い絆」(90頁)があっただろうとする点を、絵画作品とその作者、そして生活と結びつけ、「おいといない」面を強調して「書き進め」ても良いものかと愚稿では躊躇した。北脇がわたしの中に居た時から、およそ50年が経つ。「手の着けにくい主題」にも向かわなければと思う。

 

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佐久間象山(1864.7.11)、大村益次郎(1869.9.4)遭難之碑。  高瀬川、前方茂みに廣誠院。

『フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影』

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 佐藤裕一著 『フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影』北斗書房 2010年刊

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 本書で、表題の喫茶室の成立過程や京都地裁検事・下川巌が示した「左翼的思想を有する知識人が比較的多かった」(56頁)京都の様子など興味深く読み、『土曜日』が、どのようにして広がっていったか、土地と人間とを関連付ける事が出来た。フランソア喫茶室は1937年当時「京都最大の党資金源となっていた」(62頁)という。

 本書ではショートカットの佐藤留志子、琵琶湖遊覧する立野正一、若き日の宍戸恭一など。貴重な写真が沢山紹介されており、この点でもきわめて興味深い。

 

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『キネマ / 新聞 / カフヱー 大部屋俳優・斎藤雷太郎と『土曜日』の時代』

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中村勝著・井上史編『キネマ/新聞/カフェー 大部屋俳優・斎藤雷太郎と『土曜日』の時代』272pp. ヘウレーカ刊 2019年12月12日初版

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 戦前の京都で短期間発行された進歩的な新聞『土曜日』(1936.7〜1937.11 月二回)と発行人斎藤雷太郎について、京都新聞の文化部記者中村勝が名物コラム「現代のことば」を舞台に99回におよぶ連載「枯れぬ雑草」で紹介した。中村は1940年山口県周防大島生まれ、1963年京都新聞社入社。本書は氏の没後(2019年1月 享年78)に井上史らによって連載を纏め刊行されたが、映画とカフェなど時代の諸相も語って興味深い。

 愚稿での引用は斎藤嘉夫による「父・雷太郎のこと」によった。引用箇所の前段に「父は幼い私をあらこちに連れて行ってくれたが、ある日、京都駅に汽車を見に出かけた。京都駅にはたくさんのホームがあり、次から次へと列車が入ってくる。しかし、ホームにいる人にはその列車がどこへ行くのか、わからなかった。先頭には行き先が表示されているのだが、それを見逃すと、どこ行きなのか見当もつかない。駅員に聞こうとしても駅員はいないし、行き交う人に尋ねても知らないという。ようやく」とあり、プログでの引用は下記。「駅員を見つけて、父は笑顔でこう言った『行き先を横に表示するとわかるんですがね』」、さらに「……」の部分を説明すると「駅員はまったく聞く耳をもたず、『そんなことできない』とけんもほろろだった。父は意に介さず、平然としていた」とある。子息は「いま、ご存知のとおり、電車もバスも車体の横に、行き先が表示されている。もちろん、父の提言でそうなったわけではないが、父はだれも気がつかない前に、こうしたアイデアを思いつく才能が合ったように思う。父が私によく言っていたのは、『ものごとをよく観察し、創意工夫』せよということであり、実際、自身も生活の中でもそれを怠らない人であった」(256頁)と続けている。

 

 これを読んでいて、名古屋駅に連れてもらったわたし自身の子供時代を思い出し、ウルウルとなったのを報告しておきたい。「父・雷太郎のこと」の文中で子息は厳しく躾けられた様子なども回想されているが、浄土真宗本願寺派の僧侶になられ父の法名を「雷光院釋刊曜」とつけられと云う。親子の情、とくに男の子にとっての父親の存在を、かみしめた。(合掌)

『土曜日』補足-2

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『シュール・レアリズム作品展より』36号 1936.7.5  pp.148

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 『土曜日』の主な執筆陣は巻頭言: 中井正一 社会欄: 能勢克男 文芸時評: 辻部政太郎 映画欄: 清水光 音楽: 長広俊雄 漫画: 松山文雄。尚、題字は小栗美二、表紙絵: 伊谷賢蔵(5種程度)。当時の若者らに人気のあった映画を清水らが紹介し、市内各映画館の広告も掲載されている。なので、京極映画劇場で上映されたマン・レイ『ひとで』への言及がないかと探したが、新聞は隔週発行なので同劇場の広告も、間だったのです。残念。

 尚、小栗については愚稿でふれたが、鳥取生まれの伊谷(1902-1970)はウィキによると京都工芸院(現京都工芸繊維大学)卒、黒田重太郎に師事。春陽会、二科、行動美術協会などで活躍されたと云う。 

 

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映画『失われた地平線』などの特集号 34号 1936.6.5 pp.128

 

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『超現実の夢を織る 魔法の小箱』37号 1936.7.20  pp.154

弘中智子講演会『転換期の東京の前衛画家たち』at 文博

さまよえる絵筆 ── 東京・京都 戦時下の前衛画家たち』展 7月25日(日)迄

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京都文化博物館の一室では、東京会場の様子が動画で映し出されている。画面は北脇昇の作品。

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 本日・10日(土)午前10時30分から12時までの予定で、板橋区立美術館学芸員・弘中智子さんによる前記講演会が京都文化博物館3階のフィルムシアターで催される(申込先着順・定員70名)。開催中の展覧会『さまよえる絵筆 東京・京都 戦時下の前衛画家たち』に関連する企画で、京都の学芸員と連絡をとりながら実現させた今回の展示の見どころ、特に東京の画家たちの様子を話してくださるそうで楽しみである。

 東京の展覧会は、コロナ禍対策で開催を遅らせ3月27日にスタートしたものの、4月26日から臨時休館となってそのまま終了。準備をされてこられた弘中さんの「残念ぶり」は半端でないと思うが、場所を変えての京都展示は、予定どおり進んでいるので、お許し願いたい。

 

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 信長が足利義昭の居館として築いた旧二条城より出土した石仏。付近の寺院から工事期間短縮のために徴発し利用したものとされ、ここに並べられているものは衣棚通下立売辺りから出土したと云う。

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以下は終了した板橋区立美術館の展覧会チラシ

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 今日のスピーカーは弘中さんと文博の清水さん、刺激的な話で、またまた、ヒントをたくさん頂いた(感謝)。講演の後、フィルムシアターでの能勢克男『疎水 流れに沿って』(1934年 14分)と、田中喜次影絵アニメーション『煙突屋ペロー』(1930年 23分)の上映に参加。スクリーンで観るのは久しぶり、映画熱が再燃しそう。

『土曜日』補足-1

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 復刻版『土曜日』 解説:久野収 思い出: 斎藤雷太郎 三一書房 1974年7月発行 31×22cm pp.184

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 ときの忘れもののブログに寄稿した『土曜日にフランソア』で、「復刻版の『土曜日』を、数日来熱中して読んでいる」と書いた。愚稿では書ききれなかった事柄を整理しておきたい。
 隔週でスタートした新聞『土曜日』は前紙『京都スタヂオ通信』から通巻した経緯から、12号が創刊号(1936.7.4)。当初は隔週第一・第三土曜日発行。編集の林要が東京に拠点を移した23号の頃(1936.12.19)に毎月一日・二十日発行に変更。愚稿では当初「発売前の金曜夜」と記したのだが「発売前夜」とした。タイトルに繋がるから「金曜」と入れたかったのだけど。

 引用した「一定の水準以上の能力と意志を持たない人間は、直接革命運動には参加さすべきでなく、犠牲ばかり多くて実効のあがらないやり方で、あたら善意と熱意を持った人々を、犬死させてはならないというのが、私の体験から得た見解」の部分は斎藤雷太郎の「『土曜日』について」8頁によった。

 『京都スタヂオ通信』が『土曜日』に移行したのは、無保証で発行していた前者を「時事問題の書ける有保証・金五百円」としたのによる。個人で大金を捻出した斎藤の姿勢に感服する。

 わたしも銀紙書房をしているので「売れるということは、読まれるということでもあるので重要でした。それが「お義理」でなく、赤の他人である世間の人々が、参銭出して『土曜日』を店で買う、その売れる部数と新聞の内容に問題のカギがあるのです」(9頁)と云う部分など、共感を持った。

 尚、復刻版では、18、26、33、43、44の各号が見つからず欠号のままの発行となった(但し、後に26、33号は能勢克男の旧宅から発見)。

 

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創刊号 (復刻版、三一書房)

 

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 9日(金)のY新聞朝刊22面地域版(京都展覧会情報)に『さまよえる絵筆』展と共に『独立美術京都作家展』の案内が掲載されている。戦前とは変わっているだろうけど、後者は13日〜18日まで府立文化芸術会館で催される。