November 30, 2004
「マン・レイ友の会」への参加を表明して下さった方から、メールを幾つか頂戴した、感謝。わたしの事を以前から知っていたと云う方もいらっしゃって恐縮すると同時に、ちょっと怖い。招待されないと入れない閉鎖的なシステムだが、それがかえって居心地が良いと、この「世界」の方々は感じていらっしゃるのだろうか。新参者にはカルチャーショックの一つ。ネットの世界は結局、内輪のサークルと云う人も多い。元システムエンジニアだったわたしは、この設計思想、仕掛けに興味が湧く。いずれ、こうした点を報告したいと思う。
November 29, 2004
参戦したミクシーが面白いので、「マン・レイ展とキーボード」が停滞ぎみ。誘ってくれたI氏が「マン・レイ狂い」の方にリンクを貼ったらどうですかと、アドバイスをしてくれたので、マン・レイつながりを修正する。でも、コミュニティー一覧は見事にモノクロ画面だね。
今年のHow are you, PHOTOGRAPHY? 展の詳細が決まった。チラシを観ながら、スケジユールをたてる。12/13 20:00--からのオープニング・パーティー、12/18のトークセッションとその後のフォト・パーティー。作品制作中の友人、知人を横目に、来年は参加したいと思う。でも「京都写真クラブ」の方になるかな、オジサンだからね。
November 28, 2004
ミク友の動作環境が解らないので、手探りをしながら楽しみ始めた。コミュニティーに「マン・レイ」「アンドレ・ブルトン」「瀧口修造」等があるので、まず登録。「マン・レイ」については参加者227名と云う大所帯なのだけど、「マン・レイ友の会」として、わたしなりのコミュニテイーを始めた。開設者にはバッティングで申し訳ないが、様子をみながらやっていきたい。「マン・レイ友の会」って、いやなネーミングなんだけど、先年、亡くなったトリヤーさんが「ASSOCIATION INTERNATIONALE DES AMIS ET DEFENSEURS DE L’OEUVRE DE MAN RAY」としていたので、その日本版もよいかと、登録した訳。どんな反応があるだろう、気長に、楽しくやらなければ---
銀紙書房新刊本のタイトルは「マン・レイ展とキーボード」、刊行部数は5部。今回は読者の皆様にお譲りするわけにはいかないのだが、制作過程だけは、報告したい。写真7点の印刷を終え、表紙デザインにとりかかる。しかし、表紙に使う予定の写真が横長なので、やりにくい。アンドレ・ブルトンのオークション・カタログをパラパラ見ながらアイデアを求めても、上手くいかない。---いずれ浮かぶだろう。
午後は府立図書館へ。途中、新門前の鉄斎堂で日本画、掛け軸を観る。梶喜一さんの鯉の絵が三点含まれていて、値段を確認しながら、欲しいなとヨダレ。白川を抜けてギャラリーはねうさぎで奥田真希さん企画による「線の魅力」展、星野画廊で「藤田龍児遺作展」を観る。返却後、ギャラリー16のSさん達と世間話。デュシャン展の話が出て軽井沢やセゾン、岡崎のビギでのデュシャン展をも観ていない世代の人、今回の展覧会は良かったと云う感想。大阪でのレセプションの夜、大先般のK氏が「研究者もコレクターも世代が変わったから」と云っていたのを想い出した。
November 27, 2004
府立図書館から借出本の返却を早くして下さいと電話が入った。バタバタとしてこのところ、岡崎に出ていない。今日も、銀紙書房新刊本制作で缶詰状態。明日には自転車でと思いつつ作業をする。写真の印字品質がかんばしくないが、OKを出して次工程に。これから、あとがきを書かねば、表紙のデザインをせねばと追いつめられている。刊行日を12月20日したからね。
名古屋と岡山での写真を現像に出し『日録』に取り込む。11月は贅沢三昧の至福月となった。12月は宴会月間。その間の銀紙書房本、ビール頭をしぼりながら、ポイントを整理しよう。
昨日読んだ京都新聞の夕刊で川村邦光氏が、「写真を撮るスタイルの変化」と「アルバムに写真を保存しておくこともなくなっているのではなかろうか」と前振りをした後、家族アルバムに言及し「家族がどのような来し方をたどってきたのか、その家族史・生活史が地層のように堆積された貴重なドキュメントなのだ。それはまた、家族の記憶を保持したり回復したりするうえでよりどころとなる、モニュメントのようなものでもあろう」としている。同感の意見であるが、紹介された家族写真の人々の最後に「この兄は後に戦死し、ともに家族写真を撮ることはできなかった」とされているのだが、この部分、残されたアルバムの裏面に書かれていたことなのか、持ち主に聞かれたことなのか、なんとも、中途半端だ。普通、こうしたエッセイの結語って、自身の家族の物語として準備すると思うのだが、いかがだろうか。
November 26, 2004
Iさんに誘われてソーシャルネットワーキングサイトmixi(ミクシィ)へ参戦した。使いかってがわからないので、これから勉強します。ホームページを開設したいと云いながら、実現できていない友人に、良かったら、紹介したいと思っている。
遅く帰宅した長女と、先日、一緒に行った国立国際美術館のデュシャン展を話題に世間話。「デュシャンって思っていたのと違って、暗い人なんだね。マン・レイの方がもっと普通の人。」ムムム、これはすごいと、脱帽。
November 25, 2004
悪戦苦闘している銀紙書房新刊本の最終校正(印刷出力前だけど)は106頁まで進んだ。疲れきってしまうね、全144頁、あとがきを書かなくてはいけないし、選んだ写真の出力テストもしなければならない。12月が近づいてくると、しなければならない事が、一度に表面化するみたいで、こいつは大変。通勤のお供が校正紙になっているけど、土、日には印刷工程までやりたいと計画、ビールなんぞ飲んでいられません。でもね、意志が弱いのですよ。
知人からのメールに「駅弁の包み紙を集めておられたのですね。なんかほっとするなあ(笑」とあって、本人が驚いている。名古屋でほとんどゴミ箱---いや、名古屋だから分別ゴミの袋---に入れかけていたのに、思いとどまったのは、何故だろう。マン・レイ・コレクションの話ではなくて、駅弁包み紙の展開。駅弁を作っていた会社からメールが入るかと予測したけど、どうも違う。マン・レイのように特殊な事柄ではなくて、誰もが食べたもの、百貨店の駅弁大会ではなくて、実際の時間と場所で移動しつつ食されたもの。残された包み紙は時間を包んでいるのだろうか? いろいろと思う部分もあるので、いずれ纏めて『日録』で報告したい。
November 24, 2004
バタバタとした一日。銀紙書房新刊本の校正を少々。そろそろ本腰を入れないと年が越せないぞ。「駅弁の包み紙にご興味のお有りの方、どうぞお申出下さい」と20日の『日録』に書き込んだら、なんと、興味を示された方がいらっしゃった。世の中、捨てたものじゃない、いや、捨てなくて良かった。
November 23, 2004
上段: 岡山電気軌道
東山線西大寺町を回る
岡山駅前行き7601号
下段: 旭川京橋西詰めに
繋留されるクルーザー
用事で岡山へ。最高の秋晴れ、市電の西大寺町辺りでルーツ探し。旭川、京橋の記念碑には世界で初めて空を飛んだ表具師幸吉。「天明5年、鳥のように自由に空を飛びたいと鳩の体重と翼の大きさを測り人間に当てはめ、京橋の欄干から旭川に飛び立ったと云う。」夕暮れの一時、こんな石碑を読みながら、父母の故郷を歩くのは気持ちのゆったりする不思議な感覚である。
千日前通りの吾妻寿司へ入ってままかり寿司、ばら寿司を食する。創業95年の老舗であるから、祖父達が店で寿司をと思ったが、戦前なら仕出しで取っていたのではと教えられる。それにしても瀬戸内の海の幸は美味い。付きだしがくもこなんだから、期待はすごいよね、刺身の盛り合わせからして、気合いが違う。カンパチや焦げ目を入れた鰆。鰆って春先で、焼き物と云った先入観があったけど、今頃から12月にかけてが美味しいらしい。鰆の握りを食べて、わたしは衝撃を受けた。食べた事の無い食感なんだよね。トロのように脂ギトギトでなく、口に入れたら無くなってしまって、シャリの感触だけなのに、遅れて鰆の脂が溶けていくのだよね、旨いんだこいつが、一緒に食べていた兄と眼を合わせてにんまり。「旨いね」いや、ほんと、岡山でしか、たべれないものらしい、焼き魚じゃない鰆、握りのさわら、焦げ目のあるお造りも旨かったけど、握りの方が最高。知らない土地で知らない素材と出会うのは楽しい。「魚は季節を食べるのかな、でも季節を楽しむのは、お金がかかるね」と兄貴。吾妻寿司の素材を活かしたスタンスは老舗の自信だね。兄弟二人して楽しくなって、激辛、喜平、吾妻、千寿とお酒も岡山づくし、総て冷酒だから、こいつはきつい。嬉しいけどね。カウンターで男二人、板さんに岡山の話題をいろいろ訪ねる。「西大寺の本店についてはお客様の流れが、随分と変わってしまった」との事だが、「本店ですから」との返事。駅前の吾妻寿司よりも、やはり、ここで食したい。父や祖父が食べていたかもしれないからね。板さんに話を聞いていると、この若者、銀座の寿司店で修行をつんだ四代目との事。シャリとあてのバランス、センスの良さは銀座仕込みといったところだろうか。美味しいお寿司をいただきながら、しめに鰆。上がりをもらって至福の数時間だった。
November 22, 2004
土曜から発生したヤフーのメール機能障害が、夜10時を過ぎてやっと回復した。これ、以前から起こる現象。原因がわからないのだから困る。ヤフーの「安かろう悪かろう」と云ったたぐいなのか、わたしのMACのメモリー不足なのか、いやはや、その間はアウトルックではなくて、インターネット・エクスプローラ側からのメール確認となるので、使い勝手が悪く、メールは読むけど書き込むのが億劫になる。ゴメンナサイネ。
November 21, 2004
久し振りに10時半まで寝る。名古屋からの宅急便を受け取り整理、子供達が高校生のわたしを見て怖がる。家人は部屋の掃除をしてクリスマスの飾り物を取り付ける。一段落するとケーキが食べたいとのリクエスト。クリスマスからの連想がケーキと云うのは健康な家庭だ。すぐに「菓子職人」へ行く。この店、西院での有名店、甘さがくどくなく小粒のケーキなので食べやすい。さっぱりした味を好む家人達だが、店でのケーキ選択はわたしの役目、後がうるさいので大変な役回り、3時頃だとケーキの種類も残り少ない。ザッハトルテ、レアチーズ、チョコモンブラン、ガトークラシックショコラを買う。次女が最初の選択権を持っていて、新製品のガトークラシックショコラを選ぶ。チョコの上にキャラメルが掛かったホイップクリーム。クリームとチョコを合わせて食べると特に美味しいらしい。家人と娘はシェアして食べているけど、わたしは、命ぜられるままにザッハトルテ。「ウィーンのホテル・ザッハで食べた時、クリームがあったわね」と家人に言われてもよく覚えていない。味覚音痴のわたしは、美味しそうに食べる人を見るのが好きな視覚の人。
November 20, 2004
三春屋のみそかつ丼
名古屋市昭和区桜山町1の1
電話052-841-2793
実家に残していた品物を整理する為、早い時間から名古屋へ。夏に兄弟でバリヤフリーのマンションへの引っ越しを決め、準備を進めていた。わたしは就職した時、ほとんどの物を京都に移していたので、荷造りしたのは10冊程のアルバム。でも、家族にとっての記念品は見だすときりがない。数時間やって昼食に、近所の「三春屋」へみそかつ丼を食べに出る。この店のみそかつ、持ってこられた時、味噌の香りがして鼻から食欲満開。濃厚な八丁味噌とトンカツのコンビネーションがバツグン。亡くなった叔父さん達と食べた味が忘れられなくて、ブラブラと10分程歩いた訳。懐かしい味に身体が反応するので、古い写真の中におさまっていた祖母や叔父や両親、兄弟が味噌だれから細く刻まれたキャベツの間に現れる。故郷の味は嬉しいものだ。
中学、高校時代に鉄道ファンだったわたしだが、荷物を整理していたら、当時、集めていた駅弁の包み紙が出てきた。実際に自分が食べたものなので、今、見ると不衛生だが、昭和44年などと云う日付印を読むとノスタルジックな気分となる。絵柄に興味を持ったのと、当時、こうした包み紙を集めていた人の話題を何処かで知って始めたのだと思う。それに、商業デザイナーになりたかったし。
* 左よりカワカミ弁当部、みかど、高橋商事、阿部弁当店
43.11.24 新見駅 特選弁当 200円
44.3.26 18時 鹿児島 国鉄指定 (株)わたなべ おべんとう 200円
44.11.24 味覚のべんとう 飛騨の栗こわい 飛騨高山駅美濃屋 250円
44.8.19 18時 上野駅 日本食堂(株) 200円
44.8.22 8時 森名物 いかめし 阿部弁当店 80円
44.8.22 11時 長万部名物 かにめし 有限会社長万部駅構内立売商会 150円
44.8.22 12時 倶知安駅 清水立売商会 200円
44.8.24 深川駅構内営業 K.K. 高橋商事 特選 おたのしみ弁当 200円
44.8.24 函館駅桟橋 みかど 御料理
44.8.25 8時 福島駅 とくせい御弁当 有限会社伊東弁当部 200円
45.4.12 15時 品川 (株)常盤軒 御弁当 200円
45.8.18 信州風味 山菜 釜めし 中央線塩尻駅 (株)カワカミ弁当部 250円
日付の無いものも多く、全部、紹介したいけど、きりがないのでこれくらい。北海道へ蒸気機関車の写真を撮りに行った44年の夏のものが多いけど、わたし18歳の高校3年生。夏休みに受験勉強せず、趣味の世界に生きていたのだね。変わらないな人生に対する、このスタンス。包み紙には「万国博は新幹線で」と云うのが結構あるし、お願いとして「急行列車にはくずもの入れが備え付けてあります。恐れ入りますが食べ殻は紐で結んでお入れ下さい」と書いてあって、微笑ましく懐かしい。今日、手にとって「親切は忘れぬ旅のみやげ物」「ゆずり合い旅を楽しく明るい車内」などと読みながら、夜汽車に揺られた当時を振り返る、包み紙と写した写真アルバムのセットになったタイムトラベルだから臨場感一杯。汚いし捨てようしたのだけど、京都まで持ち帰ってしまった。「お気付の点は鉄道係員にお申出下さい」ともある。駅弁の包み紙にご興味のお有りの方、どうぞ「お申出下さい」 近日中に処分いたします。
昼から母親のところへ、夜は兄と桜山の「いなよし」へ。兄弟の世間話をいろいろ。兄のホームグランド、「いなよし」は美味い。生ビール中ジョツキで初めすぐに日本酒へ、今宵は河豚のフルコース。皮、てっさ、焼き河豚、唐揚げ、てっちり、締めくくりに雑炊。河豚のヒレ酒を熱いまま飲みつつ。幸せ全開。贅沢な味覚を堪能した。
いなよしの河豚コース
November 19, 2004
玄関に白い小さな蘭の花束、長靴を模したピンクの花瓶に生けられている。バランスが良くて、可愛い。
先日からの本のことだが、最終章に「行方不明の名品や大事な証拠の品がたやすく見つかったのは、本当にそれが必要だと思ったとき、運命が味方して、思いがけない展開を見せてくれたのではないかと感じている。しかし、幸運は待っているだけではつかめない。ハンターに必要な資質---執拗さ、スタミナ、渇望感、時にはおだやかな攻撃性」(280頁)とある。マン・レイの油彩、それはスリーパーではなくて、世界中でただ一人、わたしにしか素顔を見せない作品。いつの日かと思いつつ読了した。
November 18, 2004
しばらく前に気付いたのだが、使っているサービスでのホームページ容量は50Mで、使用量が80%を超えていた。そろそろ対策を考えなくてはと思っていたら、新サービスがYahoo!ジオシティーズで始まっていて、知らない間に300Mに増量となった。特別の変更登録をしなくても増えたのだからラッキー。写真を付けた『日録』をこれからも続けてゆこう。今回はアクセス解析と云う機能のを使ってページごとの訪問回数を確認した。キーワードに頭を使おう。マン・レイではなくて、他の一般的な言葉が必要だね「京都」の観光案内的な内容の時、訪問される人が増えたので、こうした方にも「マン・レイ」の魅力が伝わるような仕掛けを準備しよう。
November 17, 2004
「オークションは一般に公開されることから、同僚、業界関係者、学会、一般の人たちからの厳しい目にさらされ、少しでも不備な点があれば、何をいわれるかわからないということがある。写真入りのカタログはかなりの部数印刷され、広く流通しているので、競争相手をはじめとして、マスコミや重箱の隅をつつくような知識をひけらかしたがる学術関係者などによって、くわしく検分される。そして、彼らは往々にして、間違いを指摘することに喜びを見いだす傾向があるのだ。」(211頁) 学会の論文は「重箱の隅」にすぎないといろいろな人が指摘するが、わたしにも似た傾向がありはしないか? わたしの研究、書いているものが「重箱の隅」にならないようにと何時も注意している。作品理解に重要な働きをする「重箱の隅」、でも「隅」であって「重箱」ではない。隅を徹底的に攻めれば、新しい重箱を作ることとなるのだろうか、わたしは「重箱」ではなくて、生きているマン・レイの時間に共振したいと考えている。文体で臨場感を作ることができるか、裏付けとなる食材が一杯つまった「重箱」を用意したい美味しいからね。あるいは「オークション・ハウスは、通常、なるべく高値で売るためには、できる限り作品をばらばらに売りに出すようにと売り手に勧めている。」(224頁)とあって、具体的な対応の仕方が、いずれ役立つだろうと、今日も「眠れる名画--スリーパーを競り落とせ!」を読んでいる。
November 16, 2004
「スリーパー」って言葉知ってましたか? 1960年代から使われたらしいけど「もともと、共産主義者の隠れスパイを指して使われる言葉だったが、それが転じて美術界では、正体不明の絵画がオークションに、まったく新しいアイデンティティーのもと、さっそうと現れることを表すようになった」(201頁)、業界については「以前のオークション・ハウスのスタッフというのは、営業上でもメリットとなることを求められおり、身のまわりにオークションへ出かける習慣を持った人たちが大勢いるであろう、貴族と血縁関係にあったり、社交界に長けた人材が積極的に登用されたのである。」(202頁) こんな事が書いてある「眠れる名画--スリーパーを競り落とせ!」(フィリップ・モウルド箸 岩淵潤子訳 1996年文藝春秋刊)を通勤のお供に、ワクワクしながら読んでいる。「ホワイト・スビリット」の使い方を知っていますか?
November 15, 2004
昨日アップした写真、「蛇足になるとわかりながら」でも良いかと思ったのだが、別のものに入れ替えた。昨夜Y氏が「写真上手くなりましたね」と云っていたので、気になって、反省した訳である、どうでしょうか?
山梨県立美術館でのマン・レイ展ポスターを部屋に飾った。会期終了は12月15日。この日までは、あの状態であの場所にと、わたしはじっと見入る。使われている写真(恋人たち+裸体とチェスセット)についても、いずれ言及しなければ。
November 14, 2004
『日録』山梨県立美術館遍の感想を幾人の方から頂いた。Tさんは「ひそかに「これはマン・レイ展巡礼みたいだ」と思っていたのですが、いやいや、どうも本当に巡礼になっていたようですね。展示自体も、何か祭壇を思わせるところがあったようですし---」と書かれたし、Y氏からは「失恋のような表現(気持ち)が、独自性の社会化に繋がっていくように思います」と述べられた後、幾つかの御指摘も頂いた。さらに深める部分、視点を変える部分もあるが、「我が道を行く」わたしのアプローチを、それぞれ評価して下さったようだ。感謝。蛇足になるとわかりながら、二日目の写真を追加した。言葉だけの方が想像力が発揮されて良いのだが、現場の臨場感が伝わると思った訳。わたしが書いているのは、実際にその日、その場所でおこった事柄なのです。
「手作り写真集のノウハウを語る」も無事に終了した。昨年の12月に頼まれてから一年。いろいろな方にわたしのやってきた事を紹介するのは楽しく、本人も改めて自分の作品を観る機会となって有意義であった。これで、一区切り。銀紙書房新刊本に向けて、再スタートを切らなくては----
「手作り写真集のノウハウを語る」
20歳の頃のアルバムをお見せする。
写真3点は、中川繁夫撮影。
November 13, 2004
今回の『日録』は2頁に分割することにした。わたしのMACはメモリーをしっかり積んでないので、画像が多いとハングしてしまう。写真の追加も予定しているが、ひとまず3時過ぎに完成させアップする。どうぞ下記の『日録』をご覧になって下さい。これまでの三会場と変わっているでしょうか---感想などいただけたら嬉しく思います。あらたな悩みも発生し苦労もしたからね。
マン・レイ展 「私は謎だ。」 山梨県立美術館 報告1 報告2
さて、明日は大阪のOICP写真学校で「手作り写真集のノウハウを語る」の講師をする約束、古い友人に頼まれている、これから準備。作りかけの本があるので、丁度、良いあんばい、臨場感あふれるワークショツプにしたいと思っている。
November 12, 2004
山梨県立美術館訪問の『日録』はだいたいのところまで書いたのだが、写真を取り込んだところで時間ぎれ。写真のキャプションまで進む前に頭がパンクしてしまった。明日には仕上げてアップしたいと思う、今しばらくお待ち下さい。今回は会場写真タップリですから楽しんでいただけると思います。山梨の美術館へ出掛けるご予定の方はどうぞ御一報下さい。マン・レイの話を致しましょう。
November 11, 2004
今日も山梨県立美術館訪問の『日録』をウダウダ。下書きとホームページへの書込との間には、微妙なニアンスの相違がある。話言葉と書言葉。紙に印刷されたセンテンスと画面でピックアップする文字リズムの隔たり。二日間の臨場感にマッチした文体を求める。ちょっとビールを飲んだけど、もう1時になってしまった。明日も眠たい----
November 10, 2004
山梨県立美術館訪問の『日録』を、撮ってきた写真を観ながら書いている。今回は量が多く、下書きの半分も整理できないままで時間が経ってしまった。二日目の部分は下書きも済んでいない状態で、その時の自分の気持ち、会場の状況等を正確に記録・報告することに努力するので時間がかかる。写真で会場構成を報告するように、言葉でこれを表現すること、こんな事を考えている。睡眠不足がてきめんに辛い身体となてしまったので、無理がきかない、今、しばらくお待ち下さい。
November 8, 2004
大阪・本町で研修。それで開講前に靫公園のベンチに座って弁当を広げる。色付いた樹木と落ち葉、柔らかい光、カメラを持っていたらよかったなと思いつつ、仕事だからと我慢。ゆったりと家人の作ってくれたミートボールやらキャベツとウインナーやらコンニャクやらを食す。ポットの熱いお茶を飲みながら、回りの雰囲気をボーと観る。人生のこちら側の面、マン・レイもいるのだろうか---
November 7, 2004
甲府城址天守台
5時過ぎに目覚め緑茶を入れてから、昨日の『日録』を書く。ペンが滑って今回の訪問記も文章量が多い。ほうとうの差し金だろうか。東横インでは7時からの朝食がサービス。新聞を読みながら行儀の悪い食事となった。一人だとこうしないと辛いのだよね。朝日新聞の書評で岡崎武志氏の原稿「熱情」に気付く。岡崎さん上手いね。解りやすくて落ちを入れた書評。わたしも、こうしたものが書けると良いのだが。別の頁には読売テレビ解説員、辛坊治郎氏のエッセイ、そこに「私のモットーは視聴者にうそをつかない事である。しかし、社内では方便も必要だ」とあって、土曜日の仕事をキャンセルしたわたしはドキ。それから、ホテル備え付けのパソコンでメールチェック。ヤフーBBは助かる。東横インは窓があり、ベットが広く、値段も手頃、お薦めのホテルである。部屋に戻り外気を取り入れて10時まで『日録』の続きを書く。集中しなければ。
今日も快晴。部屋から確認できた甲府城址に登って街の眺望を楽しむ。地形は武田信玄の時代と大差ないだろうから、平屋と田畑だけの昔を想像する。俯瞰写真をパチリパチリ。それから、ブラブラと市役所前のバス停へ。昨日と同じ時間帯となったのでボンネットバスを待って美術館へ。
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上段; 左--アトリエと住居、右--セルフポートレイト、
正面が「自由な手」マン・レイの眼差しと対峙する。
中段; デュシャンとダダ運動。
下段; ハリウッド時代。油彩「レダと白鳥」、
右側の円い変形額が「視点」。
さて、二日目のマン・レイ展。眼と心がどんな反応をするか楽しみを持って会場へ。この感覚、自室に飾った作品との対話に似ている。家でだって、いつも作品を掛けている訳じゃない、展示空間を知っているマン・レイ作品は、親しい印象を与える。入場券の存在を忘れさせる程に。
担当学芸員のWさんから美術館設備の状況や展示の意図等をお聞きする。資生堂でのマン・レイ展、埼玉県立近代美術館での展覧会と事前に観ていて、自身の美術館でのプランをじっくりと検討された様子。「全作品をいかに収容するか、ミレーを観に来られる大多数の観客に現代美術につながるマン・レイの仕事をどう見せるか、一期一会の出会いだから、なんらかの感動を与えたい。オブジェを触りたくなる子供達に、世の中には触ってはいけない物があるのを教える事。なによりも、所蔵家からお借りした美術品を無事にお返しする安全面の配慮。その為に結界や「触れないでください」のサインを多様しなければならなかった。オブジェはそのままの状態で台の上に置くのが一番良いので、目障りな手型のマーク表示も我慢する事にしました。「羽根の重さ」などもそうしたかったのですが、羽根がただ差してあるだけの作品、盗難の心配もありますので、アクリルケースに入れる事にしました。ケースの中では作品のインパクトは弱まるのですが、しかたありません。高い天井に箱形の移動壁、照明が漏れるので空間への影響を考え苦労しました。黒い壁面に写真を展示するのが効果的だが、現場での最終調整に差し障りあるので、三箇所だけに制限しました。廊下を通って広い部屋へ、出ると廊下でまた次ぎの広い部屋と続く動線。最初に眼に入る作品の印象を大切にして構成しました。有名なキキの写真や「天文台の時間--恋人たち」は解りやすい位置に。サドの部屋も用意しなければなりませんし。部屋毎に明るさを変えメリハリを付けました。「鑑賞のヒント」は最初、プレートにして壁面に貼るつもりだったのですが、字が小さくなりすぎるので、プリントにしました。」(文責;石原輝雄)
若くて可愛いらしい女性だが、展示センスの良さ、学芸員としての基本姿勢の確かさに脱帽した。昨日、わたしが会場で感じた事柄を伝えると、的確に反応して下さった。シンメトリックな構成、文献資料の扱い、展示プレートの絶妙なバランス。これから、さらに経験を積んでいかれたら、この人の演出に惹かれたファンの再訪が美術館にさらなる活気をもたらすだろうと期待した。
今日は油彩が上手く眼に入る。作品と展示の様子を点検したいと云う困った機能は眠り、楽しみと喜びをもって作品の前に居る。度の強い眼鏡に変えて会場を進むと「二人」の表面が輝いて見える。細部ではなく作品の佇まい、部屋の空間との関わり、全体を観ながら部分へと至るアブローチ。眼鏡のせいではなく、Wさんの解説がもたらすもの、作品との接点はいたるところにある。講演が始まるまでには時間があったので、館内のアート・アルシーブでカルボナーラ、バルビゾン風を食す。「ミレーの美術館」の常設展示室も観ながら「種をまく人」や「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」等の19世紀絵画の世界で遊ぶ。昔、バルビゾンのミレーアトリエを観光バスで訪ねた時の出来事を思いだした。21世紀のわたしたちにとっても美術の楽しみだからね。さらに、11月3日からオープンした新展示室での荻原英雄コレクションにあるダカカリ族テラコッタ立像の味をかみしめ、ソンゲ族仮面に唇を奪われる恐怖を感じ、楽しさは一人でも続く。売店で絵葉書を求めたり図書室で雑誌をパラパラしたり、『日録』の下書きも少々。
上段; 台座の上に「贈り物」と「家具つきホテル」
通路にパリ時代初期の油彩。
中段; ダダ・シュルレアリスム運動の公式記録員となったマン・レイ。
下段; パリふたたび、フェルー通り時代に作られたオブジェ群。
11月6-7日に訪問スケジュールを立てたのは、監修者である巌谷國士氏の記念講演が7日午後2時から総合実習室で行われる為。今回のテーマは「マン・レイをめぐる人びと---女性、モード、シュルレアリスム-----」で、わたしは、先生の講演を総て聴講したいと、全会場を見て回る計画を最初にたてた。10代後半に巌谷氏が訳された日本語でアンドレ・ブルトンの思想を知り、決定的な影響を受けた。氏を敬愛するわたしは、氏の追っかけとなって日本全国を付いて回ろう、氏のお話には新しいマン・レイ、魅力的で本質に迫るマン・レイ像が期待できると考えたのだ。
巌谷國士氏の講演は、「終わったらほうとうを食べに小作へ行きたいですね」とアットホームに始められた。「マン・レイをめぐる人びと、マン・レイは人の中にいたアーティスト。この人はむしろマン(人)であることが重要で、人間の中にいて人間の付き合い、ミレーの19世紀的な付き合いではなくて、現代人がどのように人と付き合うかと云った予言的な---」と続けられる、わたしは先生の言葉を求め、どんどんメモする。一時間ほどしてスライド、最後にはビデオと続いて4時30分に終了。それから、わたしは急いで会場に戻り、マン・レイ作品の雰囲気を身体に染み込ませたいと歩く、出口前の「フェルー通り」まで進み、順路をバックして正面から出た。マン・レイの展覧会が何時までも続いていると云う錯覚を求めるまじないに似た行為。これも、マン・レイと付き合う一つ形。
夕暮れ時のカフェテラスを観ると先生が幾人かの聴講者と話しをされている。わたしも同席し質問をしたいと思ったのだが、きっかけのつかめないままの時間となってしまった。甲府駅に出るバスの時間がせまる。美術館を後にする頃には芸術の森公園は暗くなり寂しさがつのる。大好きなマン・レイについて語り合いたいのに、人々の視線はわたしとは別のところに向かっている。
甲府駅身延線5.6番ホーム
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帰路は甲府駅18時44分発のワイドビューふじかわ14号。会社の土産に桔梗屋の信玄桃、自宅用に澤田屋のくろ玉。そして弁当を買い込む。最後の楽しみはビールなのだが、駅ビルのワインセラーで甲州ワイン、勝沼の白が目にとまった。これも楽しそうだとチョイス。「中で飲むからコップも頂戴」とお願いしたら、コルクの栓を抜いてくれた。気づいてよかった、乗ってしまってからでは、どうにもならないからね。身延線を静岡に戻りながら、上手いワインに上機嫌。旅行者はグループが多いけど、独り者には酒が友達。真っ暗な山道を静岡に向かって走る。わたしは泣いている。わたしにとってのマン・レイ、わたしにはわたしのやり方があるはずだ---
Novemver 7, 2004
● 『日録』掲載の写真は担当学芸員にお願いし特別に許可をいただいたもの。
フラッシュと三脚の使用は禁止されており、他の鑑賞者の迷惑にならないよう行った。
研究者にとって、現場資料のこうした蓄積は重要なアプローチであり、
美術館の好意に感謝する。山梨県立美術館のホームページへはこちらからどうぞ。
November 6, 2004
上段; 静岡駅でのクハ372-10 ワイドビューふじかわ1号。
下段; 芸術の森公園駐車場に停まるボンネットバス。
京都発6時21分のひかり260号に乗車してまず静岡に向かう。早朝なので空いているだろうと自由席にしたのだが、けっこうな混み具合、昨夜の就寝が遅かったにもかかわらず、5時前に起きなければならなかったので眠い。キオスクで求めた新聞を読みつつ岐阜羽島辺りからウツラウツラ、そのままで静岡着8時6分。ここで同15分発のワイドビューふじかわ1号に乗り換える。鉄道ファンであったわたしだが、身延線は初体験。富士山の景色を楽しもうと進行方向右側のD席を予約した。しかし、最初は座席が逆方向で進む、富士で進行が入れ替わり身延線に入って甲府をめざす。富士宮駅を出ると車内放送で「この線一番の景勝地」とのアナウンス、右手後方に雄大な富士山。それで、カメラを構えてウロウロ。クハ372-10は富士川に沿って気持ち良く走る。どうやら左側の座席の方が眼を楽しませてくれそうなので1号車10番D席から12番A席へ移動。川の流れと南巨摩の山々をぼんやりと眺める。ときおり鳴らされる警笛が新型車両には不釣り合いな重低音で、ドッキとしたりウトウトしたり。身延駅で対向の特急電車を待つ間に車外へ出るとひんやりとして気持ちが良い。紅葉が始まった山々、柿の実がアクセントとなっている村々。10時27分、甲府駅に到着。
美術館へのバスは43分発と調べてあったので、6番バス停へ行くと昔懐かしいボンネットバスが留まっている。早速に乗り込み女性車掌に料金を払うと、切符は5×23cmの薄い紙片で挟を入れるやつ。200円と70円のところにパンチ穴を開けてくれた。鉄道フアン時代にこうした切符も集めていたのを思いだして頼んでみると「どうぞ、どうぞ、アルバムに貼って下さい」と渡される。昭和41年いすず自動車製造のバスは四輪駆動で定員33名。当時の山梨交通カラーに塗られて、ガタガタ揺れながら現代の舗装道路を走る。どうやら、わたしが来たのは観光地であるようだ。
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上段; 芸術の森公園の特別展看板。
下段; 山梨県立美術館、
手前にエミール・アントワーヌ・ブルーテルの「ケンタロウス」像1914年。
さて、芸術の森公園内に文学館を挟んで建つ山梨県立美術館はジャン=フランソワ、ミレーの「種をまく人」をコレクションしている事で知られる「ミレーの美術館」、1978年の開館以来多数の来館者を獲得している。ブルーデル1914年作のケンタロウス像と煉瓦色の建物が重厚な印象を与え、ナダール撮影のミレー像が大きな垂れ幕となって壁面を飾っている。ピロティ奥に「わたしは謎だ。」とマン・レイ展の告知。まずまずのアプローチである。さっそく受付で依頼していた撮影者用の「報道」と書かれた腕章を受け取る。これには葡萄が図案化されていて山梨だと早くも納得。
特別展示室は二階。受付から上がって、まず白地に文字のみでマン・レイ展告知を確認。左に折れてカウンター。正面にメトロノームが2台。これに挟まれて油彩にデッサン・コピーを貼り付けた「永遠するモティーフ」、黒い壁に画面の黄色が強烈なインパクト、こいつはいけるぞと期待が膨らむ。展覧会は導入部のイメージで決まる。担当者のコンセプト、力量がそこに集中して現れているのだ。左側にエディション・マット版の「破壊するべきオブジェ/破壊できないオブジェ」、近づくと館外の紅葉が橙色のアクセントをアクリル・ケースに与える。これは透明なキャンバスだ。中央は黒い額に黄色く塗られたキャンバス、黒色の筆記体で「perpetual motive man ray」の文字が三段。振り子の動き、破壊の衝動を表す赤色の吹きつけ、マン・レイらしい一品である。右側はウイルソン・リンカーン・システムで眼がウインクする最後のメトロノーム「永遠するモティーフ」、シンメトリックな壁面構成である。
会場に入ると最初の通路にはセルフポートレイトとアトリエ等の写真。右手前からスティーグリッツ撮影(?)の20代のポートレイト、割れたガラス乾板による30代、カメラを構える美しいシルエットの40代前半のソラリゼ、髭の片方のみを剃った50代のもの、パイプをくわえ髭を伸ばしたままの写真、この横に自由な手に収められているプロンズ製のセルフポートレイト、そして、リトグラフの一点。こうした本人の流れをしっかりと止める位置に書籍の「セルフポートレイト」が置かれている。マン・レイ展の四会場目で初めて遭遇したセルフポートレイトのベスト・セッティング。前述のセルフポートレイトの内の4点をコレクションしているわたしは、連帯の挨拶を送る。マン・レイのアイデア、作品相互の関連、自伝的要素といったものが、視覚的な物語の進行に伴って、より多角的に理解出来る。
「自由な手」のコーナーも良い。観客を誘う黄色の球体、意志を持った手、強く美しく魅力的である支配者の手。これが、夢の情景を表す緑色の手「育児法II」に繋がり、その指先が指し示す先に、巡回展後期二館の目玉作品「二人」が掛けられている。前回観たのは1996年の西武美術館(今は無い)、天井の低い会場だった。今回はゆっくり、ゆったりと一人で対面、細部のテクスチュアを記憶に留めようとする。先年の「モダニズムへの変革;マン・レイ初期絵画展」の折りに担当者のゲイル・スタビィスキー女子が、出品を希望し作品の所在をわたしに尋ねてこられたので、お知らせした事があった。残念ながら里帰りとならなかった油彩だが、わたしは今日の再会を楽しみにしていた、わたしがコレクションしているマン・レイの初個展(1915年、ダニエル画廊)カタログに記述のある作品、こいつはすごい事なのだ。上向きの女性に覆い被さる男。愛の仕組みがボリュームを持った形態と、三角形の構図で纏められている。後方に描かれた寄り添う男女の夢なのか、ラクロワとの愛の時代、キュビスム時代の傑作である。表面を点検すると素のままの緑色の絵具、筆跡が瑞々しい。作者24歳の作品である。さらに見ていくと額縁の左上部側面に「SOTHEBY'S 57 New York」と印した円いオークション・シール。前回は画面に近付けなかったので気が付かなかったが、今回はどうだ、生きた絵画の物語ではないか。さらに接近するとキャンバスの裏面に幾つかのシール、こいつも気に掛かる。額縁の下側、画布との間に付着する埃をも目にして、保管場所から直送されてきたような臨場感にみまわれる。もっとも、展覧会の会場で埃が祓われないままの油彩と云うのをわたしは他に知らない。
上段; マルセル・デュシャンの肖像二種、
ケースの中に「ソシエテ・アノニム・コレクション」のカタログ。
中段; 詩人エリュアールの夫人、ニュッシュを捉えた写真、
下には、詩画集「容易」の開かれたプレート。
下段; 左の油彩は「おわりよければすべよし」1930年代の写真と
コプリー画廊の美しい紙面。
「二人」が掛けられた壁の裏面はニユーヨーク時代となっていて、デュシャンの一角にはソシエテ・アノニム・コレクションの濃紺のカタログ。その上部に青色の「ローズ・セラヴィの肖像」と「マルセル・デュシャンの肖像」。色彩の対比が時の移り変わりを視覚的に示している。監修者の巌谷國士氏は埼玉での講演で「今展では文献資料も芸術作品と同等に扱い、作品に則した展示を心掛けた」と発言されたが、今会場では見事にこれが実現され、資料好き、本好きのわたしは嬉しくなった。さらに進んで行くとパリ時代に入り、ダダとシュルレアリスムの公式記録員であったマン・レイの写真の仕事が纏められている。この中央にはマーク・ケルマン・コレクション出品の凝った造りの箱型額縁に収められたシュルレアリスム本部における集合写真(1924年)。手前に置かれた大型平台の中に運動を跡づける資料。右上奥にシス書店ダダ・マン・レイ展カタログ、左奥にはピエール・コル画廊のもの、今日は別の紙面も開かれている。人名のタイポグラフイ最後がトリスタン・ツァラ、その下に「LA CADAVRE EXQUIS」と続く。三本指の指紋が残されているけど死体じゃない、上手いデザインで、わたしが年初に作ったフィンガープリントを連想させた。「まさか下落合の詩人もこれを」と思うことにも臨場感がある。展覧会の小物達、わたしが惹かれるもの、写真と共鳴して1920年代、30年代へと拡がって行く。展示の効果が現れる。
「容易」の頁3点が絶妙なバランス、動きを伴う位置関係に置かれ、右側の表紙部分とマッチする。これらが入ったケースの上には個人コレクションから出された「愛」と「クラブの女王」が掛けられているが、アールデコ風の額で持ち主の趣味が現れ、微笑ましく楽しい。美術の楽しみはこれなんだ。人の手の上にあってこそ魅力を発揮する書物「容易」。展示の仕方で、こうした感覚が伝わる事を知ったのは大きな収穫となった。感謝。
サドのコーナーの手前にも大きな平台があって、こちらの方には大判の「エレクトリシテ」や「マン・レイ写真集1920-1934」、「写真は芸術ではない」と「ロートレアモン全集」。どちらからでも見れるように上手く配置されている。示された紙面、空間と画像、今回の展示で関心させられるのは書物の扱いである。
続く5番目の部屋はハリウッド時代で、大好きな「鍵の夢」が帰国した寂しさを忘れさせるほどに油彩「視点」が的確に掛けられている。今回は斜めになっていないので掛け方を確認したかったのだか、顔を近付けても判らなかった。触れないのだから当然だけど。壁面には「シェイクスピア方程式」のシリーズが写真と油彩を使って連続的に表現されて、下部のケースにコプリー画廊のカタログ「目立たずにつづけるべきこと」展カタログ。黄色い三角の紙と薄青色の心地よい表紙。何故かここにはシュルレアリスムの葉書シリーズから「われわれすべてに欠けているもの」が抜かれて、ピンクの色彩となって置かれている。カタログの色彩バランスがイエロー、ブルー、ピンクであるから、葉書に気付いて担当者の遊びに感謝した。ここでも頁をめくった時に感じる手触りが視覚的に再現されている。しかし、四会場目での初遭遇、これまで、どこにあったのだろう。
宮脇愛子さんのコーナーではイオラス・カタログ「パン・パン 回転扉」に写真が一点、それに鳥とマッチ箱の記念品で、バランスが洒落ている。移動壁の突端には「指示器II」、下部のケースに資料が3点。ハーノーバー画廊のアルミ板に刷られた赤い図形が上部の展示品と繋がり、コルディエ・エクストロム画廊カタログの紺色とマッチする。これまで普通の壁面に掛けられていた「指示器」が、形態を強調された位置に置かれると、作者の意図が充分に伝わる。いままで、そんなに面白いと思っていなかったので、反省した。
そして、部屋の反対側、巨大な「ばら色の画布」の下に置かれた平台には後年の活動を示すカタログの数々が置かれている。封印された星画廊カタログの折られた感じが気持ち良いし、パリ国立図書館カタログの赤、「レイヨグラフ1921-28」の赤、アルフォンス・シャーブ画廊カタログに刷られた「非売品」の赤い文字、これらが壁面のばら色に反応している。その右側から始まる黒い壁面、中央にオブジェの「イジドール・デュカスの謎」、左が1920年の写真、右には「謎」が車に乗せられた奇妙な風景画「フェルー通り」。シンメトリックな構成で、本会場入口のメトロノームと対をなした出口を作っている。映画の古典的手法にみられる、物語の終わりが物語の始めにつながる仕掛け、循環構造が精神に心地よい。
大型の平台にダダ・シュルレアリスムの文献資料。
山梨県立美術館でのマン・レイ展「私は謎だ。」は、観客を当惑させる悪ふざけ、起立したユーモア、時代をめぐる臨場感、観客の驚き、作品への興味と興奮。こうした部分には重点を置かず、上品なマン・レイが演出されていると感じた。会場の随所に設えられた資料ケースの扱い、シンメトリックな配置がある種の祭壇を構成する雰囲気。この前で手を合わせ祈りを捧げる行為をわたしはしていた。わたしの感情によるのではなく、担当者の解釈がさせる行為。デザイナーなら直線を合わせ、建築家なら柱の角を合わせる。額縁の境界を几帳面に揃えるやり方は、落ち着き、安定した空間を演出する。オブジェ達の随所に置かれた「触れないでください」のサインと赤丸に斜線の手形マークは目障りで困った物だが、ミレーを観に美術館へやってくる人々には、巡らした結界と共に致し方ないことなのだろうと諦めた。何度も会場を行き来すると、こうした物も気にならなくなり、美術館の内部が幾つもの祭壇で区切られた大規模な教会である事の方に納得させられた。文献資料が格別に美しく生き生きと置かれている---
日暮れ前の一時、カフェ、アート・アルシーブのテラスで温かいミルクティーを飲みながら、観光客や土地の人々、親子連れや犬を散歩させる婦人を観ながら、いろいろな事を考えた。この椅子に隣接した建物の中に大好きなマン・レイがある。欲しくて気の狂いそうな油彩がある、間には乗り越えられない資金の壁。作品はわたしから無限に遠く、心は夕暮れにつれて閉ざされて行く。紅葉した樹木から落ち葉が一つ、ひらひらとわたしの上に落ちてきた。
アート・アルシーブのテラス。
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さて、美術館を後にして予約した東横イン甲府舞鶴城公園へチェックイン。夕食は甲府名物ほうとうで知られる駅前の小作を探索。ほうとうと云うのは「餅の類、うどん」で「武田信玄が野戦食として用い甲州独特のものであり甲州人の誇り」の郷土料理らしい。南瓜のほうとうが基本らしいのだが茸好きのわたしは茸ほうとうを注文。松茸御飯と漬け物のついたセットで1950円。まずビールと。名古屋人としてはきしめんを太く柔らかくした白味噌の煮込みうどん、山菜、南瓜、茸入りといったところ。暖まるが量が多い、ビールが一緒だと死んでしまいそうだ。追加のビール、馬さしを断念。飲みたいけど飲めない、決壊してしまうよ。店のおばさんと世間話をちょっと。腹ごなしに平和通り、銀座通りとブラブラ。早い時間の夜だけど地方都市のシャッターは閉まっている。ホテルに戻って土曜日定番の「ナースマンがゆく」を観ていたら眠くなってきた。部屋でビールを飲まない夜なんて初体験だ。「ほうとう」にあきれた夜となった。
茸ほうとうセットと瓶ビール。
甲州ほうとう小作
甲府駅前店
甲府市丸の内1-7-2
電話 055-233-8500
November 5, 2004
明日はマン・レイ展を観に甲府へ出掛ける。早朝の新幹線で静岡へ行き、乗り換えてから現地に入るのは11時過ぎを予定。マン・レイ達と4度目の再会。さて---。 遅い時間に帰宅した長女に付き合ってマックの環境設定。エアーマックもスイスイ接続できて、さすがにMACと関心。でも眠いな、早く起きなくては---
November 4, 2004
土、日の甲府行きチケットを買いに京都駅へ出る。デュシャン展の写真を受け取り『日録』を書き込む。
November 3, 2004
鴨川上段三条大橋から鴨川を
京都国立近代美術館のカフェテラスから
昨日、来阪された友人を京都に案内する。建築家S氏のリクエストでまず三条高瀬川の安藤忠雄設計のタイムズへ。設計のアイデア、好みは別として建物のメンテイナンスについて専門家の意見をお聞きする。20年も経つとコンクリートブロックのピンホールから入った雨水が鉄筋を浸食し赤い錆びが表面ににじみ出ている。面白い絵柄だが建物にはダメージを与えているようだ。それから星野画廊、山崎書店と紹介し、「新説京美人展」開催中の京都市美術館へ、文化の日のイベントで「舞妓さんと語る京美人」の催しと遭遇、会場の記念写真コーナーで出会ったので写真希望者としてすぐに手を挙げた。それで舞妓さん、芸妓さん達と記念写真。美術館のA氏にシャッターを押してもらったので、わたしも画面に参加できた、良いね芸妓の美帆子姉さん、夜の祇園町でお会いしたい。おじさん達は白粉の香りで夢心地になって、向かいの京都国立近代美術館へ。ここも槙文彦設計の注目された建物、外見、内部と見学しカフェ505でコーヒーブレイク。昔の美術館も好きだけど、テラスでビールを飲みながら無為に過ごす時間は豪華だ。疎水に流れる風がひんやりと肌に気持ち良い。東京の二人も午前中に再訪した国立国際美術館の喫茶室を話題にしながら、京都は良いね、空気が違うと御機嫌。そして、ギャラリー16へ、坂上さんを紹介し井上さんに昨日の御礼を伝え、京都の雰囲気をお裾分け。さらに大江匡設計の細見美術館へ。昨日、大阪でデッサンをされていたS氏も、雑誌だけではわからなくて、実地の印象がアイデアにつながるんですと満足の様子。ブラブラと古書店を覗き、鴨川を渡り京都ホテルの景観論争を少々。その後、高瀬川を左に下がってアジアンバーのメリー・アイランドをT氏が発見(わたしも二人を案内しようと思っていたのだが)、店の雰囲気に惹かれた様子で聞くとデュシャンの色は緑だからとの事。軽くピザやトーストをつまみ、ワインとビール。通りも日暮れて街も良い感じ。T氏は「今回のデュシャン展、教科書的でどうもね」と、わたしと同意見、こうなると、ビールもワインもお替わりとなって、すぐに新幹線の時間となった。在野と職業人とのシュルレアリスムに対する姿勢の違いはと話題はつきない。
上段;メリー・アイランド
下段;三条京阪で二人はタクシーに乗り込んだ
November 2, 2004
国立国際美術館の招待者内覧会は午後4時から。早めに会社を出て淀屋橋のアート遊に寄る。「マルセル・デュシャンと仲間達」展(12月18日迄)が開かれていて、展示品はシュワルツ版「大ガラスと関連作品」、1947年「シュルレアリスム展」カタログ豪華版、ヴァン・ド・ヴェルド画廊「マルセル・デュシャン展」限定版カタログといったもの。仲間達はエルンスト、アルプ、ベルメール、タンギー、ミロ、ラム、マグリット等の版画、もちろんマン・レイも「ファッシール」と「大人のアルファベット」で参加。それぞれに値段が明示されているので楽しく怖い。「ファッシール」を見せてもらったが、画廊の女性の白手袋の先で捲られるのみで、指先の感触はお預けといった状態。エルンストの版画「かわいい子羊」は四日市の先輩S氏がコレクションしているのと同じ物、S氏は作家の痕跡があるのはいやだとサイン無しを当時、求めたと云っていたが、今日展示されていたのは、サインと献辞のある限定番号14/100、価格は241,500円。妥当なところか。エルンストのリトグラフ・ポスターがあってこれにはちょっと心が動いた。動いただけだけどね。
それから、石川さんを訪ねてCaloBookshop&Cafeへ。彼女の店主日記を毎日読んでいるので親近感、大なのである。日記を訪問する事とはなんだろう、彼女もこの「マン・レイになってしまった人」を訪問して下さっていて、「ディリー・スムース」「ナンダロウアヤシゲな日々」と回遊されると聞いた。そして同じビルの二階にあるサードギャラリー・アヤへ、浅田暢夫氏の「海のある場所」展が開かれていた。水平線を持たない海面と雲。波間の表情が自然写真でなく心象風景になっていて、しかも、迫力ある存在感。作者は水中カメラを使い、海水に浸かりながら撮っているとの説明。良い写真だ。そんな話を聞いていたら作家の鈴木崇氏が現れた。江戸堀界隈の画廊地図も変わってきた。カロとアヤのあるビルの東側にコウイチ・ファインアーツがあって、石川さんに教えられ急いで覗くと、作家の今井祝雄さんとばったり、驚いていると安東奈々さん呉本俊松さんと続けて会って、今日のレセプションの関心の高さに納得する。今井さんと話をしながら肥後橋を渡って中之島へ。パワータワー大阪と云うマンションギヤラリーのところにかって具体美術協会のピナコテイークがあったと教えて頂いて、今井氏をパチリ。通りに出ると万博公園から移転してきた国立国際美術館が唐突に認められた。
油彩「花嫁」に見入る林哲夫画伯。
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上段;中央の4人は「階段を降りる裸体、No.2」観ている。
中段;レディメードを前にした観客。奥に「泉」
下段;「大ガラス」東大バージョン
ザー・ペリ設計による建物は地上1階地下3階。展示室を地下にとった特異な構造の美術館である。地上のオブジェ的構造物は竹のイメージ、エスカレーターを降り、乗り換えると左面にきちんと移設されたジョアン・ミロの陶板「無垢の笑い」があって圧巻。展示室は地下2、3階に大きくとられ、グランドオープンを記念する『マルセル・デュシャンと20世紀美術展』は地下3階を会場として開かれている。エントランスを取り囲んで招待者の数がすごい、お祭り気分でハイ状態、これではデュシャンを鑑賞する事なんて出来ないねと、祭り好きとしてはワクワク、キョロキョロ状態となってしまった。
最下層に降りてから狭い通路を抜け会場入口へ、吉村益信氏の「大ガラス」とトニー・クラッグの「スパイロジャイラ」に挟まれて展覧会の挨拶を読むことになる。吉村氏の不気味な視覚的地口を引きずりながらの対面である。最初から油彩4点が視界に入る、いや、この場合は人が多すぎて作品ではなくて人を、それも友人、知人、有名人といった顔、立ち姿が目の前を動いて行くので、挨拶をしたりして、すぐに作品との対話を完全に放棄してしまった。最初の内の一人はスムースの林哲夫氏で立ち話をちょっとして、油彩「花嫁」に近づいたところをパチリ。政財界の著名人を知らないが、画家や画商、美術館関係者やジャーナリストの方々と何年振りかの再会が続く、東京からの人も多い。デュシャンピアンのK氏夫妻もこの夜の為に来阪されていて「マン・レイは作品が多く、いろいろ集めて展示すれば、それらしい展示が出来るし、マン・レイの作品はその方が似合うのだけど、デュシャンの場合は作品数も少なく、相互の関連が大切で、一つ二つポンと置いても解らないままなので、どうしてもデュシャン展をやろうとすると大規模になってしまうんだよ」と教えられる。人の波の奥に「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」が227.5×175.0cmの大きさで建っている。この東京バージョンとは軽井沢、池袋、今回と三度目の対面だが、どこかあざ笑っている印象を持った。最初に観た時(1981年)、独身者の機械や7つの濾過器の朱色や花嫁のいろいろな部位にのせられた淡い色彩がエロテックで、神秘的な美しさをたたえた「大ガラス」だったのだが、今宵はゴメン、解らない。ガラスを囲んで、版画のシリーズや写真、壁際に押し込められたレディメードとの位置関係が、わたしの想像上のモデルと違う。これは、解釈ではない、作品の呼吸を知っているか否かの問題。感性ではない、オリジナルと後年のバージョン、すくなくても、最初の状態を意図して作られた東京バージョンに対する、先人への挨拶を、する気があるのか否かといった関わり。先程、大先輩のK氏が「評論家もコレクターも世代交代してしまったから」と云われた言葉が意識に残る。
「沈黙の時代--<大ガラス>放棄以降」の時代を抜けて「遺作」が隠された一角に近づき、わたしもふたつの眼差しで覗いてみた。フィラデルフィア美術館のそれと、どう異なるかはわたしには不明だが、やはり立体像の中に動きの要素があったはずで、眼を凝らして探してみたのだが、上手くいかなかった、虚ろな幻想であるとしてもである。強烈度が劣るのはしかたのない事、疑似体験の疑似であるゆえん、いっそ軽井沢でそうあったように、注釈の言葉、解説が書かれている事の方が、潔いのかと---覗こうとする人達の長蛇の列、K氏ご夫妻は手前のベンチに腰掛け、距離を置かれているご様子、楽しみとともにあるとも受け取れるのだが。
「遺作」は順番に---
この後、展示はデュシャンに影響を受けた20世紀の画家達への展開となる。呪われた画家達の系譜、網膜的画家には分が悪い。デュシャン流の洒落と対峙するためには強靱な知性、視覚的楽しみがいる、どの作家も呪縛から逃れようとするもがきばかりが、気に掛かる。丁度、ロケットを打ち出すときの補助エンジンばかりで、わたしには大味の感が残る。「シガー・ボックス」の詩人は別格として、今日、わたしが反応したのは、荒川修作の「小さな細部としてのデュシャンの大ガラスとともにある図式」とゲルハルト・リヒターの「エマ」。凸凹の通路と化した展示室のいくつかを、ぬけると展示は終わる。最後辺りのTシャツや売店に置かれた商品達が、なにか、違和感とともにある工業製品で、デュシャン以降の作家の仕事がゆらぎ、消えていった。以上が1時間に限定された招待者内覧会でのわたしの印象。デュシャンについて論ずる事は『日録』には重いが、網膜の記憶を報告するのは可能だろうと、無謀な企てをここまでしてみた。いけない、デャシャンの呪縛圏内から逃れなければ---
除幕式の関係者。
左より辻村哲夫(国立国際美術館長)、
宮島久雄(独立行政法人国立美術館理事長)、
河合隼雄(文化庁長官)、
シーザー・ペリー(設計者)
5時になると参加者は地上に上がり、除幕式に参加。その後、地下1階に降りて開会式、レセプションを向かえることとなる。千人近い人、もっと多いかもしれないが、主催者挨拶、協賛社挨拶と続き、来賓のジャクリーヌ・マチス・モニエが、義父デュシャンがレディメードの娘を持った様子などを語った。乾杯の発声にも長い前振りがあって、ギャラリー16の井上道子さんにビールを注いでもらって乾杯できたのは6時30分を回っていた。パブリックフロアでもしばらく、いろいろな人と世間話、それに、ワインを何杯か。横浜の友人T氏は「プレキシグラス製の遺作のための習作を始め、今回の目玉は3点あって、もちろん「大ガラス」、もう一つは富山県立美術館より出品された特装版「トランクの箱」」と業界の評判を教えてくれた。レセプションでリーガロイヤルホテルのお菓子が美味しいと全種類に手を出していた家人と長女は、「トランクの箱」が素敵ねと、ちょっとしたデュシャン通。もっとも、二人には「偽りの風景」についての知識がないので、おせっかいなわたしは展示ケースの場所まで二人を連れて行って解説。大きなお世話かな。
わたしは未見のデュシャンに出会えるものと、今回の展覧会に期待が膨らんでいた、しかし、ほとんどが国内コレクション。かって、出会った時の印象が作用して今日はよく見えない。油彩の4点も素晴らしいけど作品との出会いは難しい。会場の雑踏で関係者の方が外国女性に「ヨシアキトオノ」と語っていたのが聞こえた。残念な世代交代の時代、軽井沢でデュシャンを観たとき東野さんを初めとしたデュシャン学(?)の熱気が会場に充満していたような気がする。家人と連泊したペンションにデュシャン展のポスターを貼って楽しんだ夏。素晴らしい油彩画家としてのデュシャンを知った夏。20年以上も昔の事だ。今日、ここにあるデュシャンの「階段を降りる裸体、No.2」は遠く、マン・レイはよそよそしい。1960年代のインタビューで友人についてばかり尋ねられたこの人は「判っているだろう、デュシャンじゃない。わたしはマン・レイだ」と応えている。
特装版「トランクの箱」
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上段;レセプション開始を待つ招待客。
中段;地下1、2階部分。
下段;最下層の地下3階、
エレベーターの影に
「吉村益信氏の「大ガラス」が認められる。
数人で車に分乗し梅田に出て歓談。建築関係の方がいらっしゃったのでシーザー・ペリ設計の建物について、いろいろと教えて頂く。地元のH氏が「東京の方には是非とも」と食後にたこ焼き屋へ案内して下さり、ビール片手にアツアツ、パクパク。楽しい夜となった。深夜、何故か花粉症の発作で眼が覚める。「落ちる水」なのである、デュシャンの毒が回ったのか、アルコール切れの頭には刺激のみが残る。「遺作」は「扉部分をビデオ映像、内部をステレオ写真によって再現」されたものなのだが、会場で前の男が左へ振り向き消えていった画像が夢のように、わたしを何処かへ引き留める。現実でありながら夢であるように、我が身体から「水」が何時までも流れ落ちる。デュシャンの遺作の題名は「与えられたとせよ 1.おちる水 2. 照明用ガス」どうも、よく解らない。
夜のエントランスゲート
November 1, 2004
大平具彦氏によるトリスタン・ツァラ論「言葉の四次元への越境者」(現代企画室1999年刊)、227頁の辺りで挫折。雑ぱくになったわたしの頭では、苦痛になってしまった。この先にもツァラの詩業があるのだが、どうも展開がね。