中西武夫への手紙

manrayist2007-10-13

 10時に京橋の東京国立近代美術館へ。目的のアートライブラリー開館まで30分あったので、常設展示と崩壊感覚をざっと観る。宮脇愛子さんや小本章さんのマン・レイに関するエッセイの載った「現代の眼」のバックナンバーをコピー。データ・ベースで他の資料も検索、1985年にベオグラードで開催されたマン・レイ写真展と東京画廊の1967年のカタログは未見。後者では3点のマン・レイ作品が招来された事が判った。この内で日本に残ったものがあるだろうか。工芸館はあきらめ、飯田橋から大江戸線乗り継ぎで、本郷三丁目アルカディア書房へ。
 昨日、訪問出来なかったが、今日は店主のYさんがいらっしゃったのでお話をいろいろ。「ヨーロッパでは品物が無くなり、最近は日本に買い付けにくるよ」などとご時世を嘆きながら、「マン・レイの紙モノはありませんかね」と雑談。今日はゆっくり棚を拝見といきごんでいたのだが、量が多くて捜している感覚を無くしてしまう。集中が続かないのよね。Yさんが「そうそう思い出した」とスクラップ・ブックを取り出し拡げてくれた。なんと、そこにはマン・レイの手紙が貼り付けてあるではないか。カンパーニュ・ブルミエール街のアドレスと電話番号が赤いタイポグラフイーで印刷された便箋。内容はアポイントの確認だから、どうって事ないけど、マン・レイのサインが素敵なんだよね。先程、「現代の眼」で宮脇愛子さんが「私はマン・レイのサインの字が殊のほか好きだったのですが」と書いていたけど、この手紙のサイン、勢いがあって、彼が42歳の時のもの、素敵なんだよね。ぞくぞくしてしまった。でもね。高額なんですよ、まいりますね。宛先は中西武夫(註)、スクラップ・ブックには沢山の手紙が貼り付けてある。30年代の前半にロンドン、パリ、ペルリンと回っていろいろな関係者に会っていたのだね。手許のミシュランで確認するとオペラ座の東側辺りのホテルに宿泊していたようだ。

 丸の内線を淡路町で降り、源喜堂書店を覗く。先程の手紙の魅力がぐるぐると頭を巡って、資料を捜す気力が失せてしまった。今回の上京目的には、国内でのマン・レイ作品出品展覧会カタログの収集があったのだが、もう遅い。作りかけの本への作業より、戦前の手紙だよな、マン・レイのサインがわたしを編集者からコレクターへ連れ戻す。大勝軒で遅い昼食の後、待ち合わせの田村書店へ。一階と二階でお話をした後、友人と二人でギャラリーかわまつへ。6月に開催されたマン・レイ展での水彩「黄色の物体」が気になっていて、現物を拝見したいとお願いしたのだが、既に手放された後だった。カタログの説明にあったコラージュの様子などを教えてもらう。画廊では北川健次氏の新作銅販画集の刊行記念展が開催されていて、魅力的で精悍な顔立ちの作家にお話を伺う。サンシュルピス教会の近くに住んでいたことがあり、よくマン・レイのアトリエの前を通ったと言われた。次の予定時間がせまり、九段下から早稲田へ移動。

 早稲田大学の谷昌親、塚原史両先生が主催するダダ・シュルレアリスム研究会に出席。発表は渡邉麻衣氏の「フレデリック・キースラーにおける現代性----「エンドレス」というコンセプトから----」と谷昌親氏の「シュルレアリスムにおけるパリの視覚的表象」。キースラーについては、「迷信の間」の構想における環境芸術家の部分よりトリプル・ベーの装幀家マン・レイのカタログや著書の印刷協力の興味で観ていたので、渡邉氏の「時間と空間が意味を持たない現代における、宇宙空間、地下空間(インフラ)、脳内空間、情報空間」という物理的な真っ黒い空間と脳科学とインターネットとのバーチャルな空間で示されるエンドレスへの指摘は面白かった。氏によると人は真っ直ぐには歩かないそうだ、直線の壁が示すものとは、なんだろう。谷氏の時間にはアジェやボアフォールの写真スライドを沢山見せていただいた。ミノトール第7号に載ったダリの写真の糸巻き発見なんて、見る好奇心だね。拡大された映像を見ながら知性について考えた。

 研究会の出席者はおよそ30名、高田馬場辺りまで歩いて一杯。懐かしい人、若い人、それぞれに世間話。料理も美味しかったので飲み過ぎてしまい、カメラを忘れる。店の前で現役生が気付き渡してくれた----有難う。二次会では赤ワインとさらに酔っ払うが、カメラは手から離さないままで過ごす。そして12時を過ぎた。東西線の最終で日本橋まで。車中で「芸術作品には自由度が高い、建築はクライアント(お金)と技術が絡み合って微妙な問題を含んでいます」と若い女性から伺った。地上に上がると深夜の街、方向感覚を失い、街をウロウロ。まさしくのエンドレスとなってしまった。

(註)帰国後、宝塚少女歌劇星組(大劇場)のオペレット・レビュウ「憂愁夫人」(1934)を企画・演出、「ベートーヴンの手紙」(1928)訳、「東亜の舞踏」(1943)の編訳などがネット検索情報、詳細は後日。