一角獣を抱く貴婦人と評伝竹中郁


画箋堂で材料を購入した後、松原橋から鴨川を渡り祇園を抜けて京都国立近代美術館へ。チラシを飾るラファエロ・サンツィオの傑作「一角獣を抱く貴婦人」(1505-06年)が気になる開催中(12月27日迄)の展覧会「ボルゲーゼ美術館展」を観る。会場に上がって直ぐの右手の人だかりの先に気品に満ちた婦人の肖像。でも、人垣が左のプレート側にかたまっているぞ---どうやら守護聖人アレクサンドリアの聖カタリナ」としてマントと車輪が加筆されていた頃の写真(修復前)。イタリア人美術史家ロベルト・ロンギが描写の不自然さに気付き1927年に絵の洗浄をさせると、下から一角獣が浮かび上がったと云う。剥落のひどい肖像だったというが、会場の油彩は500年以上の時を経た今、瑞々しい光沢を持っている。写真と現物をどうしても見比べてしまうがイタリア絵画の素晴らしさ、天才ラファエロに感服する。フランスの画家達がイタリアの古典を学んだのは理解出来るなイタリアこそ文化、産業、国力の勝った国だったのだ。この展覧会にはボッティチェリやカラヴァッジョが招来されているが、わたしの眼にはいまひとつ。ルネッサンスの巨匠達の完璧な表現、特に「手」の表情の魅力がバロックになってなおざりにされる様子がよく判るな。劇的な表情を示す指先といった視点からパオロ・ヴェロネーゼの「パドヴァの聖アントニオの説教」(1580年頃)にまいった。遠近法の効果によるが、指先は意志のあらわれだな、関節があって、解剖学的にも知的だ。同展カタログで岡田温司がモレッリ方式を紹介している「そもそも、いったいどうすればある絵の作者が誰であると判明するのだろうか。目利きと呼ばれる人たちは絵のどこをどう見て、その作者の名前を言い当てるのだろうか--(略)--しかもその細部とは、絵の中に描かれている人物たちの目じりや耳たぶ、指や爪の表情である」(53頁)、会場は混んでいたけど、ギャラリー・スコープで指先をしっかり確認した。--売店で絵葉書を求め、常設展示をブラブラした後、隣の府立図書館で図書の返却と、必要なコピーを4冊。どこまでも調べ物が続く。


 さて、銀閣寺の善行堂まで自転車を走らせ、ソムリエ氏と雑談。氏のブロク11月29日に「河野仁昭『戦後京都の詩人たち』---京都の詩人、詩誌に興味をお持ちのかた、入手をお急ぎください。2004年、編集工房ノアの発行」とあって、すてっぷ発行所版かと躊躇していたら、「増補改訂との説明」すでに売れてしまっていて、現物を確認できなかったのが残念。わたしの住まいからだと登りになるので自転車を走らせるのはきついけど、マメに訪問しなければと反省。しかし、重要な詩集二冊と竹中郁研究のバイブル、足立巻一の「評伝竹中郁 その青春と詩の出発」(理論社、1986年刊)をお譲りいただく。三冊の内、二冊は、先ほど府立図書館で返却したばかりのもの。コピーでは原稿書きのイメージが湧かないのよね、著者に申し訳なく思うのよ、コトバの引用ではなくて、精神のバトンタッチでなくてはならない。話し込んでいたら京都写真クラブのN氏に声を掛けられる。ご自宅が近いので、お会いする機会があるかと思っていたけど、今日、始めて入店されたとか。ご自宅の蔵書と重なるものが沢山店内にお有りとの事、恐るべし。

四条中新道 日本写真印刷の電飾