(2) ヤーヌス(マン・レイ・コレクター)からの絵葉書

絵葉書に使われている彫刻の人物についての知識を持っていないが、これは、マン・レイの世界的コレクターであるヤーヌス氏から送られた絵葉書。消印は、1990年5月22日。氏は当時、イタリアのトリノに住んでいて、わたしが送ったコレクション・リストへの返信として、適切なアドバイスをいただいた。今回展示品への選択は、青い色彩の共通点かと思うが、ちょっとした謎でもある。
 ヤーヌス氏を知ったのは、銀座のアテネ画廊でマン・レイの版画を求めた後、京都にもどってマン・レイの事を知りたくなり平安堂書店で見付けた、イタリアで刊行中の巨匠画家シリーズの一冊「マン・レイ」---版画よりも高額だったと記憶する。ヤーヌス氏の名前を身近に感じたのは、朝日新聞社が刊行した、最初の「マン・レイ写真集」で、掲載された肖像写真の人物特定に協力した時、テキスト執筆者としての氏だった。イタリア人の氏は母国語へマン・レイを移しながら、マン・レイの精神を普遍的なものにしていった。マン・レイ狂いの先達として頭が下がる。

[ヤーヌス(マン・レイ・コレクター)からの絵葉書]

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名古屋時代の友人・山崎正文が上洛。今年は友人も京都写真展出品作家なので、マロニエ画廊3階で待ち合わせ、作品についての話題をいろいろ。タイトルと出品作との関連が判りにくいが、友人の写真に対する姿勢であるそうだ。忙しくて土・日に動けない氏に変わって展示を代行したのだが、自宅で展示確認をしていた時に感じた写真の放つ「淋しさ」が、画廊空間では無くなって、より客観化されたイメージになっているように思う。写っている女性は、中部学生写真連盟時代の仲間で、ともに写真について語り合った人。後に友人と結婚されたが、残念なことに、体調をこわされ亡くなられた。わたしが、写真を観る時、その事に左右されるのはしかたがない。残像となって女性のイメージが部屋に漂う。悲しく寂しい事柄である訳だが。作品として展示されたら、みごとに消えてしまった。供養した事になるのかな、不思議な感覚である。

山崎正文 『活動と参加』 活動とは、課題や行為の個人による遂行。参加とは、生活・人生場面への関わりのこと。活動制限を個人の問題としない。参加制約を個人の問題としない。写真の活動制限、写真の参加制約、個別的精神機能は制限・制約を受ける。写真には、リアリスティックな感動が含まれている。

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左: フィレンツェ書店の書留小包 右: ヤーヌス(マン・レイ・コレクター)からの絵葉書

昔を思い出して、蛸入道で一杯、それから四条烏丸ココン烏丸1階のパリ風カフェ・オーバカナルのテラスで白ワイン、ついで赤ワイン、ちょっとオードブル盛り合わせ。そして、友人の新作・東京シリーズ二冊を拝見した。京都写真展にこちらを出品したらとも思ったが、それは、いずれ。拝見すると前回に比べ被写体の表情が自然で、芸術とは次元の異なる家族写真風(もちろん家族ではない訳で)になっていた。これは、どうした事だろうか。撮影がもたらした関係性の進展が、写真から芸術性(客観性)を排除した---芸術である必要はないのだな。「これが人生」か、天井の高い空間には、道行く人達と活気、偽りのパリ。写真を観ながら、可笑しく思った。笑い続けていたいな。---足が痺れると云う、友人の健康が心配になった。

Hors-d’oeuvre variés

AUX BACCHANALES KYOTO