「マン・レイ 1944年」展


Macの画面には展示品、手前は書籍『マン・レイ 1944』
朝一にFacebookを見ていたら、Man Ray ファンのサイトにミラノのマルコニー画廊で昨年の10月7日-24日に開催された『マン・レイ 1944年』展の会場でヤーヌス氏がレクチャーをされているYouTube(Video by Elenora Tarantino)に気付いた。イタリア語だから、もちろん何も判らないがお元気な様子が嬉しい。会場の様子も映し出されていて楽しんだ(カリフォルニア時代のデッサンや版画作品、それに写真などを展示)。今はこうした時代なんだね。それで、スクリーンショットを何点か、マン・レイの残した「小説」が製本されていた(ヤーヌス氏前のケースに入っている)のを知ったのも、なにより。
http://www.youtube.com/watch?v=k-Qd30x3fek&feature=youtu.be




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今朝はギャラリーときの忘れものでの土渕信彦氏連載エッセイ瀧口修造の箱舟」(第5回)を楽しみに起床した。特にわたしの琴線に触れたコレクター魂は---

「もちろん、入手できてうれしかったが、不思議なことに、『マルセル・デュシャン語録』A版の時と同様、形見に触れているような、ある種の痛々しさも覚えた。この複雑で両面的な気持ちは、その後瀧口の作品を購入したときにも、常に感じていたように思う。」

「「出てきた作品を買う」ことを続けていたように思う。いや、買わずにいられなかったと言った方がより正確かもしれない。元はといえば贈り物だった作品が、贈り物としての役割を終えて、流通過程の中で値札などが付けられて売られているのを眼にすると、違和感や痛ましさを覚えた。「このまま見過ごすのは忍びない。一刻も早く救い出して、私の許で可能な限り快適な余生を送ってもらいたい」と思い、それこそが自分の使命であると、ひそかに考えたものである。」

「没後間もない時期から、こうした予感に導かれながら、瀧口の作品ばかりを憑かれたように継続的に購入していたのは、おそらく私だけだっただろう。」

 わたしもマン・レイばかりを「憑かれたように継続的に購入」してきているだけに、氏の気持ちは隅々まで判る気がする。人を惹き付け、人生を変えてしまうような影響力をもった「人」の存在、わたしの場合は、遠い異国の人だから、客観的なスタンスも保持できる距離感だけど、氏の様に身近だと、心が痛む場面がいくつも現れるのではと思う。それでは「コレクション」を続けられないけど、氏に固有の「両面的な気持ち」が、筋を通してコレクター魂を熟成、発酵させてゆくのだと、改めて思った。新年からと云うか、新年だからこそ、熱い連帯の挨拶を贈りたい。
 Ce n'est qu'un debut continuons le combat.